富んでいる者も、その活動の最中に消え去る (ヤコブの手紙 1:11) (the rich will fade away even while they go about their business)2025/07/05 02:03

For the sun rises with scorching heat and withers the plant; its blossom falls and its beauty is destroyed. In the same way, the rich will fade away even while they go about their business.

たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その活動の最中に消え去るであろう。(ヤコブの手紙 1:11)

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これは、イエス・キリストの12弟子の一人のヤコブが書いた手紙の一節です。

この世の繁栄のはかなさを述べています。富のある者が没落するのを、夏の日照りの中で、美しい花が枯れるのにたとえています。これは、豊かさを求める人への警告です。

ただし、客観的には一生、豊かな生活を送る者もいます。悪運の強い金持ちもいます。富に囲まれて一生を送る者のもいます。しかし、その人間の心の中では、不満がくすぶっているものです。富の獲得・蓄積の欲望には限界がなく、100万長者は、億万長者を目指し、億万長者は兆の資産を目指し、兆の富を持つ者は、さらに、その10倍、100倍の富の獲得を目指す。拝金主義に終点はない。富を増やし、維持することが人生の目標になる。だから、いくらカネを持っていても、満たされることはない。

そういう拝金主義の人生では、物質的な富の量、財産の金額、資産の数字だけしか見えなくなる。何でもカネで買えると錯覚をする。人間を財産や所有しているカネの額だけで判断する。人情、隣人愛、社会的良識、宗教心などは軽視される。富を獲得・蓄積するための悪だくみ、陰謀、悪事、欺瞞、狡猾さばかりに頭を使い、悪魔に魂を売る。しかし、全知全能かつ全善の神様は、その人間の生存中に裁きを下し、富のもたらす幸福感すら取り去る。それは、強い日差しが草花を枯らすようなものです。

実際、死後の霊界では、カネや物質的な財産は意味を持たない。霊界では、想念が直ちに実現する。カネがなくても、衣食住には困らない。どんな、贅沢品でも手に入る。そして、富で他人に優越感を感じることもなくなる。しかし、生きている間に貧しい者を軽蔑し、他人を騙し、支配しようとする心は残るので、カネ持ち同士は暴力によって争う。そして、より悪魔と結びついた邪悪な者が、他人を支配するが、さらにそれより凶悪な霊が現れて、勝利者を支配する。霊界の地獄は平和も調和もない、闇の闘争の場となる。

つまり、この世で富んだ者は、この世で霊的な安らぎは得られず、あの世では、支配欲に駆られた他の霊の攻撃を受けれる。彼らの充足感を得るという夢は。日照りの下の草花のように消える。

これが、イエスの弟子の得た教訓です。本来、キリスト教は、こような富に対する警告から出発している。全ての宗教の中でも、これほど明確に豊かな者を批判した宗教はない。

本来、キリスト教は、数しい人のための教えなのです。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.)2025/07/03 21:22

Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)
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これは、イエス・キリストの弟子たちへの説教です。

人は、まず当然のことのように自分を愛する。自分が一番可愛い、自分をほめてやりたい、自分にほうびを与えたい。これは、自然な感情です。その次には、自分の家族、親族、そして恩人となる。しかし、自分の友のために、自分の命を捨てるような人間は、滅多にいない。しかし、イエスは、神様への愛や、自分への愛よりも、友のために自分の命を捨てることほど大きな愛はないと仰っている。


そして、イエスは自分の言葉を実行する者は、自分の友だと言っておられる。神の子、イエスの友だということは、神様の友にもなる。神様というのは、はるかな高みにおられ、低く卑しい位置の人間には仰ぎ見るだけの存在だったのが、イエスを通して友になる。

神の子、イエスや、神様のために、自分の命を捨てることができれば、神様の友にもなれる。神様は、全知全能かつ全善のお方です。神様は悪魔から人間を守って下さるお方です。この世の不幸の源の悪魔から守ってもらえれば、人間には怖いものはない。超能力や霊能力で、この世の不幸を克服する以上の威力を得ることができる。これほど有難い教えはない。

世の中には、神は自分の心の中にいる、と考えるものもいるが、これは危険な考えです。無限の神様が、有限の人間の中にいるというのは、矛盾している。人間は、その心を通して神様とつながることが出来るというのが正しい。有限は、無限の一部となる。しかし、有限はイコール無限ではない。人間は、神ではない。

この意味で、イエスが神の子だというのは、意味が深い。イエスは、自分は神様だとは言っていない。

このような神学的議論の前に、この世でも、人が友のために命を捨てるというのは、滅多にできることではない。まず、友を作るということが難しい。逆に、世の中には偽りの友や、裏切りの友、友の仮面をかぶった悪魔、危険な友、心の中では人をバカにする友、その場限りの便宜上の友、勘違いの友などが多い。真の霊的な信仰心のない人間は、人の友にはなれない。

それでも、魂のレベルで相手を敬愛することができれば、真の友となる。この世だけの付き合いではなく、霊界での関係にかかわる、友情と言うものは。

霊界ということは、死後の世界ということです。真の友情とは、この世の利害関係を超えて、死後の世界にまで関わるものです。だから、友のために、この世の命を捨てることに意味がある。霊は、この世では死なないが、友情はあの世でも生き続ける。イエスは、霊的な世界を見据えて語っている。

ただし、友情というものは強制されるものではない。相手の魂との共鳴です。それでも、自然な情だけでなく、この世と霊界に関わる客観的な判断がついて回る。恋は盲目だが、友情は盲目ではない。この世の損得という意味ではなく、霊的な正邪の判断も付いて回る。悪魔の手下になったような人間と友になるものはいない。

神の子、イエスとつながるような人間を友にすれば、自分の命などは問題ではなくなる。なぜなら、死後の霊界で神様やイエス・キリストに救われるのが確実になるからです。

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない (For many are invited, but few are chosen.)」(マタイによる福音書 22:11~14)2025/07/02 21:43

“But when the king came in to see the guests, he noticed a man there who was not wearing wedding clothes. He asked, ‘How did you get in here without wedding clothes, friend?’ The man was speechless. Then the king told the attendants, ‘Tie him hand and foot, and throw him outside, into the darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth. ’For many are invited, but few are chosen.”

「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。(マタイによる福音書 22:11~14)

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これは、イエス・キリストが弟子に、「天国とは、王が王子のために婚姻の宴を催すようなものだ」と教えた時の、説教の続きです。

王子の婚宴の場に、正装をしていない人物がいたので、王はその人に怒って、婚宴の場から放り出した。そして、婚宴のような場に招かれる者は多いが、その場に相応しいとして選ばれる者は少ない、と述べた。

婚宴の場とは、天国のことです。正装をしていないとは、正しい信仰を持っていない人だということです。この世に生存中は貧しい生活をしていたので、死後は天国に入ることができたが、正しい信仰心を持っていなかったので、天国から追い出されたという話しです。

これは、死後の魂が行く天国について、その厳しさを教えている。

イエスは「金持ちは天国に入れない」と教えているが、天国に入った貧乏人は、正しい信仰心があるか否かを審査される。正しい信仰心がない魂は、天国から追放され、素晴らしい天国から追放された悔しさで、怒り、嘆き、悔しさで泣きわめく。天国の外は地獄につながる暗闇です。

臨死体験者は多いが、天国に入って信仰心の審査を受けるところまで行った人はほとんどいない。この世で生存中に貧しい生活をしていなければ、天国には入れないが、天国ではその人の信仰心が調べられ、ふさわしい信仰心がなければ、天国から追い出される。

それでも、天国の審査に通り、天国に受け入れられれば、天国で永遠の命と幸福を得る。それは、天国に入れなかった者が、死ぬほど羨む素晴らしい境遇です。だから、天国を追い出された者は、悔しがって、泣き叫んだり、歯がみをして怒りを表す。

この世では、カネの力で物質的な幸福を得ることができる。また、外見上は信仰心があるように振る舞い、人々の尊敬を得ることができる。また、上品な紳士面をして高い評価を得ることもできる。しかし、死後、霊界の天国で受け入れられるには、愛と信仰心が試され、その人間の真実が明らかにされ、天国にふさわしくない者は、天国から追放される。

貧しい者への隣人愛があれば、自分自身も貧しい暮らしをするようになる。また、心の奥底で神様を愛し、信仰していれば、人の心の中まで知ることのできる神様や天使の目をごまかすことはできない。要するに、生きている間に清貧生活をしたものでなければ、死後は天国に受け入れられない。つまり、この世の富裕層やエリートは、死後、天国には入れない。これが、本当のキリスト教の厳しさです。イエスの教えの核心です。

死後に天国に受け入れてもらえなければ、死後の霊界の存在は無意味です。だから、地獄に落ちることが確実になった人々は、霊界のことなど信じなくなる。霊能力なども否定する。この世が全てだとという妄信を広める。彼らの背後には地獄の支配者の悪魔がいる。

このような霊的な真実は、カネに汚染されたこの世の常識にはならない。この世的な学問や修業をしても、理解できない。つまり、普通の人間には理解できない。それでも、イエスは真実を伝えており、イエスの言葉を信じる者は救われるのです。

信仰者とは、この世のことより、死後の霊界の天国のことを考える人のことです。

何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。(if you hold anything against anyone, forgive them.)2025/06/30 19:55

And when you stand praying, if you hold anything against anyone, forgive them, so that your Father in heaven may forgive you your sins.

また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。(マルコによる福音書 11:25)

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これは、イエスがエルサレムの神殿で、商売人たちを追い出した後で、弟子たちに語った教えです。

人は、誰かに何らかの恨みを持っている。しかし、神様に祈る時には、相手を許してやれ、という教えです。神様の前では、隣人愛を示さなければならない。他人への恨みを許すことで、神様の教えに従っていることになり、神様から自分の過ちを赦してもらえる。

過ちのない人間というものはいない。完全な善を行う神様から見れば、人間は全て何らかの過ちを行っている。神様には、誰をも責める権利がある。しかし、自分に悪をなした他人や隣人を許せば、神様の教えの隣人愛を実行したことになり、神様は、その人間の過ちを許してくれる。

キリスト教的には、人間は誰でも神様に罪を犯している。なぜなら、神様の教えを完全には守っていないからです。また、自分の正義は、他人や隣人の正義とぶつかることが多い。自分から見れば、そのような他人は敵対者となり、そのような人間に恨みを持つことも多い。神様の正義から見れば、それを完全に満たしている者はいない。神様から見れば、人間は敵対者だということになる。人間は、いつ神様に罰されても文句はいえない。しかし、自分の敵対者を許していれば、神様もその人間を許してくれる。隣人愛が増えることが、神様の願いだからです。

逆に、敵対者にどこまでも恨みを持ち、その恨みをはらそうとすると、人間社会に平和はなくなる。誰にでも、自分を苦しめる敵対者がいる。万人は万人の敵となる。また、他人を恨む理由はいくらでもある。だから、文明社会では、私的な復讐は認めれない。公権力が法律に従って、公的な処分を行うことになっている。だから、社会の常識や社会のルールを人は学ばなければならない。

さらに、人間社会は神様の直接支配する霊界の下にある。人間同士の恨み、トラブルも神様の公正な裁きによって解決しなければならない。しかし、憐み深い神様は、人間が互いに許し合えば、隣人愛が実践されているとして、彼らの不完全な善行や神様への愛と信仰を大目に見て下さる。

実際、霊界では、もはや他人に恨みを持つことはない。この世の利害関係を離れて、霊界の愛と平和を知れば、個人的な恨みは消え去る。生きている間の恨みは、霊界で無限の愛を知って消え去る。特に霊格が高まれば、霊界でより多くの愛と真理を知り、生存中の恨みが愚かなことだったと知る。

死後、人間の魂を霊界に入れるときに、他人への恨みの少ない霊を天使たちは好む。そのような人間の霊は、霊界で高い位置に置かれる。神様の愛と真理を知れば、人間の霊は他人に対する恨みを許し、忘れる。霊界は、全善の神様につながろうとする善霊と、どこまでも憎しみや恨みを捨てないで悪魔とつながる悪霊に分かれる。

この世で愛と平和は、敵対者への恨みを捨て去ることで実現する。神様から全ての人間が許しと憐みを受けなければ、愛と平和の世界は実現しない。

全知全能の神様は、全ての人間の心の中を知っており、特に人間の祈りを通して人間の心の真実を知る。隣人愛の実践として、他人への恨みを許す者には、神様から憐みを受けることができる。

「兄弟に対してばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」(anyone who says, ‘You fool!’ will be in danger of the fire of hell)2025/06/29 03:06

But I tell you that anyone who is angry with a brother or sister will be subject to judgment. Again, anyone who says to a brother or sister, ‘Raca,’ is answerable to the court. And anyone who says, ‘You fool!’ will be in danger of the fire of hell.

しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも霊的な裁きを受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、霊的な裁きの場に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。(マタイによる福音書 5:27)

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これは、イエス・キリストが山に登って多くの人々に説教したときの言葉です。山上の垂訓と呼ばれる、イエスの説教です。

隣人愛を勧めるイエスは、人に最も近い隣人である兄弟・姉妹が互いに尊重し合うようにと、教えている。それを表した言葉がこの教えです。兄弟を何らかの理由で軽蔑する人間は、神様の怒りを買うということです。

人間の最も近い相手・隣人は両親ですが、その次に近いのが祖父や祖母と兄弟・姉妹です。血は水よりも濃いと、日本でも言われている。生物学的には、遺伝子やDNAは兄弟・姉妹の間で共通している。そのような親族を軽蔑することは、自分を軽蔑することにつながる。これは、その一族を生んだ神様の気持ちを軽んじることになる。だから、兄弟・姉妹を軽蔑することは、神様を軽蔑することになる。普通の親は、兄弟・姉妹が仲良くすることを望んでいる。それが、世の中の平和の第一歩なのです。

しかし、現在の日本の高齢化社会では、年老いた親の介護や遺産相続をめぐって、兄弟・姉妹の間で争いが絶えない。最悪の場合には、介護殺人や相続殺人が発生する。これは、物質文明が崩壊する兆しです。物質的な幸福に洗脳された人間は、霊的な人間のつながりなどは考えない。人を経済的観点からしか見なくなる。人情も、隣人愛も理解できない人間ばかりの社会になれば、危険な殺伐とした社会になる。

親が長男・長女の面倒を見て、長男・長女が次男・次女の面倒を見て。次男・次女が三男・三女の面倒を見るのが、自然な家族関係です。しかし、物質文明の発展によって、個人主義が増長し、家族の絆が分断されるようになった。また、一人っ子の家庭が増え、兄弟・姉妹もいない人間が増えて、人間関係の理解も浅くなっている。一族同士の結びつきも希薄になり、個人と社会の関係が重要になり、制度や社会的ルールが重要になっている。これは、個人と神様の関係が人間存在の基本となる欧米文化の影響でもある。しかし、中国では今も家族の絆が基本であり、日本でも親族の重要性が社会で認められている。その家族・親族の構成の基本は、兄弟・姉妹の結びつきだということになる。

現在のキリスト教でも、修道士や修道女は、ブラザー(兄弟)やシスター(姉妹)と呼び合い、疑似的な血族関係を構成している。また、神様のことは天の父と呼んで、神様と親族的な関係を持とうとしている。従って、この世の血のつながった親、兄弟、親族の関係は、霊的な関係にまで拡大される。これが、人間社会の基本です。だから、全人類は親である神様の子供として、兄弟・姉妹同士であるという教義につながる。これが、世界平和の基礎なのです。

つまり、自分の親を尊敬しない者は、神様も尊敬しない。自分の兄弟・姉妹も敬愛しない者は、社会も尊重しない。つまり、この世を滅ぼしたいという悪魔の手先になる。だから、決して兄弟・姉妹を罵ってはならない。兄弟・姉妹の欠点は自分の欠点でもある。互にかばい合わなければならない。悪魔は、そのような愛のある家庭には入り込めない。

自分と同じ遺伝子、DNA をもつ人間である兄弟・姉妹を敬愛することが、血族・親族・一族を敬愛することになり、それが社会全体の安定につながり、また、人類と言う生物種の繁栄・存続につながる。

しかし、悪魔は兄弟・姉妹を離反させ、親族の絆を破壊し、一族の反目を増長し、ひいては、社会の没落を引き起こし、やがては、人類の滅亡を引き起こそうとしている。人類が滅びた地球で狂ったように高笑いするのが悪魔の目論見なのです。

つまり、人類、世界の平和は家族、兄弟・姉妹の間の円満な関係から始まる。国連で平和演説をするのではく、自分の家族の中で、互いに仲良くするのが、本当の平和活動なのです。
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