何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。(if you hold anything against anyone, forgive them.) ― 2025/06/30 19:55
And when you stand praying, if you hold anything against anyone, forgive them, so that your Father in heaven may forgive you your sins.
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。(マルコによる福音書 11:25)
+++ +++ +++
これは、イエスがエルサレムの神殿で、商売人たちを追い出した後で、弟子たちに語った教えです。
人は、誰かに何らかの恨みを持っている。しかし、神様に祈る時には、相手を許してやれ、という教えです。神様の前では、隣人愛を示さなければならない。他人への恨みを許すことで、神様の教えに従っていることになり、神様から自分の過ちを赦してもらえる。
過ちのない人間というものはいない。完全な善を行う神様から見れば、人間は全て何らかの過ちを行っている。神様には、誰をも責める権利がある。しかし、自分に悪をなした他人や隣人を許せば、神様の教えの隣人愛を実行したことになり、神様は、その人間の過ちを許してくれる。
キリスト教的には、人間は誰でも神様に罪を犯している。なぜなら、神様の教えを完全には守っていないからです。また、自分の正義は、他人や隣人の正義とぶつかることが多い。自分から見れば、そのような他人は敵対者となり、そのような人間に恨みを持つことも多い。神様の正義から見れば、それを完全に満たしている者はいない。神様から見れば、人間は敵対者だということになる。人間は、いつ神様に罰されても文句はいえない。しかし、自分の敵対者を許していれば、神様もその人間を許してくれる。隣人愛が増えることが、神様の願いだからです。
逆に、敵対者にどこまでも恨みを持ち、その恨みをはらそうとすると、人間社会に平和はなくなる。誰にでも、自分を苦しめる敵対者がいる。万人は万人の敵となる。また、他人を恨む理由はいくらでもある。だから、文明社会では、私的な復讐は認めれない。公権力が法律に従って、公的な処分を行うことになっている。だから、社会の常識や社会のルールを人は学ばなければならない。
さらに、人間社会は神様の直接支配する霊界の下にある。人間同士の恨み、トラブルも神様の公正な裁きによって解決しなければならない。しかし、憐み深い神様は、人間が互いに許し合えば、隣人愛が実践されているとして、彼らの不完全な善行や神様への愛と信仰を大目に見て下さる。
実際、霊界では、もはや他人に恨みを持つことはない。この世の利害関係を離れて、霊界の愛と平和を知れば、個人的な恨みは消え去る。生きている間の恨みは、霊界で無限の愛を知って消え去る。特に霊格が高まれば、霊界でより多くの愛と真理を知り、生存中の恨みが愚かなことだったと知る。
死後、人間の魂を霊界に入れるときに、他人への恨みの少ない霊を天使たちは好む。そのような人間の霊は、霊界で高い位置に置かれる。神様の愛と真理を知れば、人間の霊は他人に対する恨みを許し、忘れる。霊界は、全善の神様につながろうとする善霊と、どこまでも憎しみや恨みを捨てないで悪魔とつながる悪霊に分かれる。
この世で愛と平和は、敵対者への恨みを捨て去ることで実現する。神様から全ての人間が許しと憐みを受けなければ、愛と平和の世界は実現しない。
全知全能の神様は、全ての人間の心の中を知っており、特に人間の祈りを通して人間の心の真実を知る。隣人愛の実践として、他人への恨みを許す者には、神様から憐みを受けることができる。
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。(マルコによる福音書 11:25)
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これは、イエスがエルサレムの神殿で、商売人たちを追い出した後で、弟子たちに語った教えです。
人は、誰かに何らかの恨みを持っている。しかし、神様に祈る時には、相手を許してやれ、という教えです。神様の前では、隣人愛を示さなければならない。他人への恨みを許すことで、神様の教えに従っていることになり、神様から自分の過ちを赦してもらえる。
過ちのない人間というものはいない。完全な善を行う神様から見れば、人間は全て何らかの過ちを行っている。神様には、誰をも責める権利がある。しかし、自分に悪をなした他人や隣人を許せば、神様の教えの隣人愛を実行したことになり、神様は、その人間の過ちを許してくれる。
キリスト教的には、人間は誰でも神様に罪を犯している。なぜなら、神様の教えを完全には守っていないからです。また、自分の正義は、他人や隣人の正義とぶつかることが多い。自分から見れば、そのような他人は敵対者となり、そのような人間に恨みを持つことも多い。神様の正義から見れば、それを完全に満たしている者はいない。神様から見れば、人間は敵対者だということになる。人間は、いつ神様に罰されても文句はいえない。しかし、自分の敵対者を許していれば、神様もその人間を許してくれる。隣人愛が増えることが、神様の願いだからです。
逆に、敵対者にどこまでも恨みを持ち、その恨みをはらそうとすると、人間社会に平和はなくなる。誰にでも、自分を苦しめる敵対者がいる。万人は万人の敵となる。また、他人を恨む理由はいくらでもある。だから、文明社会では、私的な復讐は認めれない。公権力が法律に従って、公的な処分を行うことになっている。だから、社会の常識や社会のルールを人は学ばなければならない。
さらに、人間社会は神様の直接支配する霊界の下にある。人間同士の恨み、トラブルも神様の公正な裁きによって解決しなければならない。しかし、憐み深い神様は、人間が互いに許し合えば、隣人愛が実践されているとして、彼らの不完全な善行や神様への愛と信仰を大目に見て下さる。
実際、霊界では、もはや他人に恨みを持つことはない。この世の利害関係を離れて、霊界の愛と平和を知れば、個人的な恨みは消え去る。生きている間の恨みは、霊界で無限の愛を知って消え去る。特に霊格が高まれば、霊界でより多くの愛と真理を知り、生存中の恨みが愚かなことだったと知る。
死後、人間の魂を霊界に入れるときに、他人への恨みの少ない霊を天使たちは好む。そのような人間の霊は、霊界で高い位置に置かれる。神様の愛と真理を知れば、人間の霊は他人に対する恨みを許し、忘れる。霊界は、全善の神様につながろうとする善霊と、どこまでも憎しみや恨みを捨てないで悪魔とつながる悪霊に分かれる。
この世で愛と平和は、敵対者への恨みを捨て去ることで実現する。神様から全ての人間が許しと憐みを受けなければ、愛と平和の世界は実現しない。
全知全能の神様は、全ての人間の心の中を知っており、特に人間の祈りを通して人間の心の真実を知る。隣人愛の実践として、他人への恨みを許す者には、神様から憐みを受けることができる。
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