「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」2025/05/20 14:23

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネによる福音書 15:2)

He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes so that it will be even more fruitful.

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イエス・キリストは、神様を農夫に、ご自分をぶどうの木に例えられた。そして、神様は、その木の枝に手を入れ、豊かな実を結ぶように必要な剪定をしておられる、と述べておられる。木の枝とは、人々のことです。

つまり、人々は、イエスの言葉を聞いて、実をつけることが必要です。単に、イエスの説教を聞いて、理解したつもりでは不十分です。実をつけるとは、イエスの言葉を聞いて、その教えに従って行動することです。イエスの教えを知るということは、行動という責任が伴うのです。だから、伝統的にキリスト教会は社会活動をしている。

神父や牧師たちは、個人的な気持ちから人助けをしているのではない。それは、キリスト教の教義であり、人助けがキリスト教の必須の宗教活動なのです。日本国民に、納税義務があるようなものです。

そして、イエスという木につながる枝である信徒や人々は、そのような活動をしなければ、神様によって、イエスという木から取り除かれる。逆に、イエスの教えに従う行為や活動をする者は、さらにその成果が上がるように、農夫が木の枝に手を加えるように、神様がその人生に介入される。

例えば、守護霊という考えが日本にもある。自分は、神仏によって守られていると信ずる宗教人もいる。また、年末年始には神社・仏閣を訪れ、神仏に願い事をする人々は多い。しかし、神仏の教えを守らなくても、自分に罰は当たらないと考えている。しかし、イエスの教えによれば、信者の方もイエスの教えによって生活し、行為し、活動しなければ、イエスの恵みから切り離される。この意味で、キリスト教の神様は厳しい。与え、救うだけの神ではなく、教えに従わない場合は、キリスト教の恵みから切り離す厳しさを持っている。

日本の仏教や神道では、年に一度、年始年末に神社・仏閣に詣でるだけで、願い事が叶えられると考えて、普段は神仏の教えを気にもかけない者も多い。しかし、本来のキリスト教では、信徒の側に教えに従った行為をする義務があり、しかも、果樹が実を結ぶように、成果を上げなければならない。さもなければ、神様によって不信者と同じように、神様の恵みを受けることのできる世界から投げ捨てられる。かつては、具体的には、キリスト教会から追放されることになる。キリスト教の社会的な権威や力が強かった時代には、それは実質的に社会的な死を意味する。

しかし、本当の意味は、霊界の天国から締め出されることを意味する。死後に、霊界に入ったあと、人の霊は天国か地獄に行く。天国から閉め出されれば、最終的には地獄に行くしかない。信者にとって、これほど恐ろしいことはない。だから、生きている間に、信仰の成果をあげようと、信徒はイエスの教えを実践する。だから、キリスト教は教えを聞くだけの宗教ではなく、行動で信仰を証明し、成果をあげなければならない。だから、ホームレスなどが教会に相談に来れば、神父や牧師は彼らを見捨てるわけにはいかない。貧しい人、弱い人、差別を受ける人、小さな人を助けるのがイエスの教えである以上、教会は彼らを見捨てることはできない。

また、多く与えられた者は、多く要求されるという聖書の言葉にもあるように、自分が神様から与えられれば、与えられるほど、自分より貧しい人に多く与えなければならない。キリスト教国の欧米の寄付文化は、このイエス・キリストの教えに根ざしている。

要するに、イエスの教えを聞いた以上は、それに従った生き方をし、行為で表し、活動を行うか、神様によって天国から締め出されるかの選択だということになる。弱者を助ける教会の行為は、弱者のためだけではなく、教会の神父・牧師が天国に受け入れられるためでもある。だから、弱者は教会にとって、本来、顧客以上の恵みをもたらす恩人なのです。従って、教会の神父・牧師は、弱者に対して、ヘリ下らなければならない。政治家が有権者に対して、ヘリ下る必要があるようなものです。

悪魔の教えに従って、弱者を無視するような生き方をしていれば、神父も牧師も信徒も死後、天国には入れない。これが、本当のキリスト教の基本です。弱者に威張るような牧師・神父は、本来、あり得ないものなのです。

逆に、神様とイエスの教えに従って、隣人愛を実践する者は、この世でも神様から霊的な支援を受け、死後は、霊界で天国に受け入れられる。このことを宣言したイエスの言葉は、人々にとって、まさに「喜ばしい知らせ(福音)」なのです。

「まことに、この人は神の子であった」。2025/05/18 20:11

イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコによる福音書 15:39)


And when the centurion, who stood there in front of Jesus, saw how he died, he said, “Surely this man was the Son of God!”

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イエス・キリストが、ユダヤ教の幹部やローマ軍によって磔(はりつけ)の刑にされ、殺害されたときに、ローマ軍の将校である百卒長という地位の人間がイエスを神の子だと認めたときの言葉です。

聖書が書かれるのは、イエスの死後、30年くらいたった時で、まだ、ローマ帝国はキリスト教に改宗していませんが、既に、ローマ帝国がイエスの教えを認める基盤はあったということです。

イエスは、伝道中にローマ軍の兵士や将校を助けたこともあり、エルサレムを占領していたローマ軍の中にもイエスを認める者がいた。しかし、ローマ帝国はユダヤ人の土地を占領しており、ユダヤ教とは良好な関係を維持したいと考えていた。そのため、ユダヤ人の政治的、宗教的な指導者とは良好な関係にあり、ユダヤ人のエリートが危険視するイエスには警戒していた。

これは、戦後、アメリカ軍が日本を占領した時に、日本のエリートや皇室と良好な関係を持とうとしたことを思い出させる。日本を騒乱なく占領するのには、軍部を解体し、天皇家を親米にするのが重要だとアメリカ軍は考え、占領軍の最高司令官のマッカーサー元帥は、天皇による表敬訪問も受け入れた。そのときの、マッカーサー元帥と昭和天皇の写真が日本の新聞で発表され、日本国民は、それまで神だと教えられて来た天皇がマッカーサー元帥に従属するものだと知った。そして、それ以後の占領軍による日本占領は円滑に進んだ。21世紀の今日にいたるまで、皇室は親米路線を維持し、日本政府や日本のエリートも、アメリカを崇拝する姿勢を取っている。

しかし、日本の神道がアメリカの国教になることはなかった。ところが、2千年前のローマ帝国は、占領していたパレスチナのユダヤ人の中の、イエス・キリストの教えを4世紀には公認し、やがて国教とした。それを暗示させるローマ軍の百卒長の言葉が、このように聖書に記録されている。


そういう意味で、アメリカのキリスト教を基盤とするアメリカの民主主義を全面的に受け入れ、キリスト教の精神に基づく新憲法を受け入れた日本人は、しかし、天皇家を廃止することはなかった。今も、ユダヤ教が生きているのと同じように、天皇家も生き続けている。ユダヤ教はキリスト教の基礎として、キリスト教の旧約聖書に記録されており、キリスト教が続く限り、ユダヤ教やユダヤ人は特別な地位を与えられるようになっている。ただし、イエス・キリストを認めないのが、ユダヤ教の姿勢です。

ところが、日本の場合は、戦後、皇室は生き残って親米路線を徹底させ、歴代の日本の親米政府と軌を一にしている。戦前は、日本の軍部によってかつがれていた皇室は、戦後は米軍にかつがれるようになり、アメリカに従属する日本政府も、皇室をかつぎ続けている。しかし、皇室とキリスト教は根本的に相容れない。今の日本人が、現憲法の基盤のキリスト教を取るか、戦前は軍部と結びついてた皇室を取るかの選択を迫れれば、当然、日本人は現憲法/キリスト教を取る。それが分かっているから天皇家は、国民の前で低姿勢を続けている。主権者は国民であり、天皇には主権はないということは、天皇家の地位はいつでも、国民によって変えられるということであり、天皇家は国民の機嫌を伺わなければならない。それでも、伝統的な神道や文化に影響力を持つ天皇家をかつぐ人々は今の日本にも存在する。

天皇家が潜在的に危険なのは、そういう天皇崇拝の政治家が権力を握り、天皇に「戦争やむなし」と言わせれば、再び戦前のように日本は戦争に駆り立てられる可能性があるからです。また、そういう危険性を指摘し、保守政治に反対する左翼勢力は、戦争をして米軍を駆逐したいと思っており、天皇家以上に好戦的な危険な存在です。従って、天皇家の潜在的な危険性を知りつつ、より好戦的な左翼勢力は拒絶するのが得策だというのが、日本の平和のために重要になる。

2千年前には、ローマ帝国に占領されていたユダヤ人は、今ではキリスト教国のアメリカの後押しを得て、イスラエルというユダヤ人の国を持ち、周辺のアラブ人と対立している。このような状況は、神様やイエス・キリストが喜ばれるものではない。必ず、神様やイエス・キリストの介入があると考えられる。特に、平和の元后とされる、聖母マリアの霊は、苦しむガザの人々を見て悲しんでおられる。日本人は、ガザやパレスチナで苦しむアラブ人を見捨ててはならない。

「友のために自分の命を捨てよ。」2025/05/15 23:10

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)

"Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends."

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イエスの弟子たちに対する教えの1つです。

単なる友情のレベルを超えた、隣人愛の実践として、友人を自分のことのように愛せということです。家族や身内以上に、本来、赤の他人のはずの友人への隣人愛が重要なのです。

人類社会が発展したのは、家族主義や身内主義の範囲を超えて、血のつながらない人々の間で、強固な信頼関係を持つことができたからです。このような友情という感情は、動物にはない。

今の世の中でも、友人関係で救われたという例は多い。家族に言えないことでも、親友になら相談できる。社会への不満や制度の矛盾に対する怒りも、友人を通して仲間を広げ、解決策を見出すこともある。逆に、人々を分断し、友人や仲間を増やせないようにするのが、悪の権力者の常套手段です。(冷戦時代の東ヨーロッパでは、反体制者を密告することが奨励されていた。そのような、防諜関係に従事していたのが、今のロシアの大統領のプーチンです。)

極端な場合には、友情のために命を懸けなけねばならない場合がある。歴史上、紛争の絶えなかった欧米では、友情の価値が評価されている。先の第二次世界大戦でも、ナチスが追求するユダヤ人を、友情から命を懸けて匿ったキリスト教徒もいる。また、黒人が奴隷にされていた時代に、黒人への友情から、彼らの逃亡を助けた白人もいる。彼らは、このイエスの言葉に従っていたのです。今でも、キリスト教会はホームレスなどに、友情を示し援助することが、当然とされている。(日本のキリスト教会でもホームレス支援をしている教会は多い。駆け込み寺的な、役割を果たすのが、教会の本来の使命でもある。貧しい人は、教会の友人なのです。)

エリートや富裕層は友人を必要としない。ただし、偽りの友情で結びつく者は多い。互いに相手を軽蔑しながら、表面上は友人同士を演じるのが普通です。むしろ、貧しい人の間で真の友情が見られる。苦境に立ったときに、本当の友情で救われる人も多い。しかし、そのような貧しい人に友人を装って近づき、相手を騙す犯罪者も多い。エリートや富裕層は、他人を信用しないので、むしろ、詐欺にかかりにくい。善良な貧乏人が詐欺の犠牲になることが多い。

それでも、友情の価値を理解しているのは、貧しく底辺の人間です。社会的な立場の弱い人ほど、真の友情の価値を知っている。富裕層、エリートや、上流階級になるほど、偽りの友情が増える。だから、友を選ぶなら非エリート、非富裕層を選ぶのが正しい。ただし、イエスの弟子がカネでイエスを裏切ったように、友情を裏切る人間もいることを忘れてはいけない。

聖書には書かれていないが、イエスへの友情から命を懸けてイエスを守った人もいる。また、死刑にされたイエスの死体を引き取るという勇気のある行為を行った当時の金持ちもいる。弟子以上にイエスを愛していた人もいたのです。家族や身内は、一族の利害を第一に考えるが、真の友情は損得抜きという常識を超えた覚悟を伴う。友人を自分のことのように大切にするからです。

今も、社会の弱者に必要なのは友情です。母子家庭やDVを受ける女性、貧困女性たちも真の友人がいれば、救われることが多い。また、経済的に行き詰まり、金融機関の融資が受けられなくなっても、無償で経済援助をしてくれる友人に助けられる例もある。例えば、漫画家の手塚治虫が、プロダクションの経営に行き詰まったときに、大阪の手塚ファンの事業経営者が助けたという話はよく知られている。

今の世の中ほど、理屈や利害を超えた友情ほど価値のあるものはない。世の中で、一度は苦境に陥っても友人に助けられたという例は、表に出ないが結構、あると思われる。

しかし、政府や役所の政策では、国民の互いの友情など、あてにはしないのが普通ですが、暗黙に家族同士の助け合いや、友人・知人の援助などを前提としている面がある。誰もが、医師や弁護士の友人を持っているわけではない。それでも、欧米ではそのような人間関係が裏で働くことが多い。その延長で、寄付文化というものがある。困っている友人に寄付をするという精神文化がある。これは、聖書の影響です。

とにかく、現代日本でも、友人関係は重要です。最後のセーフティネットは、家族や親類ではなく、真の友人なのです。

そして、友人のいない人には、イエスが霊的な友人になるというのが、聖書の趣旨でもある・・・

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」2025/05/14 01:54

私はあなた方に次のように言わねばならない、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書 5:39)
But I tell you, do not resist an evil person. If anyone slaps you on the right cheek, turn to them the other cheek also.
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これは、ある意味で最も有名なイエスの言葉です。

この言葉を知って、キリスト教など信じられないと考える人もいる。「殴られたら、殴り返せ」と、子供に教える親もいる。

イエス以前には、復讐を認める「(傷つけられた)目には(相手の)目を、歯には歯を」(Eye for eye, and tooth for tooth.
)という掟が世の中の主流だった。これを否定したのがイエスの教えです。

人を傷つけるのは悪人です。その悪人は、当然、悪魔の支配を受けている。悪魔は、人間同士を争わせることを喜びとしている。悪人と善人を戦わせようとするのは悪魔です。だから、まず、悪人に取り付いて、善人を攻撃させ、怒った善人が悪人に報復攻撃をするのを、悪魔は期待している。結果はどうなろうと、そのような戦いで憎しみは増える。愛はなくなる。それが、悪魔の狙いです。

だから、悪魔の取り付いた悪人に逆らって、手向かっても悪魔を喜ばせるだけなのです。敢えて、悪人には逆らわず、手向かわず、相手の暴力を甘受して入れば、天使たちが悪人から悪魔を追い出し、悪人は正気に返り、暴力を恥じるようになる。悪人と善人が殴り合わなければ、その場は平和に収まる。これが、隣人愛の実践です。

その悪人が、どうしても悪魔と縁が切れないようなら、天使たちが、その悪人の心から悪魔を追い出し、その悪人に厳しい罰を課す。その悪人は、それ以後の生活で厳しい運命に直面する。悪魔は、最後には、大天使によって頭を踏み砕かれる。特に、聖母マリアは、悪魔を退散させる霊力を持っているとされる。聖母マリアの前から、悪魔は逃げ出す。

だから、善人は悪人から攻撃を受けても、イエスの教えを信じて、その場の平和を維持し、天使、大天使、聖母マリアなどの救いが来るのをまつべきなのです。

イエスも、弟子の裏切りで逮捕され、ローマ兵に暴行を受けたとき、その霊能力で兵士たちを叩き潰すのではなく、神様の介入を待たれた。ただし、神様はイエスが磔(はりつけ)の刑で死亡するまで介入しなかった。そして、イエスの死後、三日でイエスを蘇(よみがえ)らせられた。そして、イエスの刑の後、30年でローマ軍とユダヤ人は戦争を起こし、エルサレムの神殿は破壊され、ユダヤ教徒はパレスチナから追放され、また、ローマ帝国はその後西暦313年にキリスト教を国教としたが、西暦476年に西ローマ帝国は滅亡した。神様の、ユダヤ教徒やローマ帝国に対する報復は何百年もかけて行われたことになる。(なお、東ローマ帝国は、バチカンの今の神殿が15世紀に建造され始めた頃に消滅した。)

つまり、イエスが2千年前にローマ兵やユダヤ教の幹部に攻撃されても、霊能力で反撃せず、平和を維持したので、今のヨーロッパにキリスト教が普及し、ユダヤ人は第二次大戦の終わりまで主にヨーロッパをさ迷うことになった。イエスが死刑にされる前に見せた平和の行為は、歴史的な効果を生んだ。

イエスほどではないにしても、悪人の暴力に逆らわず、平和を維持した者にも、同様の天の介入がある。悪人は、やがて、厳しい運命に見舞われ、悲劇に会う。しかし、暴力に耐えた善人には、神様の恵みが与えられ、幸運が与えられる。

要するに、「人は人に復讐してはいけない。人に代わって神様や天使が復讐する」という教えもある。悪人の背後には悪魔がおり、善人では悪魔に勝てない。ただし、神様が送ってくれる天使たちは、悪魔に勝てるので、善人は平和を維持しつつ、天の助けを待てということです。

このイエスの言葉は、「復讐は天使がするだろう」という言葉があれば、皆、納得しやすい。それでも、イエスの教えだから、敵の暴力にも我慢していよう、と考えるのが、本当の信仰者です。

「つまずきを、もたらす者は不幸である。」2025/05/06 22:54

イエスは弟子たちに言われた、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」(ルカによる福音書 17:1)

Jesus said to his disciples: “Things that cause people to stumble are bound to come, but woe to anyone through whom they come.

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これは、人は過ちを犯すものであるが、他人に過ちを犯させた者は、もっと罪が大きいという意味です。「つまずき」とは、罪や失敗ということです。

今の多くのシステムでは、人間はエラーを犯すものだということを前提として構築されている。つまり、ヒューマン・エラーを見越して、複数のシステムが用意されている。しかし、悪意を持った人間は、他人にエラーを犯させることがある。そのような、悪意を持った人間は、より罪が大きいということを意味しているのです。

これは、実際に日常生活で、よく見られることです。いわゆる、知能犯と言われる犯罪行為もこれに属する。また、他人を嫉妬し、憎しみ、その不幸を願う者も多い。そういう人間は、相手をわざと罪を犯さざるを得ないような状態に持って行くことがある。いわゆる、「他人をはめる」と言う行為です。

2千年前にも、こういう人間が多かったことをイエスの言葉は示している。

今でも、部下に違法行為の責任を負わせたり、手下に違法行為を行わせたり、あるいは、知人に違反行為の責任をなすりつける者も多い。知能犯になれば、うまく他人に違法行為をせざるを得ない状況に追い込む例もある。また、警察官に加害者が被害者を装って、被害者に罪をなすりつけるものがいる。冤罪事件の背後には、そのような真犯人がいる。

しかし、意図的に他人をして、違反行為をするように仕向ける者は、違反行為をした者より悪質だということです。

また、世間は、そのような悪質なトリックに騙されやすい。だから、イエスは人の罪を責めてはならないと警告している。人に何らかの理由で憎しみを抱いた者は、相手を罪に陥れようとするのは、昔から変わらない。

政治家も、部下の秘書に罪を負わせる。やくざの親分は、子分に罪を負わせる。会社の上役も、業務の失敗の責任を部下に負わせる。立場の弱い者が、犠牲になるのは昔から変わらない。だから、誰でも出世し、他人より強い立場になろうとする。また、社会のエリートになれば、たいていの罪は誤魔化すことができる。そういう社会に、警告を発したのがイエスなのです。

こういう社会の常識を扱った言葉は、エリート主義の教団や階層的な宗教では扱わない。そういう宗教団体でも、上位の者が、下位の者に罪を負わせることが、当然のことのように行われていることも多い。それを、イエスは責めているのです。

つまり、人間は誰でもミスや失敗、違反行為を犯すものだが、それを他人に行わせる者は、もっと罪が重いということをイエスは述べている。

実際、世の中では、飛んでもない欺瞞が行われている。そこで、陰謀論や都市伝説という暴露行為が行われる。また、その陰謀論を利用する者も出てくる。最後は、何が真実か分からなくなる。そして、いわゆる社会の常識が認める結論になる。

しかし、そういう常識自体を疑え、という警告をイエスは出しているのです。だから、聖書を学んで、そのような悪を避ける必要があるのです・・・
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