すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した (使徒言行録 第 12 章) (Suddenly an angel of the Lord appeared and a light shone in the cell)2026/03/01 11:29

5 こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。
6 ヘロデが彼を引き出そうとしていたその夜、ペテロは二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて眠っていた。番兵たちは戸口で獄を見張っていた。
7 すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。
8 御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、
9 ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。
10 彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った。
11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。(使徒言行録 第 12 章)

5 So Peter was kept in prison, but the church was earnestly praying to God for him.

6 The night before Herod was to bring him to trial, Peter was sleeping between two soldiers, bound with two chains, and sentries stood guard at the entrance. 7 Suddenly an angel of the Lord appeared and a light shone in the cell. He struck Peter on the side and woke him up. “Quick, get up!” he said, and the chains fell off Peter’s wrists.

8 Then the angel said to him, “Put on your clothes and sandals.” And Peter did so. “Wrap your cloak around you and follow me,” the angel told him. 9 Peter followed him out of the prison, but he had no idea that what the angel was doing was really happening; he thought he was seeing a vision.
10 They passed the first and second guards and came to the iron gate leading to the city. It opened for them by itself, and they went through it. When they had walked the length of one street, suddenly the angel left him.

11 Then Peter came to himself and said, “Now I know without a doubt that the Lord has sent his angel and rescued me from Herod’s clutches and from everything the Jewish people were hoping would happen.”
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ペテロがヘロデ王によって捕らえられたときに、奇跡が生じて逃れることができたときの情景です。

牢獄の中で「突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた」という奇跡によって、使徒ペテロは救われることになる。

ペテロ自身が、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」と言って、神様の起こす奇跡を確信したのです。

このように、信徒には次々と奇跡が生じて命が助かり、イエス・キリストの教えは世に広まって行く。

奇跡がなければ、イエスの教えが世に広まることはなかった。イエス・キリストの死後、2千年にわたってその教えが世界中に広まったことが、まさに、神様の威力と、威厳と、栄光を現わしているのです。

その2千年前の記録が聖書に記されている。その聖書を学べば、やはり、信者にも奇跡は起こるのです。それを信じること自体が、本当のキリスト教徒なのです。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった (創世記 第 1 章) (And God said, “Let there be light,” and there was light)2026/03/02 11:35

はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記 第 1 章)

1 In the beginning God created the heavens and the earth. 2 Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the Spirit of God was hovering over the waters.

3 And God said, “Let there be light,” and there was light. 4 God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness. 5 God called the light “day,” and the darkness he called “night.” And there was evening, and there was morning—the first day.
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創世記は、旧約聖書の最初の書物です。ユダヤ教やキリスト教の聖典の一つで、ヘブライ語で「ベレシート(はじめに)」、ギリシア語では「ゲネシス(起源、誕生、始まり)」を意味します。(AIアシスタント)

霊界では、神様が存在していたが、この世(物質界)では、天も地もない状態が続いていた。そこで、万物の創造主である神様が「光あれ」と言われたので光が生じた。これが、物質界、この世の始まりなのです。

光は物理的にも、この世の基本要素であり、物質界では光速を超えることはできないとされている。これが、アインシュタインが発見した物理法則です。

しかし、神様が想念と言葉を使って物質界を創造されたように、想念は光速を超え、人間の心は光速以上の速さで、宇宙を移動することができる。

地球の人間だけでなく、異星人も超光速で意識を飛ばし、また、超光速で移動できるものと思われる。だから、何万光年離れていても、彼らは数分で移動できる。また、何億光年先まで、瞬時に見ることができる。

現代物理学でも、なぜ光速に制限があるのかはわかっていない。光速は、秒速約30万キロメートであり、太陽から地球までは約8分かかり、地球から月までは約1秒かかることが知られている。

しかし、霊界ではこのような時間と距離の制約はない。物質宇宙の果てから果てまでは、瞬時に移動できる。また、思った瞬間に全ての物を発生させることができる。

この世の物質界は、神様が霊界から、想念と言葉で霊的エネルギーを動かして作られたと考えるのが、正しい世界観なのです。また、正しい宗教観なのです。そして、科学的な考え方なのです。

重要なことは、人間の心にも、この言葉と想念の力が与えられていることです。だから、心からの祈りにも霊的な力があり、この世で人間を救うのです。この世の人間の状況は、霊界で霊的な力が作用して、物質的な影響がこの世で生じる。霊界にも通じる人間の想念が働いて、霊界からこの世に影響が及ぶのです。だから、祈りで奇跡を及ぼすことができる。

それを媒介するのが言葉です。想念(祈り)と言葉が内観(イメージ)と一緒になってて万物を生み出すのです。

この世に存在するものは、全て、神様の言葉と内観によって生まれたものです。神様が存在するから、この世は存在し、この世の全てのものも存在するのです。

これが、正しい宇宙観であり、究極の科学です。だから、このような神学がなければ、宇宙の謎も解き明かすことはできない。科学者には信仰心が必要なのです。

現代の最先端の科学者も意識の問題、即ち、人間の心の存在に取り組んでいます。実際、念力でスプーンが曲がることがあり、人間の意識の力が物質にも働くことは超能力者に知られている。

神様の想念の力が、物質を成り立たせており、神様の想念に近い心の状態が奇跡を起こすのです。この意味で、霊的な信仰心があれば、心霊治療で病も治すことができる。スプーンも病も精神力で扱うことができる。これが、心霊主義であり、精神主義であり、霊的な宗教なのです。

何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな (ルカによる福音書 第 12 章) (do not set your heart on what you will eat or drink; do not worry about it)2026/03/03 11:09

27 野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。
30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。
31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(ルカによる福音書 第 12 章)

27 “Consider how the wild flowers grow. They do not labor or spin. Yet I tell you, not even Solomon in all his splendor was dressed like one of these.
28 If that is how God clothes the grass of the field, which is here today, and tomorrow is thrown into the fire, how much more will he clothe you—you of little faith!
29 And do not set your heart on what you will eat or drink; do not worry about it.
30 For the pagan world runs after all such things, and your Father knows that you need them.
31 But seek his kingdom, and these things will be given to you as well.
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「何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな」というイエス・キリストの教えは、人間の基本的な生きる姿勢について述べられたものです。

生きるためには、食べることが重要です。しかし、食欲にかまけてはいけないと注意されておられる。だから、グルメや美食などは、許されないことになる。

食べるもの、飲むものにこだわり、また、健康食品などにこだわるのもこの教えに反している。実際、健康は、飲み物や食べ物によるのではなく、霊的な力によるのであり、霊体は物質的な飲食によって健康が維持されるものではない。

神の御国を求めれば、そこでは、霊的な充足感に添えて、物質的に必要な飲食も満たされる。霊が先行し、物質的問題はそれに従って解決されるという考えが重要なのです。

悪魔が、かつて、空腹のイエス・キリストを食べ物で誘惑したことがあるが、石をパンに変えよという悪魔の誘いに、イエスは、「人はパンのにみにて生きるものではない」と戒められたことと関係する。

また、「きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草」でさえ、神様はかつてのユダヤ人の名君ソロモン王以上に着飾らせていると指摘して、自然の美や神様の愛の深さを指摘されている。人工的な装飾や欲望の充足は無意味なのです。

要するに、これは、生に必要なものを超えて、人間が欲望を満たそうとすることを警告している。衣食住は必要最小限のレベルにとどめるだというのがイエス・キリストの教えです。つまり、清貧生活を推奨しておられる。

だから、宗教団体も華美な建物や、聖職者などの華麗な衣装などとは、無縁であるべきです。キリスト教の教会も地味で、神父や修道女なども質素な姿をすることをイエス・キリストは求めておられる。

全ては飲食の欲望から発している。これが、信者に求められる基本的な生きる姿勢なのです。

「あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (Why are you trying to kill me?)2026/03/04 11:30

14 祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。
15 すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。
16 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
17 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。
19 モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。 (ヨハネによる福音書 第 7 章)

14 Not until halfway through the festival did Jesus go up to the temple courts and begin to teach.
15 The Jews there were amazed and asked, “How did this man get such learning without having been taught?”
16 Jesus answered, “My teaching is not my own. It comes from the one who sent me.
17 Anyone who chooses to do the will of God will find out whether my teaching comes from God or whether I speak on my own.
18 Whoever speaks on their own does so to gain personal glory, but he who seeks the glory of the one who sent him is a man of truth; there is nothing false about him.
19 Has not Moses given you the law? Yet not one of you keeps the law. Why are you trying to kill me?”
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これは、神殿でのイエス・キリストの教えです。

「(イエスは)学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」と人々は、イエスの教えに驚いたのに、イエスが「私の教えは私自身の教えではなく、私をつかわされたかた(神様)の教えである」と答えたのです。

宗教的な知識や、神様の教えは人間が頭をひねって考え出すものではなく、神様の霊が下って人の心の中に現れるのです。それは、意識的な心を動かす原動力となる霊に、聖霊が下って心を動かすようになるのです。

つまり、霊的な直観という形で、心の中に閃くのが神様の教えです。それは、神様の栄光の現れなのです。だから、その心に閃く言葉を述べる者は真実の言葉を述べたことになる。

それを妨害するのが悪魔であり、真実を述べる者を憎んで殺害することを考える。それを、イエス・キリストは見抜いて、「あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」と責めたのです。

悪魔に魂を売った者たちは、自分がイエスをなぜ憎むのか分からないが、自分がイエスを殺したいと思っていることに気が付く。まさに、心の中に悪魔が入り込んだ人間は、神様がつかわされたイエスを憎む。それは、悪霊がその人の心を支配するからです。まさに、悪魔の天敵は、神様が遣わしたイエス・キリストなのです。相手に殺意を持つほど憎むのは、神様と悪魔の側に分かれたときに、悪魔側の人間がもつ心なのです。

つまり、イエス・キリストがこの世で伝道するということは、命がけなのです。それが、神と悪魔の戦いの真の姿なのです。実際に、イエスの言葉を伝えた初期キリスト教徒の多くは、悪魔の手にかかって殺害された。そのような多くの弟子や信仰者の死の上に建てられたのがキリスト教という宗教なのです。キリスト教という愛の宗教は、多くの血の上に建てられたのです。十字架上に血を流すイエスの像を、今も崇めるのがキリスト教なのです。

今では、殉教者という命をかけて伝道する者はいないが、本来のキリスト教は命がけで神様の教えを伝える教えなのです。それほど、人間を滅ぼそうとする悪魔と、人間を救おうとする神様が派遣されたイエス・キリストの間の戦いは厳しいものです。

キリスト教の神父や牧師になって、人々から尊敬される立場になりたいと考えるのは甘い考えであり、ましてや、聖職者になって満ち足りた生活をしようなどと考えるのはお門違いなのです。

キリスト教の聖職者になれば、いつ悪魔に取り付かれた人間に攻撃され、殺されるか分からない。そういう覚悟が必要なのです。基本的には、その神様/イエス・キリストと悪魔/悪霊の関係は、2千年前のイエスの時代から変わっていない。さらには、死後の霊界でもこの関係は続く。霊界の天国に受け入れられて、やっとこの戦いから解放されるのです。

しかし、神様は悪魔よりも強く、いつでも天使を送って信徒を悪魔や悪霊から救われる。だから、イエス・キリストの教えが2千年間も廃れることなく続いたのです。

キリスト教の歴史とは、まさに、悪魔との戦いであり、悪魔は多くの人間の心に入り込み、神様の教えを拒絶させ、やがて地獄に引き込む。そのような悪魔に魂を売った人間を憐れまれたのがイエス・キリストであり、聖母マリアの霊なのです。

本当のキリスト教は、単なるこの世の道徳ではなく、悪魔との命をかけた魂と心の戦いなのです。

ただし、神様は決して悪魔に負けることはないので、信仰者は必ず救われる。これを信じるのがイエス・キリストの信仰者なのです。

「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」 (マタイによる福音書 第 13 章) (“A prophet is not without honor except in his own town and in his own home.”)2026/03/05 11:07

53 イエスはこれらの譬えを語り終えてから、そこを立ち去られた。
54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。 (マタイによる福音書 第 13 章)

53 When Jesus had finished these parables, he moved on from there. 54 Coming to his hometown, he began teaching the people in their synagogue, and they were amazed. “Where did this man get this wisdom and these miraculous powers?” they asked. 55 “Isn’t this the carpenter’s son? Isn’t his mother’s name Mary, and aren’t his brothers James, Joseph, Simon and Judas? 56 Aren’t all his sisters with us? Where then did this man get all these things?” 57 And they took offense at him.

But Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own town and in his own home.”

58 And he did not do many miracles there because of their lack of faith.

Footnotes
+++ +++ +++
「預言者は、自分の郷里や自分の家では、敬われない」というのは、イエス・キリストの有名な言葉です。

預言者をよく知るその故郷では、かえって、預言者のことをよく知っているために、その偉大さがわからないということです。日常的なささいなことにこだわって、預言という偉大な行為を軽んじることになる。

イエスという偉大な預言者も、その故郷では、人々の嫉妬や偏見、蔑視などがあって十分に尊敬されず、人々を救済する意欲が落ちた。だから、「彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」。

これは、イエスの活動には、人々の好意や賛同、感動などが励ましとなっていたことを意味する。不信仰者ばかりでは、何を言っても無駄だと感じられた。しかし、かつての一般人だったときのイエスと、聖霊を受けて生まれ変わったイエスの違いが分からない故郷の人は、イエスによって信仰心を高められ、イエスを尊敬するようにはならない。かつての、イエスの一般人としてのイメージを払拭できないからです。

このように、聖霊を受けた人に対する態度は変えなければならない。預言者の過去や、その先祖の様子を知っているからといって、預言者を貶めてはならない。聖霊を受けた人は、もはや、一般人ではないのです。

これは、人の過去にこだわってはいけないことを意味する。あくまで、預言の真正さと、その背後の聖霊の働きと、さらに、そえを認める神様への信仰心が重要なのです。

偉大な業績を上げた人物の過去を詮索し、その業績を貶めるようなことをしてはならない。

また、これは偉大な宗教家となったイエス・キリストを、同胞のユダヤ人が受け入れず、イエス・キリストの打ち立てたキリスト教をユダヤ人が拒否することにも通じる。

ただし、今でもキリスト教に改宗するユダヤ人もいる。キリスト教はユダヤ教の延長にあることを認めるべきです。ユダヤ人としては、ユダヤ教に従っても、人類の一員としては、キリスト教を信じるというのが正しい。

また、イスラム教徒はその教えが、ユダヤ教とキリスト教の後に生まれたものであることを素直に認め、ユダヤ教とキリスト教を親近感をもって接し、その神様に対する根本的考えを受け入れるべきです。イスラム教も、ユダヤ教とキリスト教と同じく、アブラハムを始祖とする教えであり、宇宙の唯一かつ絶対の神様を戴く宗教であることを認めるべきです。アラブ人としては、イスラム教徒であっても、人類の一員としては、心霊的な一神教の一員だと考えるべきです。

実際、イスラム教徒は歴史的にはユダヤ人と親密であり、キリスト教徒とも親しかったのです。今、イランがイスラエルやアメリカと戦うのは、故郷を同じくする一神教徒同士の戦いであり、それは避けるべきことです。

宗教の違いによる戦争などは、過去の愚行とすべきです。

霊的には、霊的な一神教徒として、皆、霊界で仲良く生きることができるはずです。人を生かすのが宗教であり、宗教を理由とした戦いはやめるべきです。

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