人をさばくな。自分がさばかれないためである (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.") ― 2026/03/08 12:49
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)
7 “Do not judge, or you too will be judged.
2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?
4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリスト様による基本的な教えです。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」というのが、人間関係の基本になければならない。
誰でも、自分を正義の立場に置き、他人の過ちを責める。しかし、人を裁けば、同じ理由で自分も裁かれると教えておられる。だから、自分が人を裁く立場に置いてはならない。
人を責めるには、いくらでも理由をあげつらうことができる。だから、冤罪というものはなくならない。しかし、また、人を許す理由もいくらでも見つけることができる。裁判でも、人を責めるべき理由を検察官が見つけ出し、人を許すべき理由を弁護士が見つけ出そうとする。それを、公正に判断して、判決を下すのが裁判官だということになる。情状酌量という制度すら設けられており、裁判官には寛容な姿勢が求められている。
しかし、イエス・キリストはさらに、人を裁く立場になってはいけないと述べておられる。どんな罪人にも許すべき理由を見つけ出すのが、同じ人間のすることだという考えです。これは、「隣人を愛せ」というイエスの教えに通じる。隣人が罪人であれば、その罪人を許して、弁護してやることがイエスの教えです。
そもそも、人が罪をおかすのは、その人の心に悪魔が入り込むからです。また、その罪で、被害者となって苦しむ人を見て喜ぶのは悪魔であり、また、犯人が社会によって裁かれて苦しむのを見て喜ぶのも悪魔です。つまり、犯人も被害者も苦しめるのが悪魔なのです。
しかし、害を受けた人間が、加害者を許すことは、普通はできない。被害者という立場であれば、いくらでも加害者を責めることはできる。あたかも、自分が神であるかのように、加害者を責める人間もいる。この被害者感情が行きすぎれば、加害者は全て死刑になる。そうすれば、人間社会は成り立たない。それでも、人類が亡んでも、自分の恨みを果たしたいと考えるのが人間です。その背後には悪魔がいる。
だから、加害者を許すことが人類社会の存在に必要となる。恨みのある人間を許すことが、世界平和の第一歩なのです。しかし、身の回りの恨みのある人間は、絶対に許さないという人間が、世界の平和を唱えて運動をすることもある。そのような人間は、平和活動をするという名誉を求めているが、真の平和を求めてはいないことになる。
また、人に騙されて経済的な損害を受けた人間が、詐欺師を許すことは、普通はあり得ない。それでも、人生という長い目で見れば、被害者自身が詐欺まがいの行為に関与していることもある。人の罪は、我が罪だという境地に立つべきことをイエスは教えている。他人の罪を責め合う社会に発展はない。互いに許し合うという精神が人間社会を発展させるのです。
ただし、罪人は神様の裁きを受ける。絶対的な善である神様は、決して騙されることはない。また、悪魔に誘われて罪を犯した者は、悔い改めれば、主犯の悪魔を責める神様から許される。人間の裁判官は、真犯人を見逃して、無関係の人に罪を定めることはあるが、神様にはそのような誤った判断をなさることはない。だから、神様でない人間は完全に人を裁くことはできない、と承知していなければならない。
長い人生を生きていれば、誰でも全ての人が罪を犯す可能性があることに気づく。また、誰でも被害者となる可能性があることにも気がつく。時に人間を加害者にしたり、被害者にしたりして、とにかく苦しめるのが、悪魔の狙いです。それに、気が付けば、加害者を許すことが人間に求められていることが分かる。真の敵は人間ではなく、悪魔だからです。
悪魔の存在を知ってはいても、自分に害を与える加害者を許すことは、普通の人間にはできない。しかし、被害者と加害者の人生を比較して、正しい裁きを行えるのは神様なのです。そして、被害者が加害者を責め理由は、神様が被害者を扱う場合にも適用される、というのがイエス・キリストの教えなのです。悪魔に従う加害者の心自体を裁けるのは神様なのです。
つまり、人生で自分に何が生じても、どのような被害を他人から受けても、全ては神様の定めた運命であるとして受け入れる姿勢が、信仰者に求められる。
裁判所で、冤罪なのに死刑を言い渡されても、神様への信仰で対処するのが正しいということになる。死後の、霊界では、そのような判決を下した裁判官も、真犯人も地獄に落ち、誤審の被害者は天国に受け入れられる、と信じるのが信仰者なのです。そして、そのような裁判官や真犯人が神様に許されることを祈るのが、信仰者なのです。これが、隣人愛であり、人類愛なのです。
なぜなら、人間の悪の背後には必ず悪魔がいるからです。悪魔の手下となった人間は、むしろ、同情し憐れんでやるのがイエス・キリストの信仰者なのです。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)
7 “Do not judge, or you too will be judged.
2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?
4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
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これは、イエス・キリスト様による基本的な教えです。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」というのが、人間関係の基本になければならない。
誰でも、自分を正義の立場に置き、他人の過ちを責める。しかし、人を裁けば、同じ理由で自分も裁かれると教えておられる。だから、自分が人を裁く立場に置いてはならない。
人を責めるには、いくらでも理由をあげつらうことができる。だから、冤罪というものはなくならない。しかし、また、人を許す理由もいくらでも見つけることができる。裁判でも、人を責めるべき理由を検察官が見つけ出し、人を許すべき理由を弁護士が見つけ出そうとする。それを、公正に判断して、判決を下すのが裁判官だということになる。情状酌量という制度すら設けられており、裁判官には寛容な姿勢が求められている。
しかし、イエス・キリストはさらに、人を裁く立場になってはいけないと述べておられる。どんな罪人にも許すべき理由を見つけ出すのが、同じ人間のすることだという考えです。これは、「隣人を愛せ」というイエスの教えに通じる。隣人が罪人であれば、その罪人を許して、弁護してやることがイエスの教えです。
そもそも、人が罪をおかすのは、その人の心に悪魔が入り込むからです。また、その罪で、被害者となって苦しむ人を見て喜ぶのは悪魔であり、また、犯人が社会によって裁かれて苦しむのを見て喜ぶのも悪魔です。つまり、犯人も被害者も苦しめるのが悪魔なのです。
しかし、害を受けた人間が、加害者を許すことは、普通はできない。被害者という立場であれば、いくらでも加害者を責めることはできる。あたかも、自分が神であるかのように、加害者を責める人間もいる。この被害者感情が行きすぎれば、加害者は全て死刑になる。そうすれば、人間社会は成り立たない。それでも、人類が亡んでも、自分の恨みを果たしたいと考えるのが人間です。その背後には悪魔がいる。
だから、加害者を許すことが人類社会の存在に必要となる。恨みのある人間を許すことが、世界平和の第一歩なのです。しかし、身の回りの恨みのある人間は、絶対に許さないという人間が、世界の平和を唱えて運動をすることもある。そのような人間は、平和活動をするという名誉を求めているが、真の平和を求めてはいないことになる。
また、人に騙されて経済的な損害を受けた人間が、詐欺師を許すことは、普通はあり得ない。それでも、人生という長い目で見れば、被害者自身が詐欺まがいの行為に関与していることもある。人の罪は、我が罪だという境地に立つべきことをイエスは教えている。他人の罪を責め合う社会に発展はない。互いに許し合うという精神が人間社会を発展させるのです。
ただし、罪人は神様の裁きを受ける。絶対的な善である神様は、決して騙されることはない。また、悪魔に誘われて罪を犯した者は、悔い改めれば、主犯の悪魔を責める神様から許される。人間の裁判官は、真犯人を見逃して、無関係の人に罪を定めることはあるが、神様にはそのような誤った判断をなさることはない。だから、神様でない人間は完全に人を裁くことはできない、と承知していなければならない。
長い人生を生きていれば、誰でも全ての人が罪を犯す可能性があることに気づく。また、誰でも被害者となる可能性があることにも気がつく。時に人間を加害者にしたり、被害者にしたりして、とにかく苦しめるのが、悪魔の狙いです。それに、気が付けば、加害者を許すことが人間に求められていることが分かる。真の敵は人間ではなく、悪魔だからです。
悪魔の存在を知ってはいても、自分に害を与える加害者を許すことは、普通の人間にはできない。しかし、被害者と加害者の人生を比較して、正しい裁きを行えるのは神様なのです。そして、被害者が加害者を責め理由は、神様が被害者を扱う場合にも適用される、というのがイエス・キリストの教えなのです。悪魔に従う加害者の心自体を裁けるのは神様なのです。
つまり、人生で自分に何が生じても、どのような被害を他人から受けても、全ては神様の定めた運命であるとして受け入れる姿勢が、信仰者に求められる。
裁判所で、冤罪なのに死刑を言い渡されても、神様への信仰で対処するのが正しいということになる。死後の、霊界では、そのような判決を下した裁判官も、真犯人も地獄に落ち、誤審の被害者は天国に受け入れられる、と信じるのが信仰者なのです。そして、そのような裁判官や真犯人が神様に許されることを祈るのが、信仰者なのです。これが、隣人愛であり、人類愛なのです。
なぜなら、人間の悪の背後には必ず悪魔がいるからです。悪魔の手下となった人間は、むしろ、同情し憐れんでやるのがイエス・キリストの信仰者なのです。
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