「神の国は一粒のからし種のようなものである」(the kingdom of God is like a mustard seed)(ルカによる福音書 13:18~19)2025/07/09 13:45

Then Jesus asked, “What is the kingdom of God like? What shall I compare it to? It is like a mustard seed, which a man took and planted in his garden. It grew and became a tree, and the birds perched in its branches.”


そこでイエスは言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。それは、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。(ルカによる福音書 13:18~19)
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からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度です。

聖書や西洋文学では、最小の単位、最も弱い者、貧しい者をあらわすとされている。2千年前のイエスの時代にも、小粒の種として知られていたので、イエス・キリストはそのたとえ話に用いている。

どんな巨木でも、植物の多くは一粒の種から成長する。指先に乗るような種が、やがて大きく育つのは、自然の驚異です。その種の中には、DNAや遺伝子がある。地上の全生物は共通のDNA構造を持っており、そのDNA分子の機能に従って成長する。だから、地球自体が生物体だという考えもできる。全ての生物は、DNA構造を通してつながっていると考えられる。

ただし、霊的なDNAというものは、まだ見つかっていない。肉体が滅び、肉体のDNAが停止しても、霊的なDNAは生き続け、肉体の死後は、霊は霊界に入る。これが、何十万年の人類の精神史が伝える結論です。肉体の他に、心、精神、霊があるのが人間だということに、古代から人間は気づいていた。それが、さまざまな宗教の基盤になっている。

心を使わない宗教というものはない。しかし、科学では心自体を解明できない。科学者がその心を使って研究し、結局、肉体の中に心を発見できなかったので、心は存在しない、などと狂ったことを考える傾向にある。心を使いながら、心は存在しないと宣言するのが、科学者の限界です。しかし、真実を知っているイエスは、肉体より霊が重要であるとして、霊について多くを語っている。そのような教えの1つが、この言葉です。

からし種のような小さな霊的な信仰心でもあれば、やがて、その信仰心が育って、その人間の人生を形作るようになり、霊的な能力も発揮できるようになり、多くの人に好影響を与え、空を飛ぶ鳥が豊かな木に舞い降りるように、さまざまな霊や人がその人に助けを求めるようになる。このような信仰心のある人が作るのが神の国なのです。

日本語でも、「山椒の実は小さくても、ぴりりと辛い」といって、小さいからといって侮ってはならないと教えている。武術でも、芸術でも名人、達人と呼ばれる人間には小柄な人間が多い、というのもよく知られている。体格が良い人間は、暴力で人を従わせるという安易な考えをもちやすいが、小柄な人間ほど術を磨き、腕を高める工夫をするので、大柄な暴力崇拝者を制することも多い。日本の文化は、そのような伝統の上に立っている。ただし、西洋などでは、体格の大きなことが称賛される傾向にある。だから、ナイフや拳銃のような手軽な武器がよく使用され、小柄な人間をなめることは危険だという考えもある。霊能力は、体格とは関係ない。山をも動かす霊能力があれば、人間の体格など無意味です。


同じように、どんなに大きな植物でも、出発点は小粒の種です。また、偉大な霊能力をもった人間の心も、幼い時に学んだ信仰の教えが出発点になることもある。心の中の純粋な信仰心は、外見からは見えないが、大きな働きを持つDNAや遺伝子のように、いずれは発現して、社会の中で大きな働きをさせるようになる。また、長い歴史の中でも朽ち果てることのない業績をもたらす。

偉大なことも、出発点は小さなことが多い。だから、子供の教育とは、そのような、からし種のような才能を伸ばさせることでなければならない。教会でも、始めは目立たない小さな信者であった人物が、やがて、教会の運命を変えるような働きをすることも多い。

信仰や善行のからし種は、見えない所で成長を続けるものです。

「口から出るものが人を汚すのである」(what comes out of their mouth, that is what defiles them) (マタイによる福音書 15:11)2025/07/09 00:02

What goes into someone’s mouth does not defile them, but what comes out of their mouth, that is what defiles them.”

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。(マタイによる福音書 15:11)

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これは、イエス・キリストがユダヤ教の敵対者の律法学者などを前にして、人々に語った教えです。人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で、自分自身が汚れると教えている。

当時のユダヤ教には多くの戒律があり、食べ物についてもさまざまな制限があった。しかし、そのような戒律は無意味であり、人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で自分の魂を汚すことになる、とイエスは述べている。

当時のユダヤ教は、人々を支配するための宗教となっており、食べ物に至るまで規制をし、許されないものを食べると、汚れるといって人々の生活に干渉していた。しかし、イエスは、人間の魂は食べ物によって汚れることはない。むしろ、魂を汚すのは他人に対する悪意のある言葉だと述べたのです。つまり、イエスの悪口を言う律法学者などは、その悪口で自分自身を汚しているのだと、暗に責めておられる。

どの宗教でも戒律や規則があり、その信徒はそれに縛られる。そのような戒律を守らない者は、地獄に落ちるといって信徒を脅す宗教団体もある。インチキ宗教では、そのような恐怖心を信徒に植え付け、信徒を支配しようとする。多くのお布施を出さないと、地獄に落ちる、不幸になる、罰があたるなどと言って、信徒からカネを巻き上げるのがインチキ宗教団体の常套手段です。

霊的な宗教では、物質的なことは二の次とされる。基本は、魂の救いであり、それを損なう物質的な要素は敬遠すべきだと教えるのが普通です。だから、物質的影響の少ない清貧生活が、霊的宗教では推奨される。

逆に、物質的な要素にこだわり、物質的に豊かな生活をする者は、霊的に貧しい人間になる。現代の商業主義も、人々の魂を貧しくしており、いくら物を手に入れても、心、精神、魂は少しも豊かにならない。物質的な感覚、審美観、物を見る目は肥えるが、霊的な成長には役に立たない。霊的な神聖さを感じる心はマヒして、外見的な豊かさしか理解できなくなる。いわゆる俗物として、カネで換算した価値しか理解できない人間になる。なかには、立派な教会を立てれば、神様に喜ばれるなどと考える牧師もいる。

食べ物にいたるまで、物質的なことは霊には影響しない。人間の善悪の判断に基づく行為や言葉が、霊に影響を与え、その人間の霊格にも影響を与える。だから、物質的に貧しい生活にこだわるな、ということです。何を食べようが、どんなに貧しい食事であろうが、霊の救いには関係ない。

むしろ、質素な食事が霊的な修業には必要なのです。そして、愛のある言葉が霊を清めるのです。

富んでいる者も、その活動の最中に消え去る (ヤコブの手紙 1:11) (the rich will fade away even while they go about their business)2025/07/05 02:03

For the sun rises with scorching heat and withers the plant; its blossom falls and its beauty is destroyed. In the same way, the rich will fade away even while they go about their business.

たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その活動の最中に消え去るであろう。(ヤコブの手紙 1:11)

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これは、イエス・キリストの12弟子の一人のヤコブが書いた手紙の一節です。

この世の繁栄のはかなさを述べています。富のある者が没落するのを、夏の日照りの中で、美しい花が枯れるのにたとえています。これは、豊かさを求める人への警告です。

ただし、客観的には一生、豊かな生活を送る者もいます。悪運の強い金持ちもいます。富に囲まれて一生を送る者のもいます。しかし、その人間の心の中では、不満がくすぶっているものです。富の獲得・蓄積の欲望には限界がなく、100万長者は、億万長者を目指し、億万長者は兆の資産を目指し、兆の富を持つ者は、さらに、その10倍、100倍の富の獲得を目指す。拝金主義に終点はない。富を増やし、維持することが人生の目標になる。だから、いくらカネを持っていても、満たされることはない。

そういう拝金主義の人生では、物質的な富の量、財産の金額、資産の数字だけしか見えなくなる。何でもカネで買えると錯覚をする。人間を財産や所有しているカネの額だけで判断する。人情、隣人愛、社会的良識、宗教心などは軽視される。富を獲得・蓄積するための悪だくみ、陰謀、悪事、欺瞞、狡猾さばかりに頭を使い、悪魔に魂を売る。しかし、全知全能かつ全善の神様は、その人間の生存中に裁きを下し、富のもたらす幸福感すら取り去る。それは、強い日差しが草花を枯らすようなものです。

実際、死後の霊界では、カネや物質的な財産は意味を持たない。霊界では、想念が直ちに実現する。カネがなくても、衣食住には困らない。どんな、贅沢品でも手に入る。そして、富で他人に優越感を感じることもなくなる。しかし、生きている間に貧しい者を軽蔑し、他人を騙し、支配しようとする心は残るので、カネ持ち同士は暴力によって争う。そして、より悪魔と結びついた邪悪な者が、他人を支配するが、さらにそれより凶悪な霊が現れて、勝利者を支配する。霊界の地獄は平和も調和もない、闇の闘争の場となる。

つまり、この世で富んだ者は、この世で霊的な安らぎは得られず、あの世では、支配欲に駆られた他の霊の攻撃を受けれる。彼らの充足感を得るという夢は。日照りの下の草花のように消える。

これが、イエスの弟子の得た教訓です。本来、キリスト教は、こような富に対する警告から出発している。全ての宗教の中でも、これほど明確に豊かな者を批判した宗教はない。

本来、キリスト教は、数しい人のための教えなのです。

「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施せ」2025/06/26 19:47

Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”

イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(マタイによる福音書 19:21)

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これは、ある人がイエス・キリストのところに来て、「永遠の命を得るには、どうすればよいか」と尋ねた時のイエスの応えです。

イエスは、「自分の持ち物を売って、それで得たカネを貧しい人に与えよ」と言ったのです。これは、宗教家としては、驚くべき答えです。

普通なら、聖書を何回も読め、とか、山に籠って修業を何年もせよ、とか、聖地に何回も旅せよとかこたえるものです。しかし、イエスは、自分の財産を売って、それで得たカネを貧しい人に与えれば、完全な信仰を得て、永遠の命を得ることが出来るとこたえたのです。

この教えは現在も生きている。だから、教会ではお布施を集め、まとめて貧しい人に与えるということをやっている。つまり、信仰を高めるには、貧しい人を助けなければならない。他の宗教団体でも、貧民支援は行っているが、それを教祖の直接の教えだとして実践しているのは、キリスト教会だけです。つまり、キリスト教の教義は貧民救済にある。

日本の神仏を崇める宗教でも、「自分の魂を救いたければ、貧民救済をせよ」ということを教義にしているものは少ない。「自分の魂を救うには、貧民を助けよ」というのが、イエスの教えの核心なのです。大学の神学部で教義や儀式を学んだり、理論を学んでも自分の霊格の向上にはならない。ただ、貧しい人にカネを与えよ、というのがイエスの教えなのです。

そもそも、カネは悪魔の小道具だということです。カネを使って悪魔は、人の魂を自分に売らせる。この世の幸福を得るにはカネが必要だということは、小学生でも分かる。そして、カネを得るには、悪魔に魂を売って詐欺的行為、他人をだます欺瞞、法律の抜け穴を見つけるなどの利己的行為をしなければならない。また、自分より貧しい人間は見捨てる。こういう世の中の仕組みを理解するのが成長した人間だと思われている。うまく、他人を出し抜き、チャンスを生かすのがこの世で成功するコツだと思われている。それと反対のことをしなければ、救われることはないというのがイエスの教えなのです。

カネはいらないが、悟りを得たいという人間もいる。しかし、山の中で滝に打たれたり、写経をしたり、断食をしても、魂の修業にはならない。貧しい人を救うのが修業だということです。そのためには、自分の財産を売ってカネに変え、カネを貧しい人に与えねばならない。

この教えを実践すると、誰でも貧しくなる。自分より貧しい隣人には、カネを与えなければならない。そうすると、近所で一番貧しい人間にならなければならない。だから、本当の信者は社会で最も貧しい人間になる。牧師や神父は、ホームレスのような生活をしなければならない。これが、イエス・キリストの教えの本質なのです。つまり、キリスト教は貧者の宗教だと言われる。

勿論、自分の全財産を売ってカネに変え、それを貧乏人に与えるような宗教人はこの世にはいない。牧師や神父も、立派な肩書をもって中流の暮らしをしている。ただし、教会にホームレスや貧困家庭の人間が来ても追い出すことはしない。それは、キリスト教の教祖であるイエス・キリストが、「カネを貧しい人に与えよ」と言っているからです。

世の中で、人を判断する基準は、その人が持っている財産です。金持ちほど尊敬される世の中で、自分の財産を貧しい人に与えよということは、世の中で最低の人間として生きて行けということです。これほど厳しい教えはない。これが、本当の修業です。だから、伝統的に日本では名僧や霊能者は貧しい生活をしていると考えられてきた。しかし、仏教や神道以上に、イエスの教えでは貧しさを悟りに至る道だとして教えている。

つまり、貧しい教会、貧しい牧師・神父が、信用できる。宗教界で成功して、立派な建物を建て、豊かな生活を送り、高い評判を得ることは。イエスの教えに反している。

しかし、真の信仰を得て、魂が救われ、死後、天国に入れば永遠の命を得て、永遠の幸福を得る。そのためには、この世で貧しい人に出来る限りカネを与えなければならない。これがイエスの教えなのです。つまり、自分の貧しさが、自分の信仰の証しなのです。霊格を高めるとは、この世で貧しい生活をすることです。貧は聖なり、というのが正しい宗教観です。カネを神のように崇めてはいけない。問題をカネで解決しようとしてはならない。ただし、貧しくても、信者には神様の助けが、奇跡のように生じて助けられる。これが、本当の信仰です。

実際、仏陀もイエスもホームレスのような生活をしていたことは、宗教人なら誰でも知っている。しかし、自分もホームレスのような生き方をする宗教人はいない。そんなことをすれば、狂っていると言われる。しかし、それでも、貧困生活が基本なのです。それが、修業であり、悟りの証明なのです。

「何をどう言おうかと心配しないがよい」2025/06/21 18:56

But when they arrest you, do not worry about what to say or how to say it. At that time you will be given what to say, for it will not be you speaking, but the Spirit of your Father speaking through you.

彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。(マタイによる福音書 10:19~20)
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これは、イエス・キリストが特に12人の弟子を選んで、村々や世界に伝道させようとした時に、イエスがその弟子に与えた忠告です。

当時は、イエスの教えに反感をもつユダヤ人も多く、特にユダヤ教の祭司たちは、イエスたちの教えは自分たちの教えに反するとして、イエスやその弟子たちを逮捕しようとしていた。そのような事態を予見して、イエスは弟子たちに忠告を与えたのです。つまり、逮捕されたときに、自分の考えであれこれ言い訳をするのではなく、神様の霊が下っていうべき言葉を与えてくれる、ということです。

すなわち、従来のユダヤ教の教えとは異なる教えを世に広めようとすれば、必ず抵抗する勢力が出てくる。彼らは社会的な権力を持っているので、弟子たちを逮捕して取り調べようとする。場合によっては、ユダヤ教の幹部とつながったローマ軍をも使う可能性がある。そのときには、逆らったり、自分の考えで弁解をしようとせずに、神様が弟子の心の中に与えてくれる言葉を使えと教えているのです。

これは、信仰とは霊的な力を信じるということだと、明確に述べている。信仰とは自分の頭で考えて得られるものではなく、天の神様が霊的に与えてくれるものなのです。そして、信者が危機に瀕すれば、神様の霊が下って救い出してくれるということです。

このことは、当局や宗教的権威を敵に回して、信者が窮地に陥った時ばかりでなく、信者が試される全ての場合に当てはまります。何か自己弁護をする必要があるとき、人々の前で意見を求められたとき、また、自分の信仰を明らかにしなければならないときなど、自分の考えで、ああ言おう、こう言おうなどと考えたり、こう言えば効果が出るなどと考えるのではなく、天の神様を信じて、聖霊や天使の霊が自分の心に教える言葉を述べよということです。

つまり、この世の出来事は、全て霊界の出来事とつながっており、天の神様は全てをご存知であり、弟子の周囲の人々の心の中も霊界から見ておられ、彼らを抑えるのに必要な言葉も分かっておられるので、弟子の心の中に、その言葉を与えられるということです。これは、聖なるアドリブと言う形で弟子の口から出る言葉となる。その言葉の威力の前には、たとえ悪魔に魂を売ったものでも、黙さざるを得ない。責められたり、試されている弟子は窮地を脱することができる。

例えば、イエス・キリストを信じている者が、入社試験などで面接を受けたときにも、言うべきことは、神様が霊界から送ってくれる。また、公の場で発言を求められた時にも、言うべきことは、神様が霊界から送ってくれる。自分の頭で、小賢しく考えて何を言おうかと考えてはならない、天使や守護霊を通して神様が与えてくれる言葉を述べよということです。

これは、キリスト教でなくても、日本の神仏を信じる霊的な信仰者でも同じです。彼らは、自分では考えもつかないような、霊的な言葉を話すことがある。霊界の大霊が彼らの心の中に入って、然るべきことを言わせる。霊的な信仰心の高い、僧侶、神主、霊能者にも、霊界から状況に適切な言葉が与えられる。だから、伝統的にそのような信仰者の言葉を日本人は尊重してきた。「神がかり」という状態になって、霊的な言葉を話す呪術者や霊媒も重んじられてきた。

全ての霊的な信仰心は、霊界につながり、霊界の善霊、大霊、聖霊につながり、信者は必要な言葉を与えられる。ましてや、唯一絶対の神様の子のイエスを信じる者には、イエスの霊や、神様の霊が直接、下って適切な言葉を与えてくれる。

政治家や識者なども、演説やテレビで発言する時に、自分の頭で考えた言葉を使うのではなく、それぞれの霊的な信仰心に従って、霊界から与えられる言葉を使うべきなのです。しかし、悪魔に魂を売ったエリートは、思い上がって自分の考える言葉が最高だと思い、外見上は立派に聞こえる発言を行うが、その魂は地獄とつながっているので、霊界にもこの世にも無意味な発言となる。あるいは、有害な発言となる。それを見抜くには、正しい霊的な信仰心を持つことが必要です。

特にネットやSNSで、誰もが自由な発言が許されるようになった時代には、各々の発言が、天につながっているのか、地獄とつながっているのかを判断するのは重要です。自分自身が天につながらなければ、他人の発言の真意は分からないものです。

霊界から神様は、この世の人間の行動、言葉を監視しておられ、必要な場合には信者に天使や聖霊を送って助けてくれる。これを信じるのが、真の霊的信仰者なのです。
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