「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」 (ヨハネによる福音書 第 15 章) ( “I am the vine; you are the branches.") ― 2026/05/12 10:34
3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヨハネによる福音書 第 15 章)
3 You are already clean because of the word I have spoken to you. 4 Remain in me, as I also remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.
5 “I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing. 6 If you do not remain in me, you are like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned. 7 If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you.
+++ +++ +++
イエス・キリストは、たとえ話を多く使った。学問も、学歴もない当時の貧しい人でも、イエスのたとえ話の意味は良く理解できた。
日常的な言葉を使って、人間と信仰の本質について、真理を語ったのです。だから、無学、無教養だった2000年前のパレスチナの貧民も、イエスの教えの神髄を理解できた。イエスは、宗教論、神学、神秘主義の理論を人々に教えたわけではない。
実際、この世の物質界は、神様の想念によって霊界から生み出されたものであり、この世の全ての物質に神様の霊がこもっている。だから、この世の何でも神様の力につながる。難しい、理論や学説でなくても、神様の威力について語ることが出来る。それは、人間界の現象も神様の威厳につながり、人間界の平凡な出来事も、神様の威力に通じるからです。
だから、イエスは神様の威力を日常的な言葉で語ることができたのです。ただ、人々の心が神様の方を向けば、平凡な日常的な事柄の奥に神様の威力が働いていることに気がつくのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉は、そのような無限の力を持った神様につかわされた者であることを、イエスは述べているのです。
神様の力によって、物質界が成立しているように、イエスの信仰者は、イエスの力でこの世に存在することができるのです。
その神様の力に反抗するのが悪魔であり、人々の心を神様の方向からそらし、物質的な欲望を追求させようとしている。だから、富と権力、物質的な幸福を求める心は、悪魔のコントロール下にあり、神様の教えではなく、悪魔の教えに従っていることになる。
悪魔は、人間に物質的な欲望を追跡させ、快適、快楽、快感を与えて悪魔の僕として、悪魔は人間に対して神のように振る舞い、やがて、その人生を破滅させて悪魔は喜び、その人間の死後は霊界の地獄に連れ込む。そのような、悪魔の企てを打ち破るために、イエス・キリストは人間界に来たのです。
現代の物質文明は、イエス・キリストの教えによる、霊的な真理に基づいたものではないため、やがて亡びる。それが、イエス・キリストの死後、2000年たった21世紀だというのが、霊的な神学の基本です。
今こそ、人々は悪魔の影響から脱して、霊的なイエス・キリストの教えに従って、万物の創造主である神様の御心に立ち返るべきときです。
そのためには、物質的欲望を捨てて、自然な人間の心に目を向けるべきなのです。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヨハネによる福音書 第 15 章)
3 You are already clean because of the word I have spoken to you. 4 Remain in me, as I also remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.
5 “I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing. 6 If you do not remain in me, you are like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned. 7 If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you.
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イエス・キリストは、たとえ話を多く使った。学問も、学歴もない当時の貧しい人でも、イエスのたとえ話の意味は良く理解できた。
日常的な言葉を使って、人間と信仰の本質について、真理を語ったのです。だから、無学、無教養だった2000年前のパレスチナの貧民も、イエスの教えの神髄を理解できた。イエスは、宗教論、神学、神秘主義の理論を人々に教えたわけではない。
実際、この世の物質界は、神様の想念によって霊界から生み出されたものであり、この世の全ての物質に神様の霊がこもっている。だから、この世の何でも神様の力につながる。難しい、理論や学説でなくても、神様の威力について語ることが出来る。それは、人間界の現象も神様の威厳につながり、人間界の平凡な出来事も、神様の威力に通じるからです。
だから、イエスは神様の威力を日常的な言葉で語ることができたのです。ただ、人々の心が神様の方を向けば、平凡な日常的な事柄の奥に神様の威力が働いていることに気がつくのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉は、そのような無限の力を持った神様につかわされた者であることを、イエスは述べているのです。
神様の力によって、物質界が成立しているように、イエスの信仰者は、イエスの力でこの世に存在することができるのです。
その神様の力に反抗するのが悪魔であり、人々の心を神様の方向からそらし、物質的な欲望を追求させようとしている。だから、富と権力、物質的な幸福を求める心は、悪魔のコントロール下にあり、神様の教えではなく、悪魔の教えに従っていることになる。
悪魔は、人間に物質的な欲望を追跡させ、快適、快楽、快感を与えて悪魔の僕として、悪魔は人間に対して神のように振る舞い、やがて、その人生を破滅させて悪魔は喜び、その人間の死後は霊界の地獄に連れ込む。そのような、悪魔の企てを打ち破るために、イエス・キリストは人間界に来たのです。
現代の物質文明は、イエス・キリストの教えによる、霊的な真理に基づいたものではないため、やがて亡びる。それが、イエス・キリストの死後、2000年たった21世紀だというのが、霊的な神学の基本です。
今こそ、人々は悪魔の影響から脱して、霊的なイエス・キリストの教えに従って、万物の創造主である神様の御心に立ち返るべきときです。
そのためには、物質的欲望を捨てて、自然な人間の心に目を向けるべきなのです。
「口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」 (マルコによる福音書 第 7 章) (This people honoureth me with their lips, but their heart is far from me. Howbeit in vain do they worship me, teaching for doctrines the commandments of men) ― 2026/05/10 18:23
5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。(マルコによる福音書 第 7 章)
5 Then the Pharisees and scribes asked him, Why walk not thy disciples according to the tradition of the elders, but eat bread with unwashen hands?
6 He answered and said unto them, Well hath Esaias prophesied of you hypocrites, as it is written, This people honoureth me with their lips, but their heart is far from me.
7 Howbeit in vain do they worship me, teaching for doctrines the commandments of men.
8 For laying aside the commandment of God, ye hold the tradition of men, as the washing of pots and cups: and many other such like things ye do.
+++ +++ +++
これは、神様の教えとこの世の宗教家の教えに対するイエス・キリストの判断です。
宗教家は、宗教団体が作った教えを、神様かの教えだとして信者に強要する。しかし、彼らは「口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」として、イエスは批判している。
神様の教えには、悪魔の影響は全くない。その違いが分からなければ、本当の宗教家とは言えない。
神様の子だとされるイエス・キリストには、純粋の神様の教えと。悪魔の影響を受けたこの世の人々の教えの違いが明瞭に分かるのです。
平和を説きながら、戦争を推進する政治家や、貧しく弱い外国を経済的に支配しながら、平和活動をする大国の市民のようなものです。
人間の全ての活動は、愛と信仰に基づくものでなければまらない。
6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。(マルコによる福音書 第 7 章)
5 Then the Pharisees and scribes asked him, Why walk not thy disciples according to the tradition of the elders, but eat bread with unwashen hands?
6 He answered and said unto them, Well hath Esaias prophesied of you hypocrites, as it is written, This people honoureth me with their lips, but their heart is far from me.
7 Howbeit in vain do they worship me, teaching for doctrines the commandments of men.
8 For laying aside the commandment of God, ye hold the tradition of men, as the washing of pots and cups: and many other such like things ye do.
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これは、神様の教えとこの世の宗教家の教えに対するイエス・キリストの判断です。
宗教家は、宗教団体が作った教えを、神様かの教えだとして信者に強要する。しかし、彼らは「口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」として、イエスは批判している。
神様の教えには、悪魔の影響は全くない。その違いが分からなければ、本当の宗教家とは言えない。
神様の子だとされるイエス・キリストには、純粋の神様の教えと。悪魔の影響を受けたこの世の人々の教えの違いが明瞭に分かるのです。
平和を説きながら、戦争を推進する政治家や、貧しく弱い外国を経済的に支配しながら、平和活動をする大国の市民のようなものです。
人間の全ての活動は、愛と信仰に基づくものでなければまらない。
「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 (ヨハネによる福音書 第13章) (“You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”) ― 2026/04/20 13:31
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第13章)
13 It was just before the Passover Festival. Jesus knew that the hour had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he loved them to the end.
2 The evening meal was in progress, and the devil had already prompted Judas, the son of Simon Iscariot, to betray Jesus. 3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
+++ +++ +++
これは、この世で最後の最後の晩餐のときに、イエス・キリストが弟子たちの脚を、召し使いのように洗って清めたという話しです。
主であるイエスが、その弟子たちの脚を召し使いのように洗うということは、常識では考えられないことであり、弟子のペテロは驚いたが、イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と述べて、弟子たちの脚を洗われたのです。
これは、イエスの謙虚さを通り越した行いです。この後、ユダヤ教の司祭やローマ軍に逮捕され、十字架の刑で死亡するイエス・キリストの記憶は、弟子たちには自分の脚を召し使いのように洗うイエスの姿だとして残されることになる。
さまざまな奇跡を起こし、天の軍勢をも呼ぶことのできるイエスが、全く何の抵抗もせずに、敵に逮捕され、殺されるのを是認するなどとは、弟子たちにっとって考えられないことだったのです。
神の子であるイエスが、人間の弟子たちの脚を、その召し使いのようにして洗うということは、イエスがいつでも倒せる悪魔の陰謀を受け入れて、ユダヤ教の幹部たちに身を任せるということを意味している。イエス・キリストは弟子たちに、いつでも、ご自分の脚を洗わすようにさせることができるのに、逆に弟子の脚を洗ったということは、いつでも倒せる悪魔の陰謀にのって、悪魔に好きなままにさせ、その悪質さを曝け出させ、最後に、悪魔を打ち破るという計画を立てられたということです。
イエス・キリストに脚を洗われた弟子たちは、イエスの刑死と復活のあとで、そのイエス・キリストの作戦に気が付いて、悪魔の罠を避けることができるようになった。
また、イエス・キリストがこの時見せた謙虚な姿が目に焼き付いた弟子たちは、人々に対して、自分も謙虚でなければ、悪魔につけ込まれることを悟ったのです。
悪魔は、人間の優越感や、他人に対する上位の感覚につけ込み、その心の中に入り込み、やがて、その心を支配する。そして、神様の教えを無視させ、やがては、悪魔を神だと崇めるようにさせる。
しかし、天使より神様に近いイエス・キリストが、神様によって作られらたに過ぎない人間に、召し使いのように脚を洗って仕えるということは、悪魔はその程度の芝居をするものだと、逆に悪魔の脅威を教えているのです。
人間より、はるかに霊力の強い悪魔が、ヘリ下って人間の召し使いのような姿で現れ、人間に受け入れられ、やがて、人間の心に入り込み、最後には人間の心を支配し、人間を悪魔の奴隷とする。この悪魔の陰謀と計略に警戒するようにという、イエス・キリストの命を掛けた教えがここに現れている。
霊界を知っているイエス・キリストにとって、肉体の死など恐れることではないが、神様に逆らおうとする悪魔の悪意を感じて、人間たちに悪魔を警戒するように教えるために、イエス・キリストは弟子たちの脚を洗われたのです。
このイエス・キリストによる弟子の脚洗いの意味は、2000年にわたって議論されてきたが、まだ、完全に解明されてはいない。しかし、悪魔を倒すには、悪魔の召し使いとなって悪魔の脚を洗い、悪魔に受け入れさせ、悪魔の心に入り込み、最後には悪魔をだまして倒すくらいのことは、しなくてはならない。悪魔との戦いに対する教えなのです。
なぜなら、神の子、イエス・キリストの敵は悪魔であり、人間界を支配しようとする悪魔を倒すことがイエス・キリストの最大の目的であり、そのために、イエス・キリストは悪魔に負けたかのように十字架上での死を受けいられ、そして、三日後に蘇って、その教えを普及させることで悪魔の裏をかき、悪魔の計略を破壊することにされたのです。
しかし、悪魔はあきらめない。今でも、悪魔はしつこく、人間界で働いている。その悪魔を制するのは、神様の教えと、イエス・キリストの言葉なのです。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第13章)
13 It was just before the Passover Festival. Jesus knew that the hour had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he loved them to the end.
2 The evening meal was in progress, and the devil had already prompted Judas, the son of Simon Iscariot, to betray Jesus. 3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
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これは、この世で最後の最後の晩餐のときに、イエス・キリストが弟子たちの脚を、召し使いのように洗って清めたという話しです。
主であるイエスが、その弟子たちの脚を召し使いのように洗うということは、常識では考えられないことであり、弟子のペテロは驚いたが、イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と述べて、弟子たちの脚を洗われたのです。
これは、イエスの謙虚さを通り越した行いです。この後、ユダヤ教の司祭やローマ軍に逮捕され、十字架の刑で死亡するイエス・キリストの記憶は、弟子たちには自分の脚を召し使いのように洗うイエスの姿だとして残されることになる。
さまざまな奇跡を起こし、天の軍勢をも呼ぶことのできるイエスが、全く何の抵抗もせずに、敵に逮捕され、殺されるのを是認するなどとは、弟子たちにっとって考えられないことだったのです。
神の子であるイエスが、人間の弟子たちの脚を、その召し使いのようにして洗うということは、イエスがいつでも倒せる悪魔の陰謀を受け入れて、ユダヤ教の幹部たちに身を任せるということを意味している。イエス・キリストは弟子たちに、いつでも、ご自分の脚を洗わすようにさせることができるのに、逆に弟子の脚を洗ったということは、いつでも倒せる悪魔の陰謀にのって、悪魔に好きなままにさせ、その悪質さを曝け出させ、最後に、悪魔を打ち破るという計画を立てられたということです。
イエス・キリストに脚を洗われた弟子たちは、イエスの刑死と復活のあとで、そのイエス・キリストの作戦に気が付いて、悪魔の罠を避けることができるようになった。
また、イエス・キリストがこの時見せた謙虚な姿が目に焼き付いた弟子たちは、人々に対して、自分も謙虚でなければ、悪魔につけ込まれることを悟ったのです。
悪魔は、人間の優越感や、他人に対する上位の感覚につけ込み、その心の中に入り込み、やがて、その心を支配する。そして、神様の教えを無視させ、やがては、悪魔を神だと崇めるようにさせる。
しかし、天使より神様に近いイエス・キリストが、神様によって作られらたに過ぎない人間に、召し使いのように脚を洗って仕えるということは、悪魔はその程度の芝居をするものだと、逆に悪魔の脅威を教えているのです。
人間より、はるかに霊力の強い悪魔が、ヘリ下って人間の召し使いのような姿で現れ、人間に受け入れられ、やがて、人間の心に入り込み、最後には人間の心を支配し、人間を悪魔の奴隷とする。この悪魔の陰謀と計略に警戒するようにという、イエス・キリストの命を掛けた教えがここに現れている。
霊界を知っているイエス・キリストにとって、肉体の死など恐れることではないが、神様に逆らおうとする悪魔の悪意を感じて、人間たちに悪魔を警戒するように教えるために、イエス・キリストは弟子たちの脚を洗われたのです。
このイエス・キリストによる弟子の脚洗いの意味は、2000年にわたって議論されてきたが、まだ、完全に解明されてはいない。しかし、悪魔を倒すには、悪魔の召し使いとなって悪魔の脚を洗い、悪魔に受け入れさせ、悪魔の心に入り込み、最後には悪魔をだまして倒すくらいのことは、しなくてはならない。悪魔との戦いに対する教えなのです。
なぜなら、神の子、イエス・キリストの敵は悪魔であり、人間界を支配しようとする悪魔を倒すことがイエス・キリストの最大の目的であり、そのために、イエス・キリストは悪魔に負けたかのように十字架上での死を受けいられ、そして、三日後に蘇って、その教えを普及させることで悪魔の裏をかき、悪魔の計略を破壊することにされたのです。
しかし、悪魔はあきらめない。今でも、悪魔はしつこく、人間界で働いている。その悪魔を制するのは、神様の教えと、イエス・キリストの言葉なのです。
(「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」) (ルカによる福音書 第 5 章) (“I tell you, get up, take your mat and go home.”) ― 2026/04/19 14:14
22 イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。
23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。(ルカによる福音書 第 5 章)
22 Jesus knew what they were thinking and asked, “Why are you thinking these things in your hearts? 23 Which is easier: to say, ‘Your sins are forgiven,’ or to say, ‘Get up and walk’? 24 But I want you to know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins.” So he said to the paralyzed man, “I tell you, get up, take your mat and go home.” 25 Immediately he stood up in front of them, took what he had been lying on and went home praising God. 26 Everyone was amazed and gave praise to God. They were filled with awe and said, “We have seen remarkable things today.”
+++ +++ +++
これは、人の病気を癒すことと、人の罪を許すことのどちらがた易いかという、ことの質問が、イエス・キリストによって、ユダヤ教の幹部や形式主義と偽善の象徴とされるパリサイ人に向けて出された言葉です。
ユダヤ教の祭司たちは、人の罪を許すという行為を神様の代理として行っていたが、病の人を癒すことはできなかった。
見ればすぐに分かる治療行為もできないのに、証明することも否定することもできない、罪の赦しという行為を行っていたユダヤ教の幹部たちは、人の病を癒して、人の罪が許された証拠だというイエスの教えに驚嘆したのです。
イエスは、人の罪が許されたから、その人の病も癒されたという、霊的な信仰による超能力を発揮して病の人を癒したのです。しかし、霊能力もないユダヤ教の祭司たちは、人の病も治せず、ただ、言葉だけで、罪が神様によって許されたという誰も証明のできないことを言っているだけです。
イエス・キリストが、病人の病は魂の罪から来ていることを見抜き、まず神様のように病人の罪を許し、その結果、病が癒されたことを誰にも分かるように証明したことは、インチキ宗教家のような連中にとっては、まさに、脅威だったのです。
「罪が許された」という証明のできないことは、インチキ宗教家なら平気で言える。しかし、病を癒すことは医者でもむつかしい。だから、インチキ宗教家は、病人に病が癒されたとは言えない。
しかし、イエスもインチキ宗教家のように、「罪が許された」と述べたが、さらに、その結果、人の病が癒されるということを、誰にも分かるように証明した。インチキ宗教家のように振る舞いながら、インチキならできないような病気の癒しを行ったのです。
実際、今でも難病になり、病院では治らないために、宗教家や心霊治療家に頼る人もいる。イエスもそのような心霊治療家だった。霊能力で人の病を癒すというのが、難病はその人の罪によるものだということが信じられていた社会では、まず、神様によって罪を許されなければ、難病は治らないと考えられていた。今では、霊的な罪と肉体的な病の間には、関係はないとされているが、科学の未発達な時代には、両者に密接な関係があると考えられていた。だから、病人は罪人であるとされて、精神的に苦しめられていた。
そのような世界で、イエス・キリストは、肉体の難病と霊的な罪の関係は否定せずに、罪は許されたと述べて精神的に病人を救い、さらに、超能力で物理的な病も癒したのです。
インチキ宗教家には、どちらもできないが、イエスはまず病を癒し、次に、霊的な罪は許されたと宣言した。これは、超能力のないインチキ宗教家にはできないことです。だから、今でも心霊治療家は宗教心が強く、病が霊的な問題から生じていることを理解している。霊的に問題があれば、肉体にも悪影響が生じることが多い。「病は気から」という諺も日本にはある。ただし、霊的な罪だけが病を起こすわけではない。それでも、霊的な問題が解決すれば、肉体にも好影響が現れる。しかし、科学が万能の世界では、心霊治療の奥深さは理解されない。
実際、この世は神様が霊的エネルギーを使って創造されたものであるから、肉体の病も霊的な影響を受けている。それを素直に信じていた時代には、病と霊的な罪には関係があると人々が考えていたことも当然です。しかし、霊的な罪と霊的なエネルギーの問題は、必ずしも一致しない。それでも、イエス・キリストは肉体の病と霊的な罪の関係は否定せずに、霊能力で霊的なエネルギーの問題を解決し、物質的な病を治した。これは、霊能力も超能力もないインチキ宗教家にはできないことです。
イエス・キリストは、人の病という物質的な問題も、霊的エネルギーを正しく働くようにさせれば解決することを示したのです。そして、霊的エネルギーの正しい働きを阻害しているのは、その人の霊的状態に生じた罪だということを見抜いたのです。現代科学や医学では理解できない考え方ですが、物質の根源には霊的エネルギーがあることを理解すれば、この考えは理解することができる。
霊的エネルギーを神様のように扱えたイエス・キリストは、物理的な肉体の病を霊という根本から癒すことができたのです。
インチキ宗教家とは、レベルの違う霊能力を持ったイエス・キリストだからできたことなのです。
だから、今でも信仰心の高い霊能力者や超能力者は心霊治療で人の病を治している。彼らの力は、科学では到達できない霊的エネルギーの世界に通じているからです。
無意識にそのような霊能力を発揮した人物として、高塚光がいるが、彼は宗教には無関心で、ただ、霊的な力を信じていた。他方、イギリスのハリー・エドワーズは、霊の力を信じ、イエス・キリストを信じていたが、イギリス国教会は心霊治療とは距離を置いていた。
いずれにしても、霊的エネルギーと物質的な病との関係は、イエス・キリストが扱った大きな問題だった。
23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。(ルカによる福音書 第 5 章)
22 Jesus knew what they were thinking and asked, “Why are you thinking these things in your hearts? 23 Which is easier: to say, ‘Your sins are forgiven,’ or to say, ‘Get up and walk’? 24 But I want you to know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins.” So he said to the paralyzed man, “I tell you, get up, take your mat and go home.” 25 Immediately he stood up in front of them, took what he had been lying on and went home praising God. 26 Everyone was amazed and gave praise to God. They were filled with awe and said, “We have seen remarkable things today.”
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これは、人の病気を癒すことと、人の罪を許すことのどちらがた易いかという、ことの質問が、イエス・キリストによって、ユダヤ教の幹部や形式主義と偽善の象徴とされるパリサイ人に向けて出された言葉です。
ユダヤ教の祭司たちは、人の罪を許すという行為を神様の代理として行っていたが、病の人を癒すことはできなかった。
見ればすぐに分かる治療行為もできないのに、証明することも否定することもできない、罪の赦しという行為を行っていたユダヤ教の幹部たちは、人の病を癒して、人の罪が許された証拠だというイエスの教えに驚嘆したのです。
イエスは、人の罪が許されたから、その人の病も癒されたという、霊的な信仰による超能力を発揮して病の人を癒したのです。しかし、霊能力もないユダヤ教の祭司たちは、人の病も治せず、ただ、言葉だけで、罪が神様によって許されたという誰も証明のできないことを言っているだけです。
イエス・キリストが、病人の病は魂の罪から来ていることを見抜き、まず神様のように病人の罪を許し、その結果、病が癒されたことを誰にも分かるように証明したことは、インチキ宗教家のような連中にとっては、まさに、脅威だったのです。
「罪が許された」という証明のできないことは、インチキ宗教家なら平気で言える。しかし、病を癒すことは医者でもむつかしい。だから、インチキ宗教家は、病人に病が癒されたとは言えない。
しかし、イエスもインチキ宗教家のように、「罪が許された」と述べたが、さらに、その結果、人の病が癒されるということを、誰にも分かるように証明した。インチキ宗教家のように振る舞いながら、インチキならできないような病気の癒しを行ったのです。
実際、今でも難病になり、病院では治らないために、宗教家や心霊治療家に頼る人もいる。イエスもそのような心霊治療家だった。霊能力で人の病を癒すというのが、難病はその人の罪によるものだということが信じられていた社会では、まず、神様によって罪を許されなければ、難病は治らないと考えられていた。今では、霊的な罪と肉体的な病の間には、関係はないとされているが、科学の未発達な時代には、両者に密接な関係があると考えられていた。だから、病人は罪人であるとされて、精神的に苦しめられていた。
そのような世界で、イエス・キリストは、肉体の難病と霊的な罪の関係は否定せずに、罪は許されたと述べて精神的に病人を救い、さらに、超能力で物理的な病も癒したのです。
インチキ宗教家には、どちらもできないが、イエスはまず病を癒し、次に、霊的な罪は許されたと宣言した。これは、超能力のないインチキ宗教家にはできないことです。だから、今でも心霊治療家は宗教心が強く、病が霊的な問題から生じていることを理解している。霊的に問題があれば、肉体にも悪影響が生じることが多い。「病は気から」という諺も日本にはある。ただし、霊的な罪だけが病を起こすわけではない。それでも、霊的な問題が解決すれば、肉体にも好影響が現れる。しかし、科学が万能の世界では、心霊治療の奥深さは理解されない。
実際、この世は神様が霊的エネルギーを使って創造されたものであるから、肉体の病も霊的な影響を受けている。それを素直に信じていた時代には、病と霊的な罪には関係があると人々が考えていたことも当然です。しかし、霊的な罪と霊的なエネルギーの問題は、必ずしも一致しない。それでも、イエス・キリストは肉体の病と霊的な罪の関係は否定せずに、霊能力で霊的なエネルギーの問題を解決し、物質的な病を治した。これは、霊能力も超能力もないインチキ宗教家にはできないことです。
イエス・キリストは、人の病という物質的な問題も、霊的エネルギーを正しく働くようにさせれば解決することを示したのです。そして、霊的エネルギーの正しい働きを阻害しているのは、その人の霊的状態に生じた罪だということを見抜いたのです。現代科学や医学では理解できない考え方ですが、物質の根源には霊的エネルギーがあることを理解すれば、この考えは理解することができる。
霊的エネルギーを神様のように扱えたイエス・キリストは、物理的な肉体の病を霊という根本から癒すことができたのです。
インチキ宗教家とは、レベルの違う霊能力を持ったイエス・キリストだからできたことなのです。
だから、今でも信仰心の高い霊能力者や超能力者は心霊治療で人の病を治している。彼らの力は、科学では到達できない霊的エネルギーの世界に通じているからです。
無意識にそのような霊能力を発揮した人物として、高塚光がいるが、彼は宗教には無関心で、ただ、霊的な力を信じていた。他方、イギリスのハリー・エドワーズは、霊の力を信じ、イエス・キリストを信じていたが、イギリス国教会は心霊治療とは距離を置いていた。
いずれにしても、霊的エネルギーと物質的な病との関係は、イエス・キリストが扱った大きな問題だった。
「サタンよ、引きさがれ」 (マタイによる福音書 第 16 章) “Get behind me, Satan! )" ― 2026/04/18 16:17
22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
+++ +++ +++
イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
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イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
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