「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 (ヨハネによる福音書 第13章) (“You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”) ― 2026/04/20 13:31
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第13章)
13 It was just before the Passover Festival. Jesus knew that the hour had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he loved them to the end.
2 The evening meal was in progress, and the devil had already prompted Judas, the son of Simon Iscariot, to betray Jesus. 3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
+++ +++ +++
これは、この世で最後の最後の晩餐のときに、イエス・キリストが弟子たちの脚を、召し使いのように洗って清めたという話しです。
主であるイエスが、その弟子たちの脚を召し使いのように洗うということは、常識では考えられないことであり、弟子のペテロは驚いたが、イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と述べて、弟子たちの脚を洗われたのです。
これは、イエスの謙虚さを通り越した行いです。この後、ユダヤ教の司祭やローマ軍に逮捕され、十字架の刑で死亡するイエス・キリストの記憶は、弟子たちには自分の脚を召し使いのように洗うイエスの姿だとして残されることになる。
さまざまな奇跡を起こし、天の軍勢をも呼ぶことのできるイエスが、全く何の抵抗もせずに、敵に逮捕され、殺されるのを是認するなどとは、弟子たちにっとって考えられないことだったのです。
神の子であるイエスが、人間の弟子たちの脚を、その召し使いのようにして洗うということは、イエスがいつでも倒せる悪魔の陰謀を受け入れて、ユダヤ教の幹部たちに身を任せるということを意味している。イエス・キリストは弟子たちに、いつでも、ご自分の脚を洗わすようにさせることができるのに、逆に弟子の脚を洗ったということは、いつでも倒せる悪魔の陰謀にのって、悪魔に好きなままにさせ、その悪質さを曝け出させ、最後に、悪魔を打ち破るという計画を立てられたということです。
イエス・キリストに脚を洗われた弟子たちは、イエスの刑死と復活のあとで、そのイエス・キリストの作戦に気が付いて、悪魔の罠を避けることができるようになった。
また、イエス・キリストがこの時見せた謙虚な姿が目に焼き付いた弟子たちは、人々に対して、自分も謙虚でなければ、悪魔につけ込まれることを悟ったのです。
悪魔は、人間の優越感や、他人に対する上位の感覚につけ込み、その心の中に入り込み、やがて、その心を支配する。そして、神様の教えを無視させ、やがては、悪魔を神だと崇めるようにさせる。
しかし、天使より神様に近いイエス・キリストが、神様によって作られらたに過ぎない人間に、召し使いのように脚を洗って仕えるということは、悪魔はその程度の芝居をするものだと、逆に悪魔の脅威を教えているのです。
人間より、はるかに霊力の強い悪魔が、ヘリ下って人間の召し使いのような姿で現れ、人間に受け入れられ、やがて、人間の心に入り込み、最後には人間の心を支配し、人間を悪魔の奴隷とする。この悪魔の陰謀と計略に警戒するようにという、イエス・キリストの命を掛けた教えがここに現れている。
霊界を知っているイエス・キリストにとって、肉体の死など恐れることではないが、神様に逆らおうとする悪魔の悪意を感じて、人間たちに悪魔を警戒するように教えるために、イエス・キリストは弟子たちの脚を洗われたのです。
このイエス・キリストによる弟子の脚洗いの意味は、2000年にわたって議論されてきたが、まだ、完全に解明されてはいない。しかし、悪魔を倒すには、悪魔の召し使いとなって悪魔の脚を洗い、悪魔に受け入れさせ、悪魔の心に入り込み、最後には悪魔をだまして倒すくらいのことは、しなくてはならない。悪魔との戦いに対する教えなのです。
なぜなら、神の子、イエス・キリストの敵は悪魔であり、人間界を支配しようとする悪魔を倒すことがイエス・キリストの最大の目的であり、そのために、イエス・キリストは悪魔に負けたかのように十字架上での死を受けいられ、そして、三日後に蘇って、その教えを普及させることで悪魔の裏をかき、悪魔の計略を破壊することにされたのです。
しかし、悪魔はあきらめない。今でも、悪魔はしつこく、人間界で働いている。その悪魔を制するのは、神様の教えと、イエス・キリストの言葉なのです。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第13章)
13 It was just before the Passover Festival. Jesus knew that the hour had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he loved them to the end.
2 The evening meal was in progress, and the devil had already prompted Judas, the son of Simon Iscariot, to betray Jesus. 3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
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これは、この世で最後の最後の晩餐のときに、イエス・キリストが弟子たちの脚を、召し使いのように洗って清めたという話しです。
主であるイエスが、その弟子たちの脚を召し使いのように洗うということは、常識では考えられないことであり、弟子のペテロは驚いたが、イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と述べて、弟子たちの脚を洗われたのです。
これは、イエスの謙虚さを通り越した行いです。この後、ユダヤ教の司祭やローマ軍に逮捕され、十字架の刑で死亡するイエス・キリストの記憶は、弟子たちには自分の脚を召し使いのように洗うイエスの姿だとして残されることになる。
さまざまな奇跡を起こし、天の軍勢をも呼ぶことのできるイエスが、全く何の抵抗もせずに、敵に逮捕され、殺されるのを是認するなどとは、弟子たちにっとって考えられないことだったのです。
神の子であるイエスが、人間の弟子たちの脚を、その召し使いのようにして洗うということは、イエスがいつでも倒せる悪魔の陰謀を受け入れて、ユダヤ教の幹部たちに身を任せるということを意味している。イエス・キリストは弟子たちに、いつでも、ご自分の脚を洗わすようにさせることができるのに、逆に弟子の脚を洗ったということは、いつでも倒せる悪魔の陰謀にのって、悪魔に好きなままにさせ、その悪質さを曝け出させ、最後に、悪魔を打ち破るという計画を立てられたということです。
イエス・キリストに脚を洗われた弟子たちは、イエスの刑死と復活のあとで、そのイエス・キリストの作戦に気が付いて、悪魔の罠を避けることができるようになった。
また、イエス・キリストがこの時見せた謙虚な姿が目に焼き付いた弟子たちは、人々に対して、自分も謙虚でなければ、悪魔につけ込まれることを悟ったのです。
悪魔は、人間の優越感や、他人に対する上位の感覚につけ込み、その心の中に入り込み、やがて、その心を支配する。そして、神様の教えを無視させ、やがては、悪魔を神だと崇めるようにさせる。
しかし、天使より神様に近いイエス・キリストが、神様によって作られらたに過ぎない人間に、召し使いのように脚を洗って仕えるということは、悪魔はその程度の芝居をするものだと、逆に悪魔の脅威を教えているのです。
人間より、はるかに霊力の強い悪魔が、ヘリ下って人間の召し使いのような姿で現れ、人間に受け入れられ、やがて、人間の心に入り込み、最後には人間の心を支配し、人間を悪魔の奴隷とする。この悪魔の陰謀と計略に警戒するようにという、イエス・キリストの命を掛けた教えがここに現れている。
霊界を知っているイエス・キリストにとって、肉体の死など恐れることではないが、神様に逆らおうとする悪魔の悪意を感じて、人間たちに悪魔を警戒するように教えるために、イエス・キリストは弟子たちの脚を洗われたのです。
このイエス・キリストによる弟子の脚洗いの意味は、2000年にわたって議論されてきたが、まだ、完全に解明されてはいない。しかし、悪魔を倒すには、悪魔の召し使いとなって悪魔の脚を洗い、悪魔に受け入れさせ、悪魔の心に入り込み、最後には悪魔をだまして倒すくらいのことは、しなくてはならない。悪魔との戦いに対する教えなのです。
なぜなら、神の子、イエス・キリストの敵は悪魔であり、人間界を支配しようとする悪魔を倒すことがイエス・キリストの最大の目的であり、そのために、イエス・キリストは悪魔に負けたかのように十字架上での死を受けいられ、そして、三日後に蘇って、その教えを普及させることで悪魔の裏をかき、悪魔の計略を破壊することにされたのです。
しかし、悪魔はあきらめない。今でも、悪魔はしつこく、人間界で働いている。その悪魔を制するのは、神様の教えと、イエス・キリストの言葉なのです。
(「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」) (ルカによる福音書 第 5 章) (“I tell you, get up, take your mat and go home.”) ― 2026/04/19 14:14
22 イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。
23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。(ルカによる福音書 第 5 章)
22 Jesus knew what they were thinking and asked, “Why are you thinking these things in your hearts? 23 Which is easier: to say, ‘Your sins are forgiven,’ or to say, ‘Get up and walk’? 24 But I want you to know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins.” So he said to the paralyzed man, “I tell you, get up, take your mat and go home.” 25 Immediately he stood up in front of them, took what he had been lying on and went home praising God. 26 Everyone was amazed and gave praise to God. They were filled with awe and said, “We have seen remarkable things today.”
+++ +++ +++
これは、人の病気を癒すことと、人の罪を許すことのどちらがた易いかという、ことの質問が、イエス・キリストによって、ユダヤ教の幹部や形式主義と偽善の象徴とされるパリサイ人に向けて出された言葉です。
ユダヤ教の祭司たちは、人の罪を許すという行為を神様の代理として行っていたが、病の人を癒すことはできなかった。
見ればすぐに分かる治療行為もできないのに、証明することも否定することもできない、罪の赦しという行為を行っていたユダヤ教の幹部たちは、人の病を癒して、人の罪が許された証拠だというイエスの教えに驚嘆したのです。
イエスは、人の罪が許されたから、その人の病も癒されたという、霊的な信仰による超能力を発揮して病の人を癒したのです。しかし、霊能力もないユダヤ教の祭司たちは、人の病も治せず、ただ、言葉だけで、罪が神様によって許されたという誰も証明のできないことを言っているだけです。
イエス・キリストが、病人の病は魂の罪から来ていることを見抜き、まず神様のように病人の罪を許し、その結果、病が癒されたことを誰にも分かるように証明したことは、インチキ宗教家のような連中にとっては、まさに、脅威だったのです。
「罪が許された」という証明のできないことは、インチキ宗教家なら平気で言える。しかし、病を癒すことは医者でもむつかしい。だから、インチキ宗教家は、病人に病が癒されたとは言えない。
しかし、イエスもインチキ宗教家のように、「罪が許された」と述べたが、さらに、その結果、人の病が癒されるということを、誰にも分かるように証明した。インチキ宗教家のように振る舞いながら、インチキならできないような病気の癒しを行ったのです。
実際、今でも難病になり、病院では治らないために、宗教家や心霊治療家に頼る人もいる。イエスもそのような心霊治療家だった。霊能力で人の病を癒すというのが、難病はその人の罪によるものだということが信じられていた社会では、まず、神様によって罪を許されなければ、難病は治らないと考えられていた。今では、霊的な罪と肉体的な病の間には、関係はないとされているが、科学の未発達な時代には、両者に密接な関係があると考えられていた。だから、病人は罪人であるとされて、精神的に苦しめられていた。
そのような世界で、イエス・キリストは、肉体の難病と霊的な罪の関係は否定せずに、罪は許されたと述べて精神的に病人を救い、さらに、超能力で物理的な病も癒したのです。
インチキ宗教家には、どちらもできないが、イエスはまず病を癒し、次に、霊的な罪は許されたと宣言した。これは、超能力のないインチキ宗教家にはできないことです。だから、今でも心霊治療家は宗教心が強く、病が霊的な問題から生じていることを理解している。霊的に問題があれば、肉体にも悪影響が生じることが多い。「病は気から」という諺も日本にはある。ただし、霊的な罪だけが病を起こすわけではない。それでも、霊的な問題が解決すれば、肉体にも好影響が現れる。しかし、科学が万能の世界では、心霊治療の奥深さは理解されない。
実際、この世は神様が霊的エネルギーを使って創造されたものであるから、肉体の病も霊的な影響を受けている。それを素直に信じていた時代には、病と霊的な罪には関係があると人々が考えていたことも当然です。しかし、霊的な罪と霊的なエネルギーの問題は、必ずしも一致しない。それでも、イエス・キリストは肉体の病と霊的な罪の関係は否定せずに、霊能力で霊的なエネルギーの問題を解決し、物質的な病を治した。これは、霊能力も超能力もないインチキ宗教家にはできないことです。
イエス・キリストは、人の病という物質的な問題も、霊的エネルギーを正しく働くようにさせれば解決することを示したのです。そして、霊的エネルギーの正しい働きを阻害しているのは、その人の霊的状態に生じた罪だということを見抜いたのです。現代科学や医学では理解できない考え方ですが、物質の根源には霊的エネルギーがあることを理解すれば、この考えは理解することができる。
霊的エネルギーを神様のように扱えたイエス・キリストは、物理的な肉体の病を霊という根本から癒すことができたのです。
インチキ宗教家とは、レベルの違う霊能力を持ったイエス・キリストだからできたことなのです。
だから、今でも信仰心の高い霊能力者や超能力者は心霊治療で人の病を治している。彼らの力は、科学では到達できない霊的エネルギーの世界に通じているからです。
無意識にそのような霊能力を発揮した人物として、高塚光がいるが、彼は宗教には無関心で、ただ、霊的な力を信じていた。他方、イギリスのハリー・エドワーズは、霊の力を信じ、イエス・キリストを信じていたが、イギリス国教会は心霊治療とは距離を置いていた。
いずれにしても、霊的エネルギーと物質的な病との関係は、イエス・キリストが扱った大きな問題だった。
23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。(ルカによる福音書 第 5 章)
22 Jesus knew what they were thinking and asked, “Why are you thinking these things in your hearts? 23 Which is easier: to say, ‘Your sins are forgiven,’ or to say, ‘Get up and walk’? 24 But I want you to know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins.” So he said to the paralyzed man, “I tell you, get up, take your mat and go home.” 25 Immediately he stood up in front of them, took what he had been lying on and went home praising God. 26 Everyone was amazed and gave praise to God. They were filled with awe and said, “We have seen remarkable things today.”
+++ +++ +++
これは、人の病気を癒すことと、人の罪を許すことのどちらがた易いかという、ことの質問が、イエス・キリストによって、ユダヤ教の幹部や形式主義と偽善の象徴とされるパリサイ人に向けて出された言葉です。
ユダヤ教の祭司たちは、人の罪を許すという行為を神様の代理として行っていたが、病の人を癒すことはできなかった。
見ればすぐに分かる治療行為もできないのに、証明することも否定することもできない、罪の赦しという行為を行っていたユダヤ教の幹部たちは、人の病を癒して、人の罪が許された証拠だというイエスの教えに驚嘆したのです。
イエスは、人の罪が許されたから、その人の病も癒されたという、霊的な信仰による超能力を発揮して病の人を癒したのです。しかし、霊能力もないユダヤ教の祭司たちは、人の病も治せず、ただ、言葉だけで、罪が神様によって許されたという誰も証明のできないことを言っているだけです。
イエス・キリストが、病人の病は魂の罪から来ていることを見抜き、まず神様のように病人の罪を許し、その結果、病が癒されたことを誰にも分かるように証明したことは、インチキ宗教家のような連中にとっては、まさに、脅威だったのです。
「罪が許された」という証明のできないことは、インチキ宗教家なら平気で言える。しかし、病を癒すことは医者でもむつかしい。だから、インチキ宗教家は、病人に病が癒されたとは言えない。
しかし、イエスもインチキ宗教家のように、「罪が許された」と述べたが、さらに、その結果、人の病が癒されるということを、誰にも分かるように証明した。インチキ宗教家のように振る舞いながら、インチキならできないような病気の癒しを行ったのです。
実際、今でも難病になり、病院では治らないために、宗教家や心霊治療家に頼る人もいる。イエスもそのような心霊治療家だった。霊能力で人の病を癒すというのが、難病はその人の罪によるものだということが信じられていた社会では、まず、神様によって罪を許されなければ、難病は治らないと考えられていた。今では、霊的な罪と肉体的な病の間には、関係はないとされているが、科学の未発達な時代には、両者に密接な関係があると考えられていた。だから、病人は罪人であるとされて、精神的に苦しめられていた。
そのような世界で、イエス・キリストは、肉体の難病と霊的な罪の関係は否定せずに、罪は許されたと述べて精神的に病人を救い、さらに、超能力で物理的な病も癒したのです。
インチキ宗教家には、どちらもできないが、イエスはまず病を癒し、次に、霊的な罪は許されたと宣言した。これは、超能力のないインチキ宗教家にはできないことです。だから、今でも心霊治療家は宗教心が強く、病が霊的な問題から生じていることを理解している。霊的に問題があれば、肉体にも悪影響が生じることが多い。「病は気から」という諺も日本にはある。ただし、霊的な罪だけが病を起こすわけではない。それでも、霊的な問題が解決すれば、肉体にも好影響が現れる。しかし、科学が万能の世界では、心霊治療の奥深さは理解されない。
実際、この世は神様が霊的エネルギーを使って創造されたものであるから、肉体の病も霊的な影響を受けている。それを素直に信じていた時代には、病と霊的な罪には関係があると人々が考えていたことも当然です。しかし、霊的な罪と霊的なエネルギーの問題は、必ずしも一致しない。それでも、イエス・キリストは肉体の病と霊的な罪の関係は否定せずに、霊能力で霊的なエネルギーの問題を解決し、物質的な病を治した。これは、霊能力も超能力もないインチキ宗教家にはできないことです。
イエス・キリストは、人の病という物質的な問題も、霊的エネルギーを正しく働くようにさせれば解決することを示したのです。そして、霊的エネルギーの正しい働きを阻害しているのは、その人の霊的状態に生じた罪だということを見抜いたのです。現代科学や医学では理解できない考え方ですが、物質の根源には霊的エネルギーがあることを理解すれば、この考えは理解することができる。
霊的エネルギーを神様のように扱えたイエス・キリストは、物理的な肉体の病を霊という根本から癒すことができたのです。
インチキ宗教家とは、レベルの違う霊能力を持ったイエス・キリストだからできたことなのです。
だから、今でも信仰心の高い霊能力者や超能力者は心霊治療で人の病を治している。彼らの力は、科学では到達できない霊的エネルギーの世界に通じているからです。
無意識にそのような霊能力を発揮した人物として、高塚光がいるが、彼は宗教には無関心で、ただ、霊的な力を信じていた。他方、イギリスのハリー・エドワーズは、霊の力を信じ、イエス・キリストを信じていたが、イギリス国教会は心霊治療とは距離を置いていた。
いずれにしても、霊的エネルギーと物質的な病との関係は、イエス・キリストが扱った大きな問題だった。
「サタンよ、引きさがれ」 (マタイによる福音書 第 16 章) “Get behind me, Satan! )" ― 2026/04/18 16:17
22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
+++ +++ +++
イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
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イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」 (マルコによる福音書 第 9 章) (“Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”) ― 2026/04/17 13:42
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。(マルコによる福音書 第 9 章)
33 They came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, “What were you arguing about on the road?” 34 But they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest.
35 Sitting down, Jesus called the Twelve and said, “Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”
36 He took a little child whom he placed among them. Taking the child in his arms, he said to them, 37 “Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me.”
+++ +++ +++
人間は、優越、好悪、損得の感情に縛られて生きている。どんな、人間でも他人と比べて優越感か劣等感を抱き、人に対して好き嫌いがあり、また、必ず自分の損得を考えて他人と接する。これは、身分、貧富、強弱、賢愚、聖俗に関係なく、誰もが持つ感情です。
イエス・キリストの弟子たちも、互いに優越感を競い、誰が一番信仰心があり、誰が一番優れているかについて争っていたということです。信仰者は誰が一番、神様に評価されいるかが気になる者です。しかし、真実の信仰は自分のプライドを捨て去ることから始まるのです。
実際、人間の信仰心は表面上、外見上は他人には分からない。一番、弁舌が優れているからといって、一番信仰心が高いとはいえない。欧米では、上手な説教をする人間が高く評価されるが、説教の優れた牧師や神父が高い信仰心を持っていることにはならない。ましてや、教会で地位や肩書が高いからといいって、優れた信仰心を持っていることにはならない。
カトリックではローマ法王の地位が一番高く、信者や人類を代表して神様と接触できるとされていて、最も信仰心の高い人物とされているが、神様の眼にどのように映っているかは、人間には分からない。また、最も大きな寄付をした人間の信仰心が一番高いとされることもあるが、その人間の本当の信仰心は神様や天使、また、本人にしか分からない。
宗教団体で、最も地位の低い人間が、最も純粋で強い信仰心を持っていることも多い。だから、イエス・キリストは、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」とそのような優越心を諫めたのです。
イエスの教えでは、最も地位の高い者は、みんなの召し使いにならなければならない。日本でも、権力のある役人や政治家は「公僕」として、市民に仕えることが理想だとされている。だから、彼らは公の席ではヘリ下った言葉を使う。また、仏教界でも名僧や高僧は、謙虚さを示し、寺の下僕のような低姿勢を示すことが多い。つまり、組織のリーダーは組織の最低の人間のように皆の召し使いとならなければならない。これは、キリスト教の布教によって、世界に広まった考えです。
しかし、悪魔は人間の欲望を刺激し、優越、好悪、損得の感情で他人を差別し、自分だけは得をし、高い地位を得て、気に入らない者は排斥させようとする。悪魔の影響下のこの世では、優越、好悪、損得の感情に従って、人間同士が互いに争っている。だから、出世競争があり、章を競って互いに争い、また、利己的な利益の追求がやまない。人々を互いに競わせて、争わせ、悪魔はそれを見て喜び、神様、天使、イエス・キリストや聖母はあきれ、また、悲しんでいるのです。この世での敗者は、霊界では勝者なのです。
上辺だけの謙虚さではなく、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」というのが、神様の教えであり、イエス・キリストの教えなのです。
愛と信仰心があれば、他人をそのような感情で差別することなくなる。また、死後の霊界では、生きている間の地位や肩書、貧富の差や外見の美醜などは意味をもたない。真実の信仰心だけが、評価されるのが霊界です。
だから、この世のエリートや富裕層は霊界ではむしろ、低い地位におかれる。この世では、貧しく、軽んじられていた者が、その純粋な信仰心によって霊界では天国に近い位置に上げられることは多い。
この世の、悪魔に影響された価値観にまだ縛れていない幼児は、イエスの愛と信仰心を感じ、それを見抜き、イエス・キリストを受け入れるが、
それは、神様を受けいることなのです。
幼児の前で、エリートや富裕層がいばっても、幼児はその姿が滑稽だと感じで笑うだけです、しかし、イエス・キリストの信仰者は、彼らの背後に悪魔を見て警戒しなければならない。そして、神様の与える愛と真理が世の中を支配し、人間が受け入れることを願わなければならない。さもなければ、世の中は悪魔の手先ばかりとない、人類は自滅し、それを見て悪魔が喜ぶという、救いようのない世界になる。
その狂気や悲劇から人間を救うのが、イエス・キリストの説いた神差への愛と信仰心なのです。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。(マルコによる福音書 第 9 章)
33 They came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, “What were you arguing about on the road?” 34 But they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest.
35 Sitting down, Jesus called the Twelve and said, “Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”
36 He took a little child whom he placed among them. Taking the child in his arms, he said to them, 37 “Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me.”
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人間は、優越、好悪、損得の感情に縛られて生きている。どんな、人間でも他人と比べて優越感か劣等感を抱き、人に対して好き嫌いがあり、また、必ず自分の損得を考えて他人と接する。これは、身分、貧富、強弱、賢愚、聖俗に関係なく、誰もが持つ感情です。
イエス・キリストの弟子たちも、互いに優越感を競い、誰が一番信仰心があり、誰が一番優れているかについて争っていたということです。信仰者は誰が一番、神様に評価されいるかが気になる者です。しかし、真実の信仰は自分のプライドを捨て去ることから始まるのです。
実際、人間の信仰心は表面上、外見上は他人には分からない。一番、弁舌が優れているからといって、一番信仰心が高いとはいえない。欧米では、上手な説教をする人間が高く評価されるが、説教の優れた牧師や神父が高い信仰心を持っていることにはならない。ましてや、教会で地位や肩書が高いからといいって、優れた信仰心を持っていることにはならない。
カトリックではローマ法王の地位が一番高く、信者や人類を代表して神様と接触できるとされていて、最も信仰心の高い人物とされているが、神様の眼にどのように映っているかは、人間には分からない。また、最も大きな寄付をした人間の信仰心が一番高いとされることもあるが、その人間の本当の信仰心は神様や天使、また、本人にしか分からない。
宗教団体で、最も地位の低い人間が、最も純粋で強い信仰心を持っていることも多い。だから、イエス・キリストは、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」とそのような優越心を諫めたのです。
イエスの教えでは、最も地位の高い者は、みんなの召し使いにならなければならない。日本でも、権力のある役人や政治家は「公僕」として、市民に仕えることが理想だとされている。だから、彼らは公の席ではヘリ下った言葉を使う。また、仏教界でも名僧や高僧は、謙虚さを示し、寺の下僕のような低姿勢を示すことが多い。つまり、組織のリーダーは組織の最低の人間のように皆の召し使いとならなければならない。これは、キリスト教の布教によって、世界に広まった考えです。
しかし、悪魔は人間の欲望を刺激し、優越、好悪、損得の感情で他人を差別し、自分だけは得をし、高い地位を得て、気に入らない者は排斥させようとする。悪魔の影響下のこの世では、優越、好悪、損得の感情に従って、人間同士が互いに争っている。だから、出世競争があり、章を競って互いに争い、また、利己的な利益の追求がやまない。人々を互いに競わせて、争わせ、悪魔はそれを見て喜び、神様、天使、イエス・キリストや聖母はあきれ、また、悲しんでいるのです。この世での敗者は、霊界では勝者なのです。
上辺だけの謙虚さではなく、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」というのが、神様の教えであり、イエス・キリストの教えなのです。
愛と信仰心があれば、他人をそのような感情で差別することなくなる。また、死後の霊界では、生きている間の地位や肩書、貧富の差や外見の美醜などは意味をもたない。真実の信仰心だけが、評価されるのが霊界です。
だから、この世のエリートや富裕層は霊界ではむしろ、低い地位におかれる。この世では、貧しく、軽んじられていた者が、その純粋な信仰心によって霊界では天国に近い位置に上げられることは多い。
この世の、悪魔に影響された価値観にまだ縛れていない幼児は、イエスの愛と信仰心を感じ、それを見抜き、イエス・キリストを受け入れるが、
それは、神様を受けいることなのです。
幼児の前で、エリートや富裕層がいばっても、幼児はその姿が滑稽だと感じで笑うだけです、しかし、イエス・キリストの信仰者は、彼らの背後に悪魔を見て警戒しなければならない。そして、神様の与える愛と真理が世の中を支配し、人間が受け入れることを願わなければならない。さもなければ、世の中は悪魔の手先ばかりとない、人類は自滅し、それを見て悪魔が喜ぶという、救いようのない世界になる。
その狂気や悲劇から人間を救うのが、イエス・キリストの説いた神差への愛と信仰心なのです。
「生ける水が川となって流れ出るであろう」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (rivers of living water will flow from within them) ― 2026/04/14 08:19
37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
37 On the last and greatest day of the festival, Jesus stood and said in a loud voice, “Let anyone who is thirsty come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as Scripture has said, rivers of living water will flow from within them.”[c] 39 By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.
40 On hearing his words, some of the people said, “Surely this man is the Prophet.”
41 Others said, “He is the Messiah.”
Still others asked, “How can the Messiah come from Galilee? 42 Does not Scripture say that the Messiah will come from David’s descendants and from Bethlehem, the town where David lived?” 43 Thus the people were divided because of Jesus.
+++ +++ +++
イエス・キリストがユダヤ人の間で行った説教の様子が聖書に書かれている。
「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と仰り、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」というのは、霊的な教えです。霊的な欲求というのは、生きている人間にとって必須の水のようなものなのです。それが、信者の身体の中から流れ出るようになると言われている。霊的な力が、信者の体から流れ出るということです。肉体が霊体になるということでもあります。
イエスの信者は、霊体となって、身体から霊的なエネルギーが流れ出るという、霊的な真実を述べておられるのです。
肉体は、物質界に属しているが、霊は霊界に属しており、肉体の超えた力を発揮する。この世の病にもならず、物質的な制約をこえて生きる。霊の水は命を与えるものなので、身体から命がほとばしるということになる。水分の満ちた植物が瑞々しく生命にあふれるように、霊的な力によって人間の生命力は強められ、物質的な体の生命力も強められるのです。肉体の強さをこえた、霊的な強さが人間を生かすのです。
これは、霊界のエネルギーを使って、神様は物質界を造られたということを示している。そして、物質である人間の身体も霊的なエネルギーによって生かされるのです。死後は、身体から霊的なエネルギーが解放され、霊界で人間の霊は生き生きと生きるのです。肉体という制約の中では、霊はその本来の力を十分に発揮することはできない。しかし、肉体的な制約を受けない形で霊を身体の中に持っている者は、霊能者としての力を発揮する。だから、そのような霊能者は、霊的エネルギーを発揮することで、宗教の教祖になったりする。神様の子のイエス・キリストも霊能者だったのです。
しかし、物質界の現象に目をくらまされ、精神的、霊的な現象が見えない、感じられない人間もいる。彼らには、光が見えず、闇の世界を生きているようなものです。愛と真理の光が見えない人間は、この世の闇を生きているようなものです。これは、人によって感受力が異なるので、愛に満ちた生活を送る人間の満足感や充足感は、感受力のない人間には感じれない。英術的な鑑賞力のない人間には、名画も名曲も理解できない。ただ、物質的な力しか理解できない人間には、物欲の織り成す世界しか理解できない。だから、霊的な宗教者は、そのような人間とは全く異なる世界を見、感じることができる。だから、いくら説明しても、理解できない人間には理解できない。人を説得することはむつかしい。その人間に、霊的な感受力が無ければ、霊的な理解はできない。
しかし、人は死ねば、この世から霊界に入る。そのときに、霊眼が開かれ、物質界とは全く異なる霊界の法則を受け入れて生きることになる。そのときに、霊的な神様の教えの意味が理解できるようになる。しかし、生きている間に、霊的な無知のために犯した過ちを人は悔い改めるようになる。例えば、悟りを得た僧侶は物質的な華麗さを求めす、乞食のように見える。霊的な能力のない人間には、その僧侶の真の姿は見えず、貧しい姿を見てバカにする。しかし、その僧侶の霊力が現れたときに、始めて彼を尊敬する。そのように、優れた霊能者が理解されないことも多い。それでも、霊的エネルギーは物質界でも働き、その真実の力を人は認めざるを得ない。このように、霊的な理解力が高まることを、覚醒という。宗教というものは強制するものではなく、相手の覚醒を待たなければならない。だから、宗教的な独裁制というものは間違っている。自由の世界でこそ、真の霊的な宗教が存在する。
要するに、自発的な動機によらねば、精神的、霊的、宗教的な成功は得られない。イエス・キリストの教えも、自由な心で学ばねば無意味なのです。光の見えない人間に、光のことを教えるのは難しい。そういう、限界を心得ておくことも重要なのです。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
37 On the last and greatest day of the festival, Jesus stood and said in a loud voice, “Let anyone who is thirsty come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as Scripture has said, rivers of living water will flow from within them.”[c] 39 By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.
40 On hearing his words, some of the people said, “Surely this man is the Prophet.”
41 Others said, “He is the Messiah.”
Still others asked, “How can the Messiah come from Galilee? 42 Does not Scripture say that the Messiah will come from David’s descendants and from Bethlehem, the town where David lived?” 43 Thus the people were divided because of Jesus.
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イエス・キリストがユダヤ人の間で行った説教の様子が聖書に書かれている。
「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と仰り、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」というのは、霊的な教えです。霊的な欲求というのは、生きている人間にとって必須の水のようなものなのです。それが、信者の身体の中から流れ出るようになると言われている。霊的な力が、信者の体から流れ出るということです。肉体が霊体になるということでもあります。
イエスの信者は、霊体となって、身体から霊的なエネルギーが流れ出るという、霊的な真実を述べておられるのです。
肉体は、物質界に属しているが、霊は霊界に属しており、肉体の超えた力を発揮する。この世の病にもならず、物質的な制約をこえて生きる。霊の水は命を与えるものなので、身体から命がほとばしるということになる。水分の満ちた植物が瑞々しく生命にあふれるように、霊的な力によって人間の生命力は強められ、物質的な体の生命力も強められるのです。肉体の強さをこえた、霊的な強さが人間を生かすのです。
これは、霊界のエネルギーを使って、神様は物質界を造られたということを示している。そして、物質である人間の身体も霊的なエネルギーによって生かされるのです。死後は、身体から霊的なエネルギーが解放され、霊界で人間の霊は生き生きと生きるのです。肉体という制約の中では、霊はその本来の力を十分に発揮することはできない。しかし、肉体的な制約を受けない形で霊を身体の中に持っている者は、霊能者としての力を発揮する。だから、そのような霊能者は、霊的エネルギーを発揮することで、宗教の教祖になったりする。神様の子のイエス・キリストも霊能者だったのです。
しかし、物質界の現象に目をくらまされ、精神的、霊的な現象が見えない、感じられない人間もいる。彼らには、光が見えず、闇の世界を生きているようなものです。愛と真理の光が見えない人間は、この世の闇を生きているようなものです。これは、人によって感受力が異なるので、愛に満ちた生活を送る人間の満足感や充足感は、感受力のない人間には感じれない。英術的な鑑賞力のない人間には、名画も名曲も理解できない。ただ、物質的な力しか理解できない人間には、物欲の織り成す世界しか理解できない。だから、霊的な宗教者は、そのような人間とは全く異なる世界を見、感じることができる。だから、いくら説明しても、理解できない人間には理解できない。人を説得することはむつかしい。その人間に、霊的な感受力が無ければ、霊的な理解はできない。
しかし、人は死ねば、この世から霊界に入る。そのときに、霊眼が開かれ、物質界とは全く異なる霊界の法則を受け入れて生きることになる。そのときに、霊的な神様の教えの意味が理解できるようになる。しかし、生きている間に、霊的な無知のために犯した過ちを人は悔い改めるようになる。例えば、悟りを得た僧侶は物質的な華麗さを求めす、乞食のように見える。霊的な能力のない人間には、その僧侶の真の姿は見えず、貧しい姿を見てバカにする。しかし、その僧侶の霊力が現れたときに、始めて彼を尊敬する。そのように、優れた霊能者が理解されないことも多い。それでも、霊的エネルギーは物質界でも働き、その真実の力を人は認めざるを得ない。このように、霊的な理解力が高まることを、覚醒という。宗教というものは強制するものではなく、相手の覚醒を待たなければならない。だから、宗教的な独裁制というものは間違っている。自由の世界でこそ、真の霊的な宗教が存在する。
要するに、自発的な動機によらねば、精神的、霊的、宗教的な成功は得られない。イエス・キリストの教えも、自由な心で学ばねば無意味なのです。光の見えない人間に、光のことを教えるのは難しい。そういう、限界を心得ておくことも重要なのです。
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