「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできる」 (マルコによる福音書 第 10 章) (“With man this is impossible, but not with God; all things are possible with God.”)2026/03/06 12:21

23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(マルコによる福音書 第 10 章)

23 Jesus looked around and said to his disciples, “How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!”

24 The disciples were amazed at his words. But Jesus said again, “Children, how hard it is[e] to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”

26 The disciples were even more amazed, and said to each other, “Who then can be saved?”

27 Jesus looked at them and said, “With man this is impossible, but not with God; all things are possible with God.”
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「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」というイエス・キリストの教えは有名です。

これは、「富裕層が天国に入るのは不可能である」という意味に解釈される。しかし、さらにイエスは、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできる」と述べて、金持ちでも天国で受け入れられる者はいる、と示唆されている。

それでも、そのような幸運な金持ちは、百人に一人、または、千人に一人だろうと思われる。

それほど、富を保有しているということは、罪深い。

なぜなら、富やカネを得るには、悪魔の教えに従うのが普通だからです。悪魔は人々の欲望を刺激し、欲を満たすには富やカネが必要だと考えさせ、富やカネを得るには、悪魔の教えに従って、利己的に非情になり、貧しい隣人を無視し、不幸な人間を見捨てて、虚偽や暴力を振るって、単純な者、小さな者、弱い者、優しい者につけ込み、支配し、抑圧し、屈従させ、利用することを学ぶ。

これは、資本家が労働者を搾取するという資本主義の社会構造にも表れている。しかし、労働者の中にも、愚かな者を利用して、そのリーダーになり、彼らを利用して社会的な力を得て特権的な地位を目指し、そこで富を享受する者もいる。また、革命を起こして、国を支配し、人々を洗脳して精神的に盲目にし、自由を奪う者もいる。

一般的に、宗教や思想、表現の自由を認める資本主義的民主主義社会の方が、社会主義的専制社会よりも、神様の愛が届きやすい。だから、バチカンなどの教会は、共産主義政権を警戒し、中国などの名目的であっても共産主義政権は宗教団体を毛嫌いする。

共産主義などのイデオロギー自体が、富を神とみなす、物神主義の宗教です。これは、人間よりも富を重視する極端な資本主義と同じく悪魔に従う考えです。

従って、貧しい労働者を救うのは、資本家をどこまでも敵とみなす共産主義者などではなく、労働者を人間として愛するキリスト教などの宗教を認める民主主義的な自由主義だということになる。

実際、西欧の歴史を見ても、悪魔の教えが人間社会に入り込むのに応じて、富と権力を巡る争いが激化し、極端な社会主義/共産主義社会から宗教の自由を認める民主主義的な自由主義の社会の優位が証明されている。

従って、今も政治的/宗教的な専制政治で人々の自由を束縛するロシア、中国、北朝鮮、イランなどは、変革されねばならない。

その意味で、資本主義社会の頂点にあるが、キリスト教に基づく民主主義と自由主義を基本とするアメリカが、人類の代表として相応しいということになる。

自由がなければ、隣人愛も抑圧され、神様への信仰も育たない。偽りの宗教は悪魔を呼び込むが、真の宗教は、神様の助けを得て悪魔に打ち勝つことができる。

最終的には、全人類は、霊的な宗教、又は、心霊的なキリスト教によって共通した宗教をもつべきです。たとえば、この世の仏教とキリスト教の違いは、霊界では解消され、統一されるのです。

「あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」 (Neither can you bear fruit unless you remain in me)2026/03/07 13:04

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(ヨハネによる福音書 第 15 章)

5 “I am the true vine, and my Father is the gardener. 2 He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes[a] so that it will be even more fruitful. 3 You are already clean because of the word I have spoken to you. 4 Remain in me, as I also remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.

5 “I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
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イエス・キリスト様がご自分をブドウの木にたとえられたという説教です。そして、信徒はその枝であると言われた。枝は木の本体と結びついていなけば、実を結ばない。

そして、信徒はイエスと結びついていなければ、「何一つできない」と述べられている。

これは、霊的な言葉です。人間としては、誰もが自由な心で行動は出来るが、その心を生み出しているのは霊なのです。そして、霊界から信徒の心に霊的なエネルギーを与えるのが、イエス・キリストなのです。

神様の思いにそった形で霊的エネルギーを得なければ、信徒は神様の思いに沿ったことはできない。そして、人が神様の霊的エネルギーを得るのは、イエス・キリストの助けによるのです。

霊が自由に活動しても、神様の教えにそった動きとはならない。神様の作られたルールに則って動かなければ、有効な働きは出来ない。自動車が、信号を無視して勝手に走り回っても有効な交通手段とはならない。神様の作られた交通規則に従って動くには、交通警察の役割を果たしているイエスの指示に従って動かなければならない。

要するに、霊は自由に動き回れるが、イエス・キリストと繋がっていなければ、意味のある行動をすることはできない。木の枝は、木の本体から栄養を得て生きる。本体を忘れて、枝だけで生きようとしても無理なのです。

人間は、先祖からの家系の中に生きて、さまざまな伝統を受け継いで生きていくことができる。根無し草のような生き方をすれば、人生の方向性も与えられず滅茶苦茶な生き方になる。だから、祖先を大事にすることが求められのが、人間の生き方になる。

その祖先様より大事なのが、霊的な威厳を持っているイエス・キリスト様なのです。

キリスト教という2千年にわたって成長してきた大木の枝になってこそ、人間は有意義な実を結ぶことができるのです。

逆に、悪魔につながれば、全ての実は腐敗し、暗闇の中で人間の魂は消えてゆく。これが、恐れるべき無の終末です。

神様の大木につながれば、愛と信仰の光の中で、永遠の命を得ることができるというのが本当の霊的なキリスト教なのです。

人をさばくな。自分がさばかれないためである (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.")2026/03/08 12:49

人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)

7 “Do not judge, or you too will be judged.

2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.

3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?

4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
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これは、イエス・キリスト様による基本的な教えです。

「人をさばくな。自分がさばかれないためである」というのが、人間関係の基本になければならない。

誰でも、自分を正義の立場に置き、他人の過ちを責める。しかし、人を裁けば、同じ理由で自分も裁かれると教えておられる。だから、自分が人を裁く立場に置いてはならない。

人を責めるには、いくらでも理由をあげつらうことができる。だから、冤罪というものはなくならない。しかし、また、人を許す理由もいくらでも見つけることができる。裁判でも、人を責めるべき理由を検察官が見つけ出し、人を許すべき理由を弁護士が見つけ出そうとする。それを、公正に判断して、判決を下すのが裁判官だということになる。情状酌量という制度すら設けられており、裁判官には寛容な姿勢が求められている。

しかし、イエス・キリストはさらに、人を裁く立場になってはいけないと述べておられる。どんな罪人にも許すべき理由を見つけ出すのが、同じ人間のすることだという考えです。これは、「隣人を愛せ」というイエスの教えに通じる。隣人が罪人であれば、その罪人を許して、弁護してやることがイエスの教えです。

そもそも、人が罪をおかすのは、その人の心に悪魔が入り込むからです。また、その罪で、被害者となって苦しむ人を見て喜ぶのは悪魔であり、また、犯人が社会によって裁かれて苦しむのを見て喜ぶのも悪魔です。つまり、犯人も被害者も苦しめるのが悪魔なのです。

しかし、害を受けた人間が、加害者を許すことは、普通はできない。被害者という立場であれば、いくらでも加害者を責めることはできる。あたかも、自分が神であるかのように、加害者を責める人間もいる。この被害者感情が行きすぎれば、加害者は全て死刑になる。そうすれば、人間社会は成り立たない。それでも、人類が亡んでも、自分の恨みを果たしたいと考えるのが人間です。その背後には悪魔がいる。

だから、加害者を許すことが人類社会の存在に必要となる。恨みのある人間を許すことが、世界平和の第一歩なのです。しかし、身の回りの恨みのある人間は、絶対に許さないという人間が、世界の平和を唱えて運動をすることもある。そのような人間は、平和活動をするという名誉を求めているが、真の平和を求めてはいないことになる。

また、人に騙されて経済的な損害を受けた人間が、詐欺師を許すことは、普通はあり得ない。それでも、人生という長い目で見れば、被害者自身が詐欺まがいの行為に関与していることもある。人の罪は、我が罪だという境地に立つべきことをイエスは教えている。他人の罪を責め合う社会に発展はない。互いに許し合うという精神が人間社会を発展させるのです。

ただし、罪人は神様の裁きを受ける。絶対的な善である神様は、決して騙されることはない。また、悪魔に誘われて罪を犯した者は、悔い改めれば、主犯の悪魔を責める神様から許される。人間の裁判官は、真犯人を見逃して、無関係の人に罪を定めることはあるが、神様にはそのような誤った判断をなさることはない。だから、神様でない人間は完全に人を裁くことはできない、と承知していなければならない。

長い人生を生きていれば、誰でも全ての人が罪を犯す可能性があることに気づく。また、誰でも被害者となる可能性があることにも気がつく。時に人間を加害者にしたり、被害者にしたりして、とにかく苦しめるのが、悪魔の狙いです。それに、気が付けば、加害者を許すことが人間に求められていることが分かる。真の敵は人間ではなく、悪魔だからです。

悪魔の存在を知ってはいても、自分に害を与える加害者を許すことは、普通の人間にはできない。しかし、被害者と加害者の人生を比較して、正しい裁きを行えるのは神様なのです。そして、被害者が加害者を責め理由は、神様が被害者を扱う場合にも適用される、というのがイエス・キリストの教えなのです。悪魔に従う加害者の心自体を裁けるのは神様なのです。

つまり、人生で自分に何が生じても、どのような被害を他人から受けても、全ては神様の定めた運命であるとして受け入れる姿勢が、信仰者に求められる。

裁判所で、冤罪なのに死刑を言い渡されても、神様への信仰で対処するのが正しいということになる。死後の、霊界では、そのような判決を下した裁判官も、真犯人も地獄に落ち、誤審の被害者は天国に受け入れられる、と信じるのが信仰者なのです。そして、そのような裁判官や真犯人が神様に許されることを祈るのが、信仰者なのです。これが、隣人愛であり、人類愛なのです。

なぜなら、人間の悪の背後には必ず悪魔がいるからです。悪魔の手下となった人間は、むしろ、同情し憐れんでやるのがイエス・キリストの信仰者なのです。

まただれの世話にもならずに、生活できるであろう (テサロニケの信徒への手紙一 第 4 章) (you will not be dependent on anybody)2026/03/09 12:22

10 また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。
11 そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
12 そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。(テサロニケの信徒への手紙一 第 4 章)

10 And in fact, you do love all of God’s family throughout Macedonia. Yet we urge you, brothers and sisters, to do so more and more,
11 and to make it your ambition to lead a quiet life: You should mind your own business and work with your hands, just as we told you,
12 so that your daily life may win the respect of outsiders and so that you will not be dependent on anybody.
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テサロニケは現在のギリシャ第2の規模の都市「テッサロニキ」を意味します。本書は使徒パウロの書簡の中でももっとも早い時期、おそらく紀元50年から52年の終わりまでに書かれたものであるとみなされている。キリスト教内の伝承から新約聖書学にいたるまで、この書簡の筆者がパウロであることを疑う意見はほとんどない。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%81%AE%E4%BF%A1%E5%BE%92%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%E4%B8%80

これは、この世の生活について、道徳的で倫理的な生き方を勧めたものです。「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」というのは、日本でも伝統的に勧められている生き方です。

要するに、一獲千金を狙うような投機的な生き方や、人気者になって得をしようという浮ついた生き方や、やくざのような人の弱みにゆけこむような生き方をしてはならないし、エリートや富裕層を目指してはならない、ということです。

むしろ、農民や職人のような地味な生き方を勧めておられる、これは、霊的には意味がないように思えるが、落ち着いた生活をすることで、精神も落ち着き、今まで感じなかった微妙なことが感じられるようになり、物事に対して深い理解が出来るようになる。

精神が静まれば、その基盤である魂も心に影響を及ぼしやすくなる。そして、魂は心の想念を通して力を発揮できるようになり、神様への願い事も天に通じるようになる。

その結果、「外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できる」ということになる。

品位を保つということは、社会の民度を高めるものであり、卑しくない欲に駆られた姿を人に見せないということです。また、誰かの世話になる生き方をしていれば、その人に精神的に従属するようになる。

欲を満たそうとする人間は、最後には悪魔に従う。悪魔の狙いは人間の品性を堕落させることにあり、恥を恥とも思わない人間を作りだすことにある。また、悪魔の力を求める人間に自分への依頼心を持たせて、自由を奪い、隷属化させ、悪魔の奴隷にしようとする。

要は、食欲、性欲、物欲、金銭欲を求める人間は、悪魔の教えに従って、悪をなし、罪を重ね、そして、最後は破滅して狂う。彼らは、悪魔を神だとして崇め、地獄を天国であるかのように求める。そして、彼らの魂の上では悪魔が哄笑している。

しかし、清貧生活をし、神様の教えを守り、聖書を読んでイエス・キリストの言葉を学んでいれば、悪魔につけ入れられることもなく、天使の助けを得て、神の国に近づき、死後は、霊界で天国に受け入れられるようになる。

どんなに物質的には貧しくても、精神的には品位を保った卑しくない生活をすることができる。真の宗教は、人間の道徳や品性をも改善する。これも、神様による恵みです。

「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」 (ルカによる福音書 第 9 章) (“Let the dead bury their own dead")2026/03/10 11:48

57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。
58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。
60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。
61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。 (ルカによる福音書 第 9 章)

57 As they were walking along the road, a man said to him, “I will follow you wherever you go.”

58 Jesus replied, “Foxes have dens and birds have nests, but the Son of Man has no place to lay his head.”

59 He said to another man, “Follow me.”

But he replied, “Lord, first let me go and bury my father.”

60 Jesus said to him, “Let the dead bury their own dead, but you go and proclaim the kingdom of God.”

61 Still another said, “I will follow you, Lord; but first let me go back and say goodbye to my family.”

62 Jesus replied, “No one who puts a hand to the plow and looks back is fit for service in the kingdom of God.”
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これは、イエス・キリストがこの世における生き方について語った言葉です。特に、ご自分には「まくらする所がない」という言葉は、ホームレスのような生活をされていたことを示しており、また、親族の葬式について「葬ることは、死人に任せておくがよい」と述べて、弔いの儀式よりも、神の御国が大事であり、伝道に集中せよと述べておられる。

これは、この世のしきたりや常識を捨てよということであり、新たな信仰と人生観や世界観を持って神の国をめざすものは、うしろを見る者になってはいけない、そんなことをすれば、「神の国にふさわしくないもの」になると述べておられる。

この世の生き方ではなく、死後の霊界を見据えて、神様への信仰心を持てということであり、ホームレスのような生き方をしても止むを得ず、この世のしきたりにこだわってはならない、と教えておられる。

要するに、この世の物質的な生き方とは縁を切り、後を振り返ることなく、神の国を目指して生きよということです。

死後の霊界では、この世の常識や富、物質は意味がない。霊界で思ったことは直ちに実現し、この世的な物事は全て無意味になる。ただ、人間の感情や思想、信仰心だけがリアルになる。生存中は、心の奥底に隠していた気持ちが霊界では表に現れる。霊は隠し事ができない。天使たちは、霊たちの全てを見通す。

死後の霊界で、生存中のことをいつまでも振り返っていれば、霊界の天国に向かって霊的な成長をすることができない。そういう霊は、浮遊霊となって生きている人の心に取り付く。また、幽霊となってこの世に現れ、生きている人を困らせる。そういう霊を支配するのが悪魔なのです。

悪魔の影響下にあるこの世から、直接、神様のご威光が及ぶ霊界の決まりを認めるように、信仰者に対して、生きている間に心を切り替えよと仰っておられる。

この世の常識は、霊界では無意味なり、霊界の常識は、この世では非常識になる。頭の切り替えが必要なのです。だから、死者の大部分は、この世への未練を持たず、霊界での生活に没頭するのです。霊界からこの世を見れば、余りに物質的欲望で汚れた世界に見えて、とても生き返りたいとは思わないのです。

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