「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」 (マルコによる福音書 第 3 章) ("Whoever does God’s will is my brother and sister and mother.") ― 2026/02/23 11:23
31 さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。
33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。(マルコによる福音書 第 3 章)
31 Then Jesus’ mother and brothers arrived. Standing outside, they sent someone in to call him.
32 A crowd was sitting around him, and they told him, “Your mother and brothers are outside looking for you.”
33 “Who are my mother and my brothers?” he asked.
34 Then he looked at those seated in a circle around him and said, “Here are my mother and my brothers!
35 Whoever does God’s will is my brother and sister and mother.”
+++ +++ +++
イエス・キリストの家族が、伝道中のイエスに会いに来た時のイエスの言葉です。
この世の血肉を分けた家族ではなく、信仰によって結ばれた人がご自分の家族だと明言しておられる。この言葉で、イエスはこの世の家族とのつながりをいったん否定され、神の作られた独立した存在であることを強調されたのです。
いわば、公人としての立場を強調されたことになる。
救世主イエスとしての活動は、私的な宗教活動ではなく、社会で公に行っている行為だと示された。従って、家族との生活の時間は、もはや顧みられることはなく、弟子や信徒との生活が主になる。このとき、天涯孤独の人と同じく、この世の家族生活のない人間として生きることを明確にされた。
ブッダが王族である家族を去って、修行者の生活をされたとの似ている。ブッダは、この世への執着心を絶つために、家族をさられたが、家族愛を完全に否定されたわけではない。しかし、イエスは、神様への信仰の前では、全てが無だという真理を示されたのです。さらに、死後の霊界でも魂は生き続けることを考えれば、この世の家族との縁やしがらみは仮のものだということになる。人間の魂にとっては、神様との関係が全てだといってよい。自分の命は神様が存在して、存在するのだという真理を知ることが信仰なのです。
しかし、家族としての人情を完全に捨て去ることはできない。また母のマリーも伝道して旅するイエスをきづかっており、イエスが冤罪で十字架の刑にかけられたときにもイエスの近くにいた。イエスも弟子の一人に、ご自分の死後はイエスの母の面倒を見るようにと命じておられる。イエスの母マリアは、やはり、特別な存在だったことになる。
ユダヤ教の幹部やローマ軍は、当然、イエスの家族関係も調べたであろうが、家族と断絶したと明言しているイエスに対して、家族は何ら影響を及ぶすことはできなかったし、イエスに不利な証言などをすることはなかったと思われる。家族の裏切りというのは、この世では、よくあることだが、イエスの家族はそのような行為をされなかった。
イエスの兄弟たちは(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟と、複数人の妹がいたと聖書に記されている)、イエスが生きている間は、彼の教えを信じていなかったが、イエスの死後、彼らは教団に加わり、特にヤコブはエルサレム教団の指導的な立場になった。新約聖書の「ヤコブの手紙」と「ユダの手紙」は、これらの兄弟が書いたものと思われる。
いずれにしても、イエス・キリストは、ご自分の行為が社会的に公のものであることを意識しておられた。つまり、伝道生活では冗談や私的な会話などは一切なかったと考えられる。衆人環視の中で、24時間、公人として振舞っていたと考えられる。たまには、陰に隠れて息抜きの時間を持つということもなかったと考えられる。
舞台の上で毎日24時間、演じる続ける役者のようなものです。これは、生身の人間にできることではない。
しかし、誰れでも自分が24時間、神様に監視されていると考えれば、神様の眼から逃れることはできないのが分かる。神様や聖霊、天使は常に自分を見張っていると考えるのが信仰者です。霊の監視カメラは常時まわっている。どこかに、その記録が保管されていると考えるのが信仰者なのです。
つまり、神様の眼はあざむけない。その神様の前で、恥ずべき行為が一切なかったのがイエス・キリストなのです。
32 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。
33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。(マルコによる福音書 第 3 章)
31 Then Jesus’ mother and brothers arrived. Standing outside, they sent someone in to call him.
32 A crowd was sitting around him, and they told him, “Your mother and brothers are outside looking for you.”
33 “Who are my mother and my brothers?” he asked.
34 Then he looked at those seated in a circle around him and said, “Here are my mother and my brothers!
35 Whoever does God’s will is my brother and sister and mother.”
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イエス・キリストの家族が、伝道中のイエスに会いに来た時のイエスの言葉です。
この世の血肉を分けた家族ではなく、信仰によって結ばれた人がご自分の家族だと明言しておられる。この言葉で、イエスはこの世の家族とのつながりをいったん否定され、神の作られた独立した存在であることを強調されたのです。
いわば、公人としての立場を強調されたことになる。
救世主イエスとしての活動は、私的な宗教活動ではなく、社会で公に行っている行為だと示された。従って、家族との生活の時間は、もはや顧みられることはなく、弟子や信徒との生活が主になる。このとき、天涯孤独の人と同じく、この世の家族生活のない人間として生きることを明確にされた。
ブッダが王族である家族を去って、修行者の生活をされたとの似ている。ブッダは、この世への執着心を絶つために、家族をさられたが、家族愛を完全に否定されたわけではない。しかし、イエスは、神様への信仰の前では、全てが無だという真理を示されたのです。さらに、死後の霊界でも魂は生き続けることを考えれば、この世の家族との縁やしがらみは仮のものだということになる。人間の魂にとっては、神様との関係が全てだといってよい。自分の命は神様が存在して、存在するのだという真理を知ることが信仰なのです。
しかし、家族としての人情を完全に捨て去ることはできない。また母のマリーも伝道して旅するイエスをきづかっており、イエスが冤罪で十字架の刑にかけられたときにもイエスの近くにいた。イエスも弟子の一人に、ご自分の死後はイエスの母の面倒を見るようにと命じておられる。イエスの母マリアは、やはり、特別な存在だったことになる。
ユダヤ教の幹部やローマ軍は、当然、イエスの家族関係も調べたであろうが、家族と断絶したと明言しているイエスに対して、家族は何ら影響を及ぶすことはできなかったし、イエスに不利な証言などをすることはなかったと思われる。家族の裏切りというのは、この世では、よくあることだが、イエスの家族はそのような行為をされなかった。
イエスの兄弟たちは(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟と、複数人の妹がいたと聖書に記されている)、イエスが生きている間は、彼の教えを信じていなかったが、イエスの死後、彼らは教団に加わり、特にヤコブはエルサレム教団の指導的な立場になった。新約聖書の「ヤコブの手紙」と「ユダの手紙」は、これらの兄弟が書いたものと思われる。
いずれにしても、イエス・キリストは、ご自分の行為が社会的に公のものであることを意識しておられた。つまり、伝道生活では冗談や私的な会話などは一切なかったと考えられる。衆人環視の中で、24時間、公人として振舞っていたと考えられる。たまには、陰に隠れて息抜きの時間を持つということもなかったと考えられる。
舞台の上で毎日24時間、演じる続ける役者のようなものです。これは、生身の人間にできることではない。
しかし、誰れでも自分が24時間、神様に監視されていると考えれば、神様の眼から逃れることはできないのが分かる。神様や聖霊、天使は常に自分を見張っていると考えるのが信仰者です。霊の監視カメラは常時まわっている。どこかに、その記録が保管されていると考えるのが信仰者なのです。
つまり、神様の眼はあざむけない。その神様の前で、恥ずべき行為が一切なかったのがイエス・キリストなのです。
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