「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない (For many are invited, but few are chosen.)」(マタイによる福音書 22:11~14)2025/07/02 21:43

“But when the king came in to see the guests, he noticed a man there who was not wearing wedding clothes. He asked, ‘How did you get in here without wedding clothes, friend?’ The man was speechless. Then the king told the attendants, ‘Tie him hand and foot, and throw him outside, into the darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth. ’For many are invited, but few are chosen.”

「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。(マタイによる福音書 22:11~14)

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これは、イエス・キリストが弟子に、「天国とは、王が王子のために婚姻の宴を催すようなものだ」と教えた時の、説教の続きです。

王子の婚宴の場に、正装をしていない人物がいたので、王はその人に怒って、婚宴の場から放り出した。そして、婚宴のような場に招かれる者は多いが、その場に相応しいとして選ばれる者は少ない、と述べた。

婚宴の場とは、天国のことです。正装をしていないとは、正しい信仰を持っていない人だということです。この世に生存中は貧しい生活をしていたので、死後は天国に入ることができたが、正しい信仰心を持っていなかったので、天国から追い出されたという話しです。

これは、死後の魂が行く天国について、その厳しさを教えている。

イエスは「金持ちは天国に入れない」と教えているが、天国に入った貧乏人は、正しい信仰心があるか否かを審査される。正しい信仰心がない魂は、天国から追放され、素晴らしい天国から追放された悔しさで、怒り、嘆き、悔しさで泣きわめく。天国の外は地獄につながる暗闇です。

臨死体験者は多いが、天国に入って信仰心の審査を受けるところまで行った人はほとんどいない。この世で生存中に貧しい生活をしていなければ、天国には入れないが、天国ではその人の信仰心が調べられ、ふさわしい信仰心がなければ、天国から追い出される。

それでも、天国の審査に通り、天国に受け入れられれば、天国で永遠の命と幸福を得る。それは、天国に入れなかった者が、死ぬほど羨む素晴らしい境遇です。だから、天国を追い出された者は、悔しがって、泣き叫んだり、歯がみをして怒りを表す。

この世では、カネの力で物質的な幸福を得ることができる。また、外見上は信仰心があるように振る舞い、人々の尊敬を得ることができる。また、上品な紳士面をして高い評価を得ることもできる。しかし、死後、霊界の天国で受け入れられるには、愛と信仰心が試され、その人間の真実が明らかにされ、天国にふさわしくない者は、天国から追放される。

貧しい者への隣人愛があれば、自分自身も貧しい暮らしをするようになる。また、心の奥底で神様を愛し、信仰していれば、人の心の中まで知ることのできる神様や天使の目をごまかすことはできない。要するに、生きている間に清貧生活をしたものでなければ、死後は天国に受け入れられない。つまり、この世の富裕層やエリートは、死後、天国には入れない。これが、本当のキリスト教の厳しさです。イエスの教えの核心です。

死後に天国に受け入れてもらえなければ、死後の霊界の存在は無意味です。だから、地獄に落ちることが確実になった人々は、霊界のことなど信じなくなる。霊能力なども否定する。この世が全てだとという妄信を広める。彼らの背後には地獄の支配者の悪魔がいる。

このような霊的な真実は、カネに汚染されたこの世の常識にはならない。この世的な学問や修業をしても、理解できない。つまり、普通の人間には理解できない。それでも、イエスは真実を伝えており、イエスの言葉を信じる者は救われるのです。

信仰者とは、この世のことより、死後の霊界の天国のことを考える人のことです。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.)2025/07/03 21:22

Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)
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これは、イエス・キリストの弟子たちへの説教です。

人は、まず当然のことのように自分を愛する。自分が一番可愛い、自分をほめてやりたい、自分にほうびを与えたい。これは、自然な感情です。その次には、自分の家族、親族、そして恩人となる。しかし、自分の友のために、自分の命を捨てるような人間は、滅多にいない。しかし、イエスは、神様への愛や、自分への愛よりも、友のために自分の命を捨てることほど大きな愛はないと仰っている。


そして、イエスは自分の言葉を実行する者は、自分の友だと言っておられる。神の子、イエスの友だということは、神様の友にもなる。神様というのは、はるかな高みにおられ、低く卑しい位置の人間には仰ぎ見るだけの存在だったのが、イエスを通して友になる。

神の子、イエスや、神様のために、自分の命を捨てることができれば、神様の友にもなれる。神様は、全知全能かつ全善のお方です。神様は悪魔から人間を守って下さるお方です。この世の不幸の源の悪魔から守ってもらえれば、人間には怖いものはない。超能力や霊能力で、この世の不幸を克服する以上の威力を得ることができる。これほど有難い教えはない。

世の中には、神は自分の心の中にいる、と考えるものもいるが、これは危険な考えです。無限の神様が、有限の人間の中にいるというのは、矛盾している。人間は、その心を通して神様とつながることが出来るというのが正しい。有限は、無限の一部となる。しかし、有限はイコール無限ではない。人間は、神ではない。

この意味で、イエスが神の子だというのは、意味が深い。イエスは、自分は神様だとは言っていない。

このような神学的議論の前に、この世でも、人が友のために命を捨てるというのは、滅多にできることではない。まず、友を作るということが難しい。逆に、世の中には偽りの友や、裏切りの友、友の仮面をかぶった悪魔、危険な友、心の中では人をバカにする友、その場限りの便宜上の友、勘違いの友などが多い。真の霊的な信仰心のない人間は、人の友にはなれない。

それでも、魂のレベルで相手を敬愛することができれば、真の友となる。この世だけの付き合いではなく、霊界での関係にかかわる、友情と言うものは。

霊界ということは、死後の世界ということです。真の友情とは、この世の利害関係を超えて、死後の世界にまで関わるものです。だから、友のために、この世の命を捨てることに意味がある。霊は、この世では死なないが、友情はあの世でも生き続ける。イエスは、霊的な世界を見据えて語っている。

ただし、友情というものは強制されるものではない。相手の魂との共鳴です。それでも、自然な情だけでなく、この世と霊界に関わる客観的な判断がついて回る。恋は盲目だが、友情は盲目ではない。この世の損得という意味ではなく、霊的な正邪の判断も付いて回る。悪魔の手下になったような人間と友になるものはいない。

神の子、イエスとつながるような人間を友にすれば、自分の命などは問題ではなくなる。なぜなら、死後の霊界で神様やイエス・キリストに救われるのが確実になるからです。

富んでいる者も、その活動の最中に消え去る (ヤコブの手紙 1:11) (the rich will fade away even while they go about their business)2025/07/05 02:03

For the sun rises with scorching heat and withers the plant; its blossom falls and its beauty is destroyed. In the same way, the rich will fade away even while they go about their business.

たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その活動の最中に消え去るであろう。(ヤコブの手紙 1:11)

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これは、イエス・キリストの12弟子の一人のヤコブが書いた手紙の一節です。

この世の繁栄のはかなさを述べています。富のある者が没落するのを、夏の日照りの中で、美しい花が枯れるのにたとえています。これは、豊かさを求める人への警告です。

ただし、客観的には一生、豊かな生活を送る者もいます。悪運の強い金持ちもいます。富に囲まれて一生を送る者のもいます。しかし、その人間の心の中では、不満がくすぶっているものです。富の獲得・蓄積の欲望には限界がなく、100万長者は、億万長者を目指し、億万長者は兆の資産を目指し、兆の富を持つ者は、さらに、その10倍、100倍の富の獲得を目指す。拝金主義に終点はない。富を増やし、維持することが人生の目標になる。だから、いくらカネを持っていても、満たされることはない。

そういう拝金主義の人生では、物質的な富の量、財産の金額、資産の数字だけしか見えなくなる。何でもカネで買えると錯覚をする。人間を財産や所有しているカネの額だけで判断する。人情、隣人愛、社会的良識、宗教心などは軽視される。富を獲得・蓄積するための悪だくみ、陰謀、悪事、欺瞞、狡猾さばかりに頭を使い、悪魔に魂を売る。しかし、全知全能かつ全善の神様は、その人間の生存中に裁きを下し、富のもたらす幸福感すら取り去る。それは、強い日差しが草花を枯らすようなものです。

実際、死後の霊界では、カネや物質的な財産は意味を持たない。霊界では、想念が直ちに実現する。カネがなくても、衣食住には困らない。どんな、贅沢品でも手に入る。そして、富で他人に優越感を感じることもなくなる。しかし、生きている間に貧しい者を軽蔑し、他人を騙し、支配しようとする心は残るので、カネ持ち同士は暴力によって争う。そして、より悪魔と結びついた邪悪な者が、他人を支配するが、さらにそれより凶悪な霊が現れて、勝利者を支配する。霊界の地獄は平和も調和もない、闇の闘争の場となる。

つまり、この世で富んだ者は、この世で霊的な安らぎは得られず、あの世では、支配欲に駆られた他の霊の攻撃を受けれる。彼らの充足感を得るという夢は。日照りの下の草花のように消える。

これが、イエスの弟子の得た教訓です。本来、キリスト教は、こような富に対する警告から出発している。全ての宗教の中でも、これほど明確に豊かな者を批判した宗教はない。

本来、キリスト教は、数しい人のための教えなのです。

「わたしをせつに求める者は、わたしに出会う (箴言 8:17~18)」(those who seek me find me)2025/07/07 01:23

I love those who love me, and those who seek me find me.
With me are riches and honor, enduring wealth and prosperity.

わたしは、わたしを愛する者を愛する。わたしを切に求める者は、わたしに出会う。
富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。(箴言 8:17~18)

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箴言(しんげん)とは、人生の教訓の意味を含めた短い句や格言を意味し、 キリスト教では知恵文学の1つとされている。ユダヤ教とのつながりを示す旧約聖書の一部です。

この句は、神の言葉を述べたものです。ユダヤ教の神は、本来、ユダヤ民族の神であり、全人類の神様という立場ではなく、特定の人々の神様だという特徴がある。しかし、キリスト教の神は全人類の神様だという立場を取っている。それでも、ユダヤ教は、唯一、絶対の神様に至る過程で必要な信仰の段階を示している。そのユダヤ民族の中から、イエス・キリストは現れたのです。

まず、神様は、ご自分を愛し、求める者にしかこたえない。また、この世の富も名誉も神様が支配するものだと宣言している。要するに、ユダヤ人以外には、霊力も富も、名誉も与えないと言われている。

しかし、イエスの出現によって、ユダヤ民族の神が全人類の神となった。これは、人間の考えでは理解を超えた現象です。信仰とは、人間の判断で理解できるものではない。それでも、そのような神の言葉を受け入れるのが本当の人間の取るべき態度だということになる。

もし、古代日本にイエスが出現していれば、古代日本の神話の神が全人類の神になったはずです。しかし、万物の創造主の神様はユダヤ人を選ばれたということになる。さらに、神様が送られた神の子、イエス・キリストを受け入れなかったユダヤ民族ではなく、イエスを受け入れた一部のユダヤ人が伝えるイエスの教えがキリスト教となって、全人類に神様の恵みが与えられることになった。ただし、神はユダヤ人を完全には見捨てなかった。さらに、ユダヤ教から派生したイスラム教の存在も許された。これが、現在の世界の宗教状況です。

だから、日本人も全人類の一員として、イエスの教えに従うのが正しい。このイエスの教えに一番近いのがキリスト教だということになる。だから、日本人も理屈抜きで聖書を学ぶべきだということになる。

このように、歴史的、宗教的な説明はつくが、日本人が聖書の威力を認めるのも、理屈ではなく、霊的な導きによらねばならない。要するに、奇跡を見たり、霊感によったり、理屈では説明できない精神的/霊的な出来事によって、イエスの教えに導かれるのが正しい信仰への途だということになる。

実際、神様に見捨てられなかったユダヤ人は、現在も世界の富と権力に大きな影響を持っている。その象徴が、ロスチャイルドなどのユダヤ人大富豪や、超大国アメリカに大きな影響力をもつイスラエルです。

世界の人口の0.2%しかいないユダヤ人が、世界の富の50%を握っているといわれる。また、世界の大富豪のベスト500のうち、ユダヤ人は200名にも上り、ノーベル賞経済経営学部門でも、受賞者の6割がユダヤ人です。3千年前に書かれた旧約聖書の威力です。だから、ユダヤ人はキリスト教に改宗する必要は感じていない。

イスラエルが、イランなどに攻撃されれば、トランプですらイランを爆撃する。アメリカとの血のつながりでは、イギリスが最も強いが、霊的なつながりでは、イスラエルが最も強い。日本は、本来、アメリカとは縁が薄い。日本神話や天皇神話はアメリカでは、蛮族の言い伝え程度の意味しかない。

しかし、第二次世界大戦にアメリカが参戦し、戦後は世界の超大国となったのは、日本の真珠湾攻撃がきっかけであり、また、広島・長崎に落とされた原爆の結果です。世界の歴史の陰に隠れていた日本人が、人類の歴史に大きな影響を与えた。だから、今もアメリカ人やユダヤ人が日本を軽視できないのは、20世紀以降の歴史にある。

実際、日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが日本やドイツに宣戦し、第二次大戦にアメリカが勝利したから、ユダヤ人は第二次大戦を生き延び、今や世界を動かす勢力となっている。日本が真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦に参戦したのは狂気の沙汰だったが、その結果が現在の世界情勢につながっている。神様が、20世紀に日本を、ある意図のもとに使われたのは明らかです。

そして、戦後から現在にいたるまで、日本はキリスト教国アメリカの民主主義に基づく憲法を採用し、平和と繁栄を享受できた。つまり、現在の日本の繁栄と平和は聖書のお陰なのです。それを考えれば、日本人はもっと聖書を読み、イエスの教えを学ぶべきです。

ただし、今のキリスト教は、霊能力を失っており、教会も拝金主義に毒されている。神父や牧師の中にも、イエスのような奇跡を起こせる者はほとんどいない。

だから、教会に行かなくてもよいし、神父や牧師を尊敬しなくてもよいが、聖書を読んでイエスの言葉は学ぶべきです。そうすれば、神様が奇跡を通して、その影を表してくれる。神様の影を拝むだけでも、霊的な効果は表れる。これが、持つべき信仰です。

「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(all who draw the sword will die by the sword)(マタイによる福音書 26:52~53)2025/07/07 22:14

“Put your sword back in its place,” Jesus said to him, “for all who draw the sword will die by the sword. Do you think I cannot call on my Father, and he will at once put at my disposal more than twelve legions of angels?

そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」(マタイによる福音書 26:52~53)

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これは、イエス・キリストが裏切られて、ユダヤ教の祭司やローマ兵に逮捕されるときに、イエスの忠実な弟子がイエスを守ろうとして、剣を抜いて敵の手下の耳に切りつけたときに、イエスがその弟子を諫めた言葉です。

暴力を使うものは、暴力で滅びる、という警告だとされている。だから、キリスト教信者は、平和主義者にならなければならない。ただし、イエス以降、2千年間バチカンが主導するヨーロッパは、常に平和な状態だったとは言えない。

イエスの刑死後、まだキリスト教国となる前のローマ帝国の軍隊はパレスチナを攻撃して、ユダヤ/ローマ戦争を始めているし、今ではロシアがウクライナに戦争を仕掛けている。キリスト教圏のヨーロッパですら、イエスの平和の教えは守られていない。

暴力を用いて問題の解決をはかれば、それが成功した場合でも、その成功例にひきずられて、何でも暴力で解決しようとし、暴力は暴力を引き寄せる。暴力環境で永久に、自分の支配を続けれるわけではない。問題にはさまざまな要素があり、暴力で完全解決できる場合は、むしろ、少ない。いずれは、自分の暴力が通じない事態に出会い、より大きな暴力で自分が倒されることになる。それを、イエスは警告している。

しかし、悪魔の影響下にあるこの世では、暴力、カネの力、社会的な肩書や地位の力で問題を解決するのが常識になっている。特に、暴力とカネが、世の中では大きな力を持つ。それに対して、キリスト教では、愛と信仰心で問題を解決せよと教えている。

暴力やカネでは、問題の要因は残り、新たな問題を生み出す。しかし、愛と信仰心があれば、天使や守護霊が霊界から助けてくれる。そして、霊的な解決はこの世でも大きな力を持ち、根本原因を解決できる。

世界の平和も、人々が心の中で平和を望み、神様に祈ることで、霊的に実現し、また、この世でも具体的な影響が現れる。霊界では暴力やカネは意味を持たないし、何の効果もない。ただ、愛と信仰心が効果を持つ。霊界とつながるこの世でも、愛と信仰心が有効です。

また、必要なら、神の子イエスは、天の軍勢を送ってくれるように神様に頼むことができ、天の軍勢はこの世の全ての軍隊を凌駕する。物理的な力の行使ですら、神様の許可が必要なのです。自分の判断で、武力を使うことは、国のリーダーにも許されない。だから、本当の信仰心なき政治家が治める国は滅びるのです。

戦争の絶えない今の世界は、神様、イエス・キリストや聖母マリアを失望させている。だから、イエスの言葉の通りに、世界は戦争で滅びる可能性がある。今後、生じると予測される第三次世界大戦は、人類に決定的な影響をもたらす。今の平和を懐かしがる時が来る。

全人類が平和を望み、神様に祈ることが必要です。

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