「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (Stop judging by mere appearances, but instead judge correctly.) ― 2026/02/01 14:31
19 モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。
20 群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。
21 イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。
22 モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まっ
たものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
23 もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。
24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
18 Whoever speaks on their own does so to gain personal glory, but he who seeks the glory of the one who sent him is a man of truth; there is nothing false about him.
19 Has not Moses given you the law? Yet not one of you keeps the law. Why are you trying to kill me?”
20 “You are demon-possessed,” the crowd answered. “Who is trying to kill you?”
21 Jesus said to them, “I did one miracle, and you are all amazed.
22 Yet, because Moses gave you circumcision (though actually it did not come from Moses, but from the patriarchs), you circumcise a boy on the Sabbath.
23 Now if a boy can be circumcised on the Sabbath so that the law of Moses may not be broken, why are you angry with me for healing a man’s whole body on the Sabbath?
24 Stop judging by mere appearances, but instead judge correctly.”
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストがモーセの律法と安息日について述べた教えです。
モーセの与えた十戒などの教えがユダヤ教の中心となっており、ユダヤ人であれば、誰でもその教えを守るべきことが求めらrている。特に、「安息日には仕事をしてはならない」、という教えがユダヤ教の中心となっている。
この安息日を守るということが、ユダヤ人に与えた教えの意味は深い。日本の仏教でも念仏を唱えることが、その教えの中心になっている教派もある。この安息日の教えを3千年にわたってユダヤ人は守っている。
しかし、割礼というユダヤ民族の風習も、モーセの時代以前からユダヤ人の間で行われていた。神様の教えを伝えたモーセの言葉と、民族の風趣とどちらが大事かということをイエスは述べている。
そして、人を助けるということは神様の教えである。安息日にユダヤ民族の風習を実施しながら、安息日に人助けをしないことの矛盾をイエスは指摘されている。
上辺だけ、モーセの教えを守っても、心の底では神様の教えをないがしろにする人々を責められたのです。
今の日本人でも、世の中の風習を守って常識人のように振る舞いながら、神様の教えである隣人愛を実践しない者も多い。法律さえ守れば、他人を虐めたり、苦しめても構わないと考える者もいる。また、貧乏な他人を無視することで自己満足を得る者もいる。
実際、病人に同情しない医者や、弱者を無視する弁護士などもいる。特に、一般人の苦しみを黙殺する役人や官僚は犯罪的です。
しかし、そういうエリートは、皇族などにはい一般人に同情的な言葉を出させて、大衆をなだめ、自分たちの強欲と差別心に人々の批判が向かわないようにしている。だから、エリートと富裕層は死後、天国に入れない。
あくまで、神様の与えられた愛と真実に従って生きることをイエス・キリストは求めておられる。
20 群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。
21 イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。
22 モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まっ
たものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
23 もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。
24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
18 Whoever speaks on their own does so to gain personal glory, but he who seeks the glory of the one who sent him is a man of truth; there is nothing false about him.
19 Has not Moses given you the law? Yet not one of you keeps the law. Why are you trying to kill me?”
20 “You are demon-possessed,” the crowd answered. “Who is trying to kill you?”
21 Jesus said to them, “I did one miracle, and you are all amazed.
22 Yet, because Moses gave you circumcision (though actually it did not come from Moses, but from the patriarchs), you circumcise a boy on the Sabbath.
23 Now if a boy can be circumcised on the Sabbath so that the law of Moses may not be broken, why are you angry with me for healing a man’s whole body on the Sabbath?
24 Stop judging by mere appearances, but instead judge correctly.”
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これは、イエス・キリストがモーセの律法と安息日について述べた教えです。
モーセの与えた十戒などの教えがユダヤ教の中心となっており、ユダヤ人であれば、誰でもその教えを守るべきことが求めらrている。特に、「安息日には仕事をしてはならない」、という教えがユダヤ教の中心となっている。
この安息日を守るということが、ユダヤ人に与えた教えの意味は深い。日本の仏教でも念仏を唱えることが、その教えの中心になっている教派もある。この安息日の教えを3千年にわたってユダヤ人は守っている。
しかし、割礼というユダヤ民族の風習も、モーセの時代以前からユダヤ人の間で行われていた。神様の教えを伝えたモーセの言葉と、民族の風趣とどちらが大事かということをイエスは述べている。
そして、人を助けるということは神様の教えである。安息日にユダヤ民族の風習を実施しながら、安息日に人助けをしないことの矛盾をイエスは指摘されている。
上辺だけ、モーセの教えを守っても、心の底では神様の教えをないがしろにする人々を責められたのです。
今の日本人でも、世の中の風習を守って常識人のように振る舞いながら、神様の教えである隣人愛を実践しない者も多い。法律さえ守れば、他人を虐めたり、苦しめても構わないと考える者もいる。また、貧乏な他人を無視することで自己満足を得る者もいる。
実際、病人に同情しない医者や、弱者を無視する弁護士などもいる。特に、一般人の苦しみを黙殺する役人や官僚は犯罪的です。
しかし、そういうエリートは、皇族などにはい一般人に同情的な言葉を出させて、大衆をなだめ、自分たちの強欲と差別心に人々の批判が向かわないようにしている。だから、エリートと富裕層は死後、天国に入れない。
あくまで、神様の与えられた愛と真実に従って生きることをイエス・キリストは求めておられる。
死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった (ルカによる福音書 第 15 章) (he was lost and is found) ― 2026/02/02 11:09
20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。(ルカによる福音書 第 15 章)
20 So he got up and went to his father.
But while he was still a long way off, his father saw him and was filled with compassion for him; he ran to his son, threw his arms around him and kissed him.
21 The son said to him, ‘Father, I have sinned against heaven and against you. I am no longer worthy to be called your son.’
22 But the father said to his servants, ‘Quick! Bring the best robe and put it on him. Put a ring on his finger and sandals on his feet. 23 Bring the fattened calf and kill it. Let’s have a feast and celebrate.
24 For this son of mine was dead and is alive again; he was lost and is found.’ So they began to celebrate.
+++ +++ +++
これは、「放蕩息子の帰還」と呼ばれるイエス・キリストによる譬え話しの一節です。
父から財産をもらい、街に出て放蕩を繰り返し、もらった財産を使い果たした息子が悔い改めて、父のもとに帰って来るという話しです。父はその息子を責めずに、あたかも死んでいた息子が生き返って自分の所に戻って来たかのように歓迎したという話しです。
ただし、その息子の兄が、その父の歓迎ぶりに怒って文句を言ったところが、「弟は遊び暮らしていたが、生き返ったように戻って来たのだから歓迎するのは当然だ」と諭すという話しが続きます。
人間は、罪を犯し、道を踏み外すものだが、悔い改めて正しい生き方に戻ってくれば、神様も天使も罪を許して歓迎してくれるという教えです。だから、罪の悔い改めは常に歓迎すべきだということです。
人に罪を犯させるのは悪魔です。罪を犯した人間は悪魔の支配下にある。しかし、その罪人が悔い改めるということは、悪魔の支配下から逃れようとしているということです。そのような悔い改めた罪人を暖かく受けいることで、逆に悪魔はその配下にしていた罪人を失うことになる。悪魔にとっては打撃になる。だから、悪魔と戦っている天使たちは、悔い改めた罪人を暖かく受け入れるのです。
その罪人の悔い改めは、悪魔に対する神様の勝利になるからです。遊びほけて放蕩の限りを尽くす人間は、当然、悪魔の支配下にある。悪魔はそのような人間を落ちぶれさせて貧しくし、苦しめて喜ぶものです。そのように、悪魔の支配下にある人間を救うことが神様の意に適うことであるという解釈が、ここに現れている。
聖書の他の箇所で、イエス・キリストは「人を責めてはならない」と述べておられる。罪人の背後には悪魔がいるということが、ポイントです。罪人も悪魔の犠牲者だという認識がここにある。そして、罪人を責めるより、神と悪魔の戦いに勝利することが、はるかに重要なのです。
ここでは、放蕩息子とは、遊び呆けた人間ではなく、悔い改めた人間だという意味になっている。まさに、そういう人間も、悔い改めたならば、許さねばならない。それが、悪魔に勝利することなのです。
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。(ルカによる福音書 第 15 章)
20 So he got up and went to his father.
But while he was still a long way off, his father saw him and was filled with compassion for him; he ran to his son, threw his arms around him and kissed him.
21 The son said to him, ‘Father, I have sinned against heaven and against you. I am no longer worthy to be called your son.’
22 But the father said to his servants, ‘Quick! Bring the best robe and put it on him. Put a ring on his finger and sandals on his feet. 23 Bring the fattened calf and kill it. Let’s have a feast and celebrate.
24 For this son of mine was dead and is alive again; he was lost and is found.’ So they began to celebrate.
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これは、「放蕩息子の帰還」と呼ばれるイエス・キリストによる譬え話しの一節です。
父から財産をもらい、街に出て放蕩を繰り返し、もらった財産を使い果たした息子が悔い改めて、父のもとに帰って来るという話しです。父はその息子を責めずに、あたかも死んでいた息子が生き返って自分の所に戻って来たかのように歓迎したという話しです。
ただし、その息子の兄が、その父の歓迎ぶりに怒って文句を言ったところが、「弟は遊び暮らしていたが、生き返ったように戻って来たのだから歓迎するのは当然だ」と諭すという話しが続きます。
人間は、罪を犯し、道を踏み外すものだが、悔い改めて正しい生き方に戻ってくれば、神様も天使も罪を許して歓迎してくれるという教えです。だから、罪の悔い改めは常に歓迎すべきだということです。
人に罪を犯させるのは悪魔です。罪を犯した人間は悪魔の支配下にある。しかし、その罪人が悔い改めるということは、悪魔の支配下から逃れようとしているということです。そのような悔い改めた罪人を暖かく受けいることで、逆に悪魔はその配下にしていた罪人を失うことになる。悪魔にとっては打撃になる。だから、悪魔と戦っている天使たちは、悔い改めた罪人を暖かく受け入れるのです。
その罪人の悔い改めは、悪魔に対する神様の勝利になるからです。遊びほけて放蕩の限りを尽くす人間は、当然、悪魔の支配下にある。悪魔はそのような人間を落ちぶれさせて貧しくし、苦しめて喜ぶものです。そのように、悪魔の支配下にある人間を救うことが神様の意に適うことであるという解釈が、ここに現れている。
聖書の他の箇所で、イエス・キリストは「人を責めてはならない」と述べておられる。罪人の背後には悪魔がいるということが、ポイントです。罪人も悪魔の犠牲者だという認識がここにある。そして、罪人を責めるより、神と悪魔の戦いに勝利することが、はるかに重要なのです。
ここでは、放蕩息子とは、遊び呆けた人間ではなく、悔い改めた人間だという意味になっている。まさに、そういう人間も、悔い改めたならば、許さねばならない。それが、悪魔に勝利することなのです。
「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (For when I am weak, then I am strong.) ― 2026/02/03 12:06
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me.
10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
+++ +++ +++
コリントは、アテネから約80kmのところにあるペロポネソス半島内の街で、ペロポネソス半島とギリシャ本土を結ぶ地峡です。ギリシャの北部から南部への交通はコリントを経由しなければならないといった地理的条件からコリントは商業、貿易の中心地の一つとなっていた・・・パウロがこの地を訪れたのは、紀元50年頃、第2回宣教旅行においてであった・・・使徒がコリントをあとにしたのち、他の人々、特にアポロがコリントで宣教したため、彼らのうちに党派ができ、コリントの教会に分裂がおきた・・・パウロがこの手紙をしたためたのは、コリント教会訪問後に生じた教会内部の分裂、混乱に対処するためと、コリントの教会からの質問に答えるためだった。(https://www.pauline.or.jp/bible/eachbook/1corinthians.php)
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」や「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という逆説的な教えが印象的です。
パウロが主イエスの霊から与えられる力は、霊的な力であり、この世的な力ではない。むしろ、この世的な力が弱い時に、霊的な力が強く表れる。この物質世界で物質的な力を強めようとすると、逆に霊的な力の妨げとなる。また、物質的な力を誇ると、霊的な力は発揮できない。物質と霊とは方向性が異なるので、相反する働きをなす。
これは、この世は悪魔の影響下にあるということと関連する。悪魔は、人々に物質的な欲望を駆り立て、物理的な力、即ち、暴力を使って互いに攻撃させあう。しかし、悪魔に洗脳されていない人は、物質的な力ではなく、神様から与えられた霊的な力に頼る。
つまり、悪魔の影響が少ないほど、神様の力が働く。悪魔の影響下のこの世での力が強ければ、神様の与える霊的な力はあまり働かない。だから、(この世的に)弱いほど、(霊的には)強くなる、ということになる。
実際、暴力に強いものほど、霊的な恵みは少ない。肉体的に弱い者ほど、神様の与える霊的な力が働く。つまり、真の世界では、強者は弱者となり、弱者は強者となる。
この世でも、「バカほど強いものはない」などと逆説的なことが言われる。或いは、「なまじっか、修業をしたものは、かえって真実から遠ざかる」と言われる。
また、聖書でも、「神の愚かさは、人間の賢明さより賢い」と言われている。
悪魔の影響の下にある、この世的な価値観は、神様からの直接的な真理の影響を受ける霊界の価値体系とは別ものです。むしろ、正反対になっている。
この世でヒーローとされた者は、霊界の影響が働く場では馬鹿者になり、この世で愚か者といわれた者が、霊界の影響が働く世界では天才となる。
神様や天使の世界と、悪魔や悪霊が働く世界では、価値体系が逆なのです。この世では悪が称賛され、霊界では善が尊重される。
悪賢い人間ほど得をするこの世は、まさに、悪魔の影響下にある。しかし、この世でも神様の力が浸透してきて、邪悪な者はやがて追放される。だから、人間社会は存続し続け、人類は滅びずに歴史は続く。
しかし、悪の蓄積がこの世を破滅させるとき、この物質文明は終焉を迎える。21世紀の現在、そのような時が近づいている。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me.
10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
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コリントは、アテネから約80kmのところにあるペロポネソス半島内の街で、ペロポネソス半島とギリシャ本土を結ぶ地峡です。ギリシャの北部から南部への交通はコリントを経由しなければならないといった地理的条件からコリントは商業、貿易の中心地の一つとなっていた・・・パウロがこの地を訪れたのは、紀元50年頃、第2回宣教旅行においてであった・・・使徒がコリントをあとにしたのち、他の人々、特にアポロがコリントで宣教したため、彼らのうちに党派ができ、コリントの教会に分裂がおきた・・・パウロがこの手紙をしたためたのは、コリント教会訪問後に生じた教会内部の分裂、混乱に対処するためと、コリントの教会からの質問に答えるためだった。(https://www.pauline.or.jp/bible/eachbook/1corinthians.php)
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」や「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という逆説的な教えが印象的です。
パウロが主イエスの霊から与えられる力は、霊的な力であり、この世的な力ではない。むしろ、この世的な力が弱い時に、霊的な力が強く表れる。この物質世界で物質的な力を強めようとすると、逆に霊的な力の妨げとなる。また、物質的な力を誇ると、霊的な力は発揮できない。物質と霊とは方向性が異なるので、相反する働きをなす。
これは、この世は悪魔の影響下にあるということと関連する。悪魔は、人々に物質的な欲望を駆り立て、物理的な力、即ち、暴力を使って互いに攻撃させあう。しかし、悪魔に洗脳されていない人は、物質的な力ではなく、神様から与えられた霊的な力に頼る。
つまり、悪魔の影響が少ないほど、神様の力が働く。悪魔の影響下のこの世での力が強ければ、神様の与える霊的な力はあまり働かない。だから、(この世的に)弱いほど、(霊的には)強くなる、ということになる。
実際、暴力に強いものほど、霊的な恵みは少ない。肉体的に弱い者ほど、神様の与える霊的な力が働く。つまり、真の世界では、強者は弱者となり、弱者は強者となる。
この世でも、「バカほど強いものはない」などと逆説的なことが言われる。或いは、「なまじっか、修業をしたものは、かえって真実から遠ざかる」と言われる。
また、聖書でも、「神の愚かさは、人間の賢明さより賢い」と言われている。
悪魔の影響の下にある、この世的な価値観は、神様からの直接的な真理の影響を受ける霊界の価値体系とは別ものです。むしろ、正反対になっている。
この世でヒーローとされた者は、霊界の影響が働く場では馬鹿者になり、この世で愚か者といわれた者が、霊界の影響が働く世界では天才となる。
神様や天使の世界と、悪魔や悪霊が働く世界では、価値体系が逆なのです。この世では悪が称賛され、霊界では善が尊重される。
悪賢い人間ほど得をするこの世は、まさに、悪魔の影響下にある。しかし、この世でも神様の力が浸透してきて、邪悪な者はやがて追放される。だから、人間社会は存続し続け、人類は滅びずに歴史は続く。
しかし、悪の蓄積がこの世を破滅させるとき、この物質文明は終焉を迎える。21世紀の現在、そのような時が近づいている。
あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいる (ヨハネによる福音書 第 17 章) (Father, just as you are in me and I am in you) ― 2026/02/04 11:24
20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネによる福音書 第 17 章)
20 “My prayer is not for them alone. I pray also for those who will believe in me through their message,
21 that all of them may be one, Father, just as you are in me and I am in you. May they also be in us so that the world may believe that you have sent me.
22 I have given them the glory that you gave me, that they may be one as we are one—
23 I in them and you in me—so that they may be brought to complete unity. Then the world will know that you sent me and have loved them even as you have loved me.
+++ +++ +++
イエス・キリストが天の神様に祈りを捧げた言葉です。
イエスは神様を「父よ」と呼び、神様とイエスの関係を明らかにされています。また、ご自分の中に神様がおられ、また、神様の中に自分がいることを明らかにされ、両者が一体であることを明言されました。そして、イエスと神様は1つのものであることを明らかにされたのです。即ち、神様とイエスは一体なのです。そして、弟子たちも互いに一体となることを望んでおられる。
これは、神様が自分の中にいると宣言する世の中の教祖や霊能者の言葉を思い出させるが、無限の神様が有限の人間の中に入るわけはないので、そのような言葉は間違っている。しかし、「神様には人間には出来ないことも出来る」とされており、無限の神様が有限の人間であるイエスの中に入ることができる。
これは、また、霊的な言葉であり、霊界では大小や長短の区別は無意味なので、霊界の最高の段階にまで上がれるイエス・キリストには、神様と一体であるという状態が可能なのです。
つまり、イエス・キリストが神様だという判断も誤りではない。ただし、それは高い信仰レベルで語られる言葉です。この世の普通の判断では、イエスは神様の子であるという認識も間違いではない。
ただし、イエス・キリストの立場からすれば、神様とご自分は同格であるということになり、人間はイエス・キリストを「主」と呼ぶのが正しいし、イエスも神様を「御父」や「主」と呼んでおられる。
イエス・キリストの立場や、我々人間の位置によって、神様の呼称は変わっておかしくない。
その際、重要なことは、「神様は全知全能かつ全善である」という聖書の言葉です。無限の神様が有限の人間となることも可能であり、時間的にも空間的にも一切束縛を持たない神様が、限られた時代の限られた場所で生きる人間のイエス・キリストになることも可能なのです。それは、最高の信仰レベルで理解できることなのです。
仏教の教えも、信徒の理解力のレベルによって、その意味や解釈が異なって来る。キリスト教でも、イエス・キリストの真の教えでも、各人間の霊的な理解力によって、その意味や理解が変わって来る。
そのことを承知しないで、他人の信仰の内容を批判するのは無知であり、無礼であり、無意味なことです。
イエス・キリストの言葉は、最終的には霊的に理解しなければならない。高い位置に上るほど、より多くのことが理解できるようになる。
それでも、最優秀な者にも、初心者にも、それなりに理解できるのが聖なる書物の聖書の言葉なのです。
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネによる福音書 第 17 章)
20 “My prayer is not for them alone. I pray also for those who will believe in me through their message,
21 that all of them may be one, Father, just as you are in me and I am in you. May they also be in us so that the world may believe that you have sent me.
22 I have given them the glory that you gave me, that they may be one as we are one—
23 I in them and you in me—so that they may be brought to complete unity. Then the world will know that you sent me and have loved them even as you have loved me.
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イエス・キリストが天の神様に祈りを捧げた言葉です。
イエスは神様を「父よ」と呼び、神様とイエスの関係を明らかにされています。また、ご自分の中に神様がおられ、また、神様の中に自分がいることを明らかにされ、両者が一体であることを明言されました。そして、イエスと神様は1つのものであることを明らかにされたのです。即ち、神様とイエスは一体なのです。そして、弟子たちも互いに一体となることを望んでおられる。
これは、神様が自分の中にいると宣言する世の中の教祖や霊能者の言葉を思い出させるが、無限の神様が有限の人間の中に入るわけはないので、そのような言葉は間違っている。しかし、「神様には人間には出来ないことも出来る」とされており、無限の神様が有限の人間であるイエスの中に入ることができる。
これは、また、霊的な言葉であり、霊界では大小や長短の区別は無意味なので、霊界の最高の段階にまで上がれるイエス・キリストには、神様と一体であるという状態が可能なのです。
つまり、イエス・キリストが神様だという判断も誤りではない。ただし、それは高い信仰レベルで語られる言葉です。この世の普通の判断では、イエスは神様の子であるという認識も間違いではない。
ただし、イエス・キリストの立場からすれば、神様とご自分は同格であるということになり、人間はイエス・キリストを「主」と呼ぶのが正しいし、イエスも神様を「御父」や「主」と呼んでおられる。
イエス・キリストの立場や、我々人間の位置によって、神様の呼称は変わっておかしくない。
その際、重要なことは、「神様は全知全能かつ全善である」という聖書の言葉です。無限の神様が有限の人間となることも可能であり、時間的にも空間的にも一切束縛を持たない神様が、限られた時代の限られた場所で生きる人間のイエス・キリストになることも可能なのです。それは、最高の信仰レベルで理解できることなのです。
仏教の教えも、信徒の理解力のレベルによって、その意味や解釈が異なって来る。キリスト教でも、イエス・キリストの真の教えでも、各人間の霊的な理解力によって、その意味や理解が変わって来る。
そのことを承知しないで、他人の信仰の内容を批判するのは無知であり、無礼であり、無意味なことです。
イエス・キリストの言葉は、最終的には霊的に理解しなければならない。高い位置に上るほど、より多くのことが理解できるようになる。
それでも、最優秀な者にも、初心者にも、それなりに理解できるのが聖なる書物の聖書の言葉なのです。
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」 (ヨハネによる福音書 第 9 章) (“For judgment I have come into this world") ― 2026/02/05 11:39
39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書 第 9 章)
39 Jesus said,[a] “For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind.”
40 Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, “What? Are we blind too?”
41 Jesus said, “If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains.
+++ +++ +++
イエス・キリストが盲人を癒して、目が見えるようにされた時の教えです。
イエスは単に病人を癒すために、この世に来られたのではなく、人々を裁くために、この世に来られたと明言されている。罪人をさばくのは、神様の権威を持っておられる者にしかできない。即ち、イエスは神様の権威を持っておられることを明言されたのです。
しかし、目の見えない盲人であれば、この世のことが分からず、罪を犯すことがない。ところが、なまじ目が見えれば、欲にかられて、悪魔の誘惑を受けて人は罪を犯すものだと述べておられる。
これは、貧しければ、贅沢を知らず罪を犯さないが、富裕層であれば、より多くの物的な富に囲まれて、さらに欲を刺激されて罪を犯すことを意味する。また、病人であれば、活動することは出来ず、罪を犯すこともないが、健康な人は、より多く活動し、より多くの誘惑に出会い、より多くの罪を犯すことを意味する。
また、イエスは真理を知らせ、世の中の真実が見えなかった人の心を開き、世の中の実相が見えるようにされる。逆に、世の中を知っていると思っていた人は、霊的な真理を知らされ、この世で当然だと思っていたことや常識が真実ではないことを知らされて混乱し、ものが見えなくなる。
人間の裁きは、悪魔にどれだけ対抗したかを知ることにある。悪魔に洗脳された人間には、霊的な真実が見えず、ものが見えなくなる。悪魔の教えに従って生きている人間は、悪魔の教えが真実だと考えて、世の中を知っていると考えるが、そのことが霊的な真実を理解していないことを意味する。
例えば、弱者や貧しき者を軽蔑するのが悪魔に従う者の態度であり、弱者や貧しき者を愛される神様は彼らに真実をみえるようにされている。強者や富裕層には見えない真理を、弱者や貧しき者は、イエス・キリストの言葉を聞いて知ることができるようになる。
眼が見えず、音も聞こえなかったヘレン・ケラーが、霊界を経験したスエーデンボルグの霊界の教えを知って、この世で生きていくことができたという事実は、まさに、イエス・キリストの言葉を証明している。
真実を人に教え、人の罪を明らかにするのが、イエス・キリストの使命だった。悪魔に洗脳された人間は、世の中を間違って解釈し、世の中を知っていると思うことが罪であり、それを裁くためにイエスはこの世に来たのです。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書 第 9 章)
39 Jesus said,[a] “For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind.”
40 Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, “What? Are we blind too?”
41 Jesus said, “If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains.
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イエス・キリストが盲人を癒して、目が見えるようにされた時の教えです。
イエスは単に病人を癒すために、この世に来られたのではなく、人々を裁くために、この世に来られたと明言されている。罪人をさばくのは、神様の権威を持っておられる者にしかできない。即ち、イエスは神様の権威を持っておられることを明言されたのです。
しかし、目の見えない盲人であれば、この世のことが分からず、罪を犯すことがない。ところが、なまじ目が見えれば、欲にかられて、悪魔の誘惑を受けて人は罪を犯すものだと述べておられる。
これは、貧しければ、贅沢を知らず罪を犯さないが、富裕層であれば、より多くの物的な富に囲まれて、さらに欲を刺激されて罪を犯すことを意味する。また、病人であれば、活動することは出来ず、罪を犯すこともないが、健康な人は、より多く活動し、より多くの誘惑に出会い、より多くの罪を犯すことを意味する。
また、イエスは真理を知らせ、世の中の真実が見えなかった人の心を開き、世の中の実相が見えるようにされる。逆に、世の中を知っていると思っていた人は、霊的な真理を知らされ、この世で当然だと思っていたことや常識が真実ではないことを知らされて混乱し、ものが見えなくなる。
人間の裁きは、悪魔にどれだけ対抗したかを知ることにある。悪魔に洗脳された人間には、霊的な真実が見えず、ものが見えなくなる。悪魔の教えに従って生きている人間は、悪魔の教えが真実だと考えて、世の中を知っていると考えるが、そのことが霊的な真実を理解していないことを意味する。
例えば、弱者や貧しき者を軽蔑するのが悪魔に従う者の態度であり、弱者や貧しき者を愛される神様は彼らに真実をみえるようにされている。強者や富裕層には見えない真理を、弱者や貧しき者は、イエス・キリストの言葉を聞いて知ることができるようになる。
眼が見えず、音も聞こえなかったヘレン・ケラーが、霊界を経験したスエーデンボルグの霊界の教えを知って、この世で生きていくことができたという事実は、まさに、イエス・キリストの言葉を証明している。
真実を人に教え、人の罪を明らかにするのが、イエス・キリストの使命だった。悪魔に洗脳された人間は、世の中を間違って解釈し、世の中を知っていると思うことが罪であり、それを裁くためにイエスはこの世に来たのです。
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