「『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」 (ルカによる福音書 第 17 章) ("you also, when you have done everything you were told to do, should say, ‘We are unworthy servants; we have only done our duty.’”) ― 2026/02/12 10:28
7 「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 (ルカによる福音書 第 17 章)
7 “Suppose one of you has a servant plowing or looking after the sheep. Will he say to the servant when he comes in from the field, ‘Come along now and sit down to eat’?
8 Won’t he rather say, ‘Prepare my supper, get yourself ready and wait on me while I eat and drink; after that you may eat and drink’?
9 Will he thank the servant because he did what he was told to do?
10 So you also, when you have done everything you were told to do, should say, ‘We are unworthy servants; we have only done our duty.’”
+++ +++ +++
イエス・キリストが弟子たちに与えた教えの1つです。
弟子たちに、神様の僕(しもべ)としての心構えを説いたのです。あくまでも、召し使いは主人の意に従わねばならない。だから、忠実な召し使いとして「命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」と教えておられる。
これは、神様の召し使いとなるのが信仰者の務めであることを意味しており、神様の教えを守って実行した後で、『『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言えと指示しておられる。信仰者であることを誇ってはならない、という意味です。神様の前では、どこまでも謙虚でなければならない。また、神様は召し使いの人間が、いくら神様に忠実であっても、その人間に感謝を示すことなどないのです。
あくまで、人間は、自分の人生の主人公は神様であり、自分は主である神様の取るに足りないしもべだという意識を持たねばならない。
人間は、誰でも心の奥底では、自分が一番大事だと考えている。信仰者ですら、神より自分の方が大事だと考えている。神は自分の願いを叶え、自分にサービスをする義務があるかのように考えるものです。だから、神に願い事をしても、それが実現しなければ、神を呪ったり、失望したりする。そのような人間本位の生き方は正しくない、というのがイエスの教えです。
つまり、人間社会が亡んでも、神様にとっては何の関係もない。ただ、神様は人間を愛しておられるので。人間社会が滅びないように指導したり、力を行使したりしておられる。また、神様の一人子のイエス・キリストを人間の世に遣わして、人間が滅びないようにしておられる。
しかし、人間を滅ぼすのを望む悪魔は、イエスの邪魔をし、多くの人間の魂が地獄に落ちるのを楽しむ。神様が愛する人間が地獄に落ちれば、神様が悲しむのを知っているからです。少しでも神様を悲しましたり、不快な目に合わせることが悪魔の意図なのです。そして、人間を思い上がらせて、主である神様をないがしろにさせようとしている。
だから、人間はあくまで神様の僕であることを弁えよというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世も、死後の霊界も、主人は神様なのです。人間は、如何にして神様を喜ばせることができるかを常に考えねばならない。神様の教えを守ることは当然であり、当然のことをしたからといって、人間が主である神様にほめられることはない。そのように、謙虚な信仰心を持てというのがイエス・キリストの教えです。神様は、この世の皇帝、天皇、王様、大統領や首相より、はるかに上位のお方だと認めなければならない。
そのような謙虚さの現れていない聖職者、神父、牧師は未熟な人間だということになる。自分の地位や肩書を神様の前に誇るというのは、とんでもない思い上がりです。
神様の僕として、謙虚さを持て、というのが本来のキリスト教なのです。
人間本位の生き方ではなく、神様本位の生き方をするのが、神様を信仰する信仰者の務めなのです。自分の命より大事なのが、神様なのです。
8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 (ルカによる福音書 第 17 章)
7 “Suppose one of you has a servant plowing or looking after the sheep. Will he say to the servant when he comes in from the field, ‘Come along now and sit down to eat’?
8 Won’t he rather say, ‘Prepare my supper, get yourself ready and wait on me while I eat and drink; after that you may eat and drink’?
9 Will he thank the servant because he did what he was told to do?
10 So you also, when you have done everything you were told to do, should say, ‘We are unworthy servants; we have only done our duty.’”
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イエス・キリストが弟子たちに与えた教えの1つです。
弟子たちに、神様の僕(しもべ)としての心構えを説いたのです。あくまでも、召し使いは主人の意に従わねばならない。だから、忠実な召し使いとして「命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」と教えておられる。
これは、神様の召し使いとなるのが信仰者の務めであることを意味しており、神様の教えを守って実行した後で、『『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言えと指示しておられる。信仰者であることを誇ってはならない、という意味です。神様の前では、どこまでも謙虚でなければならない。また、神様は召し使いの人間が、いくら神様に忠実であっても、その人間に感謝を示すことなどないのです。
あくまで、人間は、自分の人生の主人公は神様であり、自分は主である神様の取るに足りないしもべだという意識を持たねばならない。
人間は、誰でも心の奥底では、自分が一番大事だと考えている。信仰者ですら、神より自分の方が大事だと考えている。神は自分の願いを叶え、自分にサービスをする義務があるかのように考えるものです。だから、神に願い事をしても、それが実現しなければ、神を呪ったり、失望したりする。そのような人間本位の生き方は正しくない、というのがイエスの教えです。
つまり、人間社会が亡んでも、神様にとっては何の関係もない。ただ、神様は人間を愛しておられるので。人間社会が滅びないように指導したり、力を行使したりしておられる。また、神様の一人子のイエス・キリストを人間の世に遣わして、人間が滅びないようにしておられる。
しかし、人間を滅ぼすのを望む悪魔は、イエスの邪魔をし、多くの人間の魂が地獄に落ちるのを楽しむ。神様が愛する人間が地獄に落ちれば、神様が悲しむのを知っているからです。少しでも神様を悲しましたり、不快な目に合わせることが悪魔の意図なのです。そして、人間を思い上がらせて、主である神様をないがしろにさせようとしている。
だから、人間はあくまで神様の僕であることを弁えよというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世も、死後の霊界も、主人は神様なのです。人間は、如何にして神様を喜ばせることができるかを常に考えねばならない。神様の教えを守ることは当然であり、当然のことをしたからといって、人間が主である神様にほめられることはない。そのように、謙虚な信仰心を持てというのがイエス・キリストの教えです。神様は、この世の皇帝、天皇、王様、大統領や首相より、はるかに上位のお方だと認めなければならない。
そのような謙虚さの現れていない聖職者、神父、牧師は未熟な人間だということになる。自分の地位や肩書を神様の前に誇るというのは、とんでもない思い上がりです。
神様の僕として、謙虚さを持て、というのが本来のキリスト教なのです。
人間本位の生き方ではなく、神様本位の生き方をするのが、神様を信仰する信仰者の務めなのです。自分の命より大事なのが、神様なのです。
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