「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書 第 7 章) (first take the plank out of your own eye)2025/11/01 13:21

3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)

3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?
4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?
5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
+++ +++ +++

これは、人を責めるな、というイエス・キリストの教えに続いて、兄弟の眼にちりがあることを責める前に、自分の眼から大きな梁(はり)を取り除けというイエスの言葉です。

実際、人を責める理由はいくらでもある。また、人をほめる理由もいくらでもある。自分のことを考えれば、とても人を責める気にはなれないものです。自分が他人を判断する理由で、自分も責められることを忘れるなということです。

これは、人を憎む理由はいくらでもあり、また、人を愛する理由もいくらでもある、ということに通じる。要するに、憎しみを愛するか、愛を愛するかということになる。悪魔に魂を売った人間は、憎しみを愛するようになり、人を憎むことを愛する。そして、誰にでも憎まれる理由はあるので、悪魔に魂を売った人間は、必ず人を憎む理由を見つけだし、人を憎むようになる。

しかし、神様の教えに従う人は、誰にでも他人を愛する理由をみつけることができ、人を愛するようになる。

だから、人を裁いてはならない、とイエス・キリストは述べている。しかし、世の中には裁判という仕組みがある。そして、裁判官が罪人を裁くときにも、情状酌量ということが行われる。どんな罪人にも、同情すべき理由がある。それを考慮に入れた判決を行うようになっている。しかし、イエスの教えは、そもそも人を裁こうとしてはならない、ということです。従って、イエスの教えに従う社会では、司法というものの考えが人間的な判断によるものではなく、神様の教えに従って扱われる。

それでも、悪魔に魂を売った人間は、悪を好み、憎しみを愛し、愛を嫌う。このような人間を正しく扱えるような人間はいない。神様や天使から霊を与えられた人間のみが、悪魔に魂を売った人間を扱うことができる。つまり、愛を愛する人間が、憎しみを愛する人間に対抗することができる。

それでも、他人を責める前には、自分の欠点や罪を考えよ、というのが神の子、イエス・キリストの教えなのです。他人や兄弟には寛容で、自分には厳しくということです。ただし、他人や兄弟の悪を受け入れ、自分自身の悪も受け入れるようになってはいけない。その際には、神様が天使を遣わして、全員を裁かれ、滅ぼされる。つまり、人間社会が生き残るには、他人や兄弟を責めることではなく、まず自分自身を反省することです。

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