「なんのために出てきたのか。預言者を見るためか」 (マタイによる福音書 第 11 章) (what did you go out to see? A prophet?)2025/11/06 20:21

7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
8 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
9 では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。(マタイによる福音書 第 11 章)

7 As John’s disciples were leaving, Jesus began to speak to the crowd about John: “What did you go out into the wilderness to see? A reed swayed by the wind?
8 If not, what did you go out to see? A man dressed in fine clothes? No, those who wear fine clothes are in kings’ palaces.
9 Then what did you go out to see? A prophet? Yes, I tell you, and more than a prophet.

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ここで述べられた洗礼者ヨハネはイエスのいとこであり、イエスの先駆者として、ユルダン川でイエスに洗礼を授けた人物です。

このヨハネは、当時の領主ヘロデ・アンティパスが兄の妻のヘロディアと再婚したが、それを非難したため捕らえられ、ヘロディアの娘サロメが母ヘロディアの言葉に従い、ヘロデ王の前で踊った褒美として、洗礼者ヨハネの首を要求したという経緯がある。

つまり、イエスが、その洗礼者ヨハネを預言者以上の者だと称賛した情景です。

神の教えに従って、ヨハネが領主ヘロデとヘロディアの結びつきを人々の間で責めたので、ヘロデはヨハネを逮捕し、ヘロディアは娘のサロメを使って、煙たいヨハネの首をヘロデに切らせようとしたのです。

ここには、悪魔が働いている。ヘロデにも、ヘロディアにも、サロメにも悪魔が入り込んでいる。最も悪質なのはヘロディアです。彼女は、ヘロデと再婚して富と権力を手にしたので、その欲望から娘のサロメを使って、新しい夫のヘロデにヨハネの首を切らせたのです。

そのような、富と権力を持った者の腐敗と堕落を知っているイエスは、自分の命も顧みすに、神の教えに基づいて彼らに抗議したヨハネの勇気を誉めたのです。

結局、イエス・キリストもヨハネも当時のユダヤ教の幹部、ユダヤ人の支配者、権力者などに殺されることになるが、二人とも神の言葉を守るためには、この世の命など惜しくはなかったのです。キリスト教は、そのような命がけの行為から生まれたものです。

今でも、悪魔の影響下にある世界では、信仰者、善人などは、悪魔から攻撃を受ける。つまり、牧師、神父などは、本来はこの世で命をかけて悪魔と戦う仕事なのです。

人々も、心の底では神の言葉を求め、神の言葉を受けた預言者を求めている。それは、当然のことだが、その預言者以上の者が。ヨハネだとイエスは述べている。これは、イエス・キリストとヨハネが霊的に深く結びついていたことが分かるし、彼らはこの世での死など意に介さなかったと思われる。この世での死後、人の魂は霊界で霊となって永遠に生きることができることを彼らは知っていたのです。

イエス・キリストとヨハネは、キリスト教社会のヨーロッパでは、多くの聖画で二人一緒に描かれている。

「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」 (ルカによる福音書 第 13 章) (unless you repent, you too will all perish)2025/11/04 13:57

ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。(ルカによる福音書 第 13 章)


13 Now there were some present at that time who told Jesus about the Galileans whose blood Pilate had mixed with their sacrifices.
2 Jesus answered, “Do you think that these Galileans were worse sinners than all the other Galileans because they suffered this way?
3 I tell you, no! But unless you repent, you too will all perish.
4 Or those eighteen who died when the tower in Siloam fell on them—do you think they were more guilty than all the others living in Jerusalem?
5 I tell you, no! But unless you repent, you too will all perish.”
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ガリラヤ地方のユダヤ人の中にローマ帝国に反抗する人たちがいて、その人たちがエルサレムの神殿でいけにえを献げている時に、総督であるピラトの命令で、殺されたという事件です。また、エルサレム にあった「シロアムの塔」が倒壊して18人が死んだことは、当時だれもが知っている事件だった。このような悲劇に会った人が特に罪深い人ではなかった。しかし、神様が悔い改めない人々を罰される時、その中の誰が神様の罰を受けて滅びるかは誰にも分からない、ということです。

全体責任という考えがここにある。社会自体が神様の教えに背を向けているとき、その中の誰に神様の罰が下るかは誰にも分からない、とイエスは警告を発している。

今の世の中も物質文明が進み、人々の物質的な欲望が増大し、精神的な価値がなおざりにされている。神様に対する信仰も軽んじられれている。このような世の中に対して神様が怒りを現したとき、特に罪深い人間だけが神様に罰されるわけではない、各人が悔い改めなければ、みな同じように滅びるというのがイエス・キリストの警告です。まさに、世の最期に対する警告です。

実際、過去2千年にわたってキリスト教が発展してきたので、物質文明がここまで増大・悪化・腐敗しても、神様の怒りは抑えられてきたと考えられる。神様を信じて悔い改める人々の存在が、人類文明をここまで救ってきたのです。

いずれにしても、神様の怒りの前では、全ての人間がその対象になることを人々は恐れるべきです。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネによる福音書 第 10 章) (My sheep listen to my voice)2025/11/03 13:47

26 あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。
27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。(ヨハネによる福音書 第 10 章)

26 but you do not believe because you are not my sheep.
27 My sheep listen to my voice; I know them, and they follow me.
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イエス・キリストは、自分を羊飼いに、弟子たちを羊にたとえていた。日本人にとっては、なじみのない文化・風習だが、牧畜文化は中東などでは農耕文化よりなじみの深い文化である。中国でも羊を意味する文字はさまざまな意味で使われている。「美」という文字も、立命館大学の故白川教授によれば羊の姿を示している。

大人しく従順な羊と、羊の世話をする熱心な羊飼いの関係を、素直に神を信じる弟子たちと、弟子たちを指導するイエスという指導者の関係にイエスはたとえている。忠実な羊は、自分たちの羊飼いの声を聞き分けて、その声に従う。それは、宗教集団の指導者とその信徒の関係に似ている。

本来、キリスト教は信徒と指導者の人間的な信頼関係に基づいている。信徒は、羊が羊飼いの声音を聞き間違えることがないように、いつも指導者の声に耳を澄ましている。今のキリスト教の教会内では、そこまで熱心な信徒もいなければ、またそこまで信徒の面倒を見る牧師、神父なども見られない。他の宗教でも同様である。

従って、2千年前のイエス・キリストの教えを聖書で知るのが間違いない。聖書からイエス・キリストの声が聞こえるようになれば、本物のイエスの弟子だということになる。

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」 (ヨハネによる福音書 第 13 章) (“Unless I wash you, you have no part with me.”)2025/11/02 23:49

6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)

6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
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イエス・キリストは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛されたという情景です。

師匠が弟子の足を洗うということは、どこの世界でも考えられない。しかし、イエスは自分の人生の最期が近づいたことを感じ、最期の晩餐の前にわざわざ、弟子の足を現れたのです。それが、イエスの弟子たちへの愛の現れです。

親が幼児を愛するように、イエスは弟子の肉体を愛されたのです。この時の記憶は、イエスの死後、弟子たちに深く記憶されることになる。単なる言葉だけの愛ではなく、肉体を持った人間として、弟子はイエスに愛されていたことを思い出す。

単に、師匠と弟子という上下関係ではなく、親子の愛情以上の関係があることをイエスは示されたのです。そのような愛情をイエスが示し、その愛情を弟子が受けることで、霊的な関係が成立したのです。

逆に、全ての宗教で、教祖が信徒の足を洗うような愛情を持っていなければ、教祖と信徒の間に霊的な関係は成立していないことになる。だからこそ、キリスト教は信じるに足る宗教だということになる。

「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書 第 7 章) (first take the plank out of your own eye)2025/11/01 13:21

3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)

3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?
4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?
5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
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これは、人を責めるな、というイエス・キリストの教えに続いて、兄弟の眼にちりがあることを責める前に、自分の眼から大きな梁(はり)を取り除けというイエスの言葉です。

実際、人を責める理由はいくらでもある。また、人をほめる理由もいくらでもある。自分のことを考えれば、とても人を責める気にはなれないものです。自分が他人を判断する理由で、自分も責められることを忘れるなということです。

これは、人を憎む理由はいくらでもあり、また、人を愛する理由もいくらでもある、ということに通じる。要するに、憎しみを愛するか、愛を愛するかということになる。悪魔に魂を売った人間は、憎しみを愛するようになり、人を憎むことを愛する。そして、誰にでも憎まれる理由はあるので、悪魔に魂を売った人間は、必ず人を憎む理由を見つけだし、人を憎むようになる。

しかし、神様の教えに従う人は、誰にでも他人を愛する理由をみつけることができ、人を愛するようになる。

だから、人を裁いてはならない、とイエス・キリストは述べている。しかし、世の中には裁判という仕組みがある。そして、裁判官が罪人を裁くときにも、情状酌量ということが行われる。どんな罪人にも、同情すべき理由がある。それを考慮に入れた判決を行うようになっている。しかし、イエスの教えは、そもそも人を裁こうとしてはならない、ということです。従って、イエスの教えに従う社会では、司法というものの考えが人間的な判断によるものではなく、神様の教えに従って扱われる。

それでも、悪魔に魂を売った人間は、悪を好み、憎しみを愛し、愛を嫌う。このような人間を正しく扱えるような人間はいない。神様や天使から霊を与えられた人間のみが、悪魔に魂を売った人間を扱うことができる。つまり、愛を愛する人間が、憎しみを愛する人間に対抗することができる。

それでも、他人を責める前には、自分の欠点や罪を考えよ、というのが神の子、イエス・キリストの教えなのです。他人や兄弟には寛容で、自分には厳しくということです。ただし、他人や兄弟の悪を受け入れ、自分自身の悪も受け入れるようになってはいけない。その際には、神様が天使を遣わして、全員を裁かれ、滅ぼされる。つまり、人間社会が生き残るには、他人や兄弟を責めることではなく、まず自分自身を反省することです。

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