「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.)(マタイによる福音書 5:1~5)2025/08/11 02:26

Now when Jesus saw the crowds, he went up on a mountainside and sat down. His disciples came to him, and he began to teach them.
The Beatitudes
He said:
“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn, for they will be comforted.
Blessed are the meek, for they will inherit the earth."

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
八福の教え。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(マタイによる福音書 5:1~5)

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これは、福音書で最も有名な山上の垂訓、八福の教えと呼ばれるイエス・キリストの教えの一部です。この教えは、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章から7章と『ルカによる福音書』第6章に記載されている。

多くの人々がイエスの噂を聞き、イエスの教えを聞こうと山にいたイエスの周りに集まったときに、イエスが述べた言葉です。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」というのは、「生活が貧しい人は、天国に入れる」という意味です。

富裕層であり、豊かな物質生活を送っている人は、心を豊かにする教育、経験、芸術などに親しむことができ、肉体だけでなく、精神もさまざまな教養で満たし、宗教的な教えにも親しむことができるので、物心ともに豊かな生活を送ることができる。つまり、この世の天国で生活しているようなものです。しかし、生活が貧しい人は、心を豊かにする教育、経験、芸術などに親しむことは少ない。つまり、つまり、この世の地獄で生活しているようなものです。ところが、死後、霊界で天国に入れるのは、後者、つまり、生活が貧しい人たちだとイエスは断言したのです。

要するに、「この世で天国、あの世で地獄。この世で地獄、あの世で天国」が真実だとイエスは教えたのです。これは、当時のユダヤ教徒の常識を覆すものであり、現在でも、一般人の常識に反した教えです。

イエスが、なぜ単純に「貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と言わなかったのかは議論のあるところです。「心の貧しい人は天国に入る」と言えば、富裕層でも、心が貧しければ天国に入れるのだ、ということになる。神様の前では、どんな金持ちでも心は貧しいのだから、謙虚さを失わなけば、金持ちでも貧しい心の持ち主として天国に入れてもらえる、ということになる。つまり、富裕層も天国から排除しないということになる。

そうなると、「この世で天国、あの世でも天国」だということになる。これでは、誰でもこの世で富裕層になることを目指す。そして、世の中が富とカネの奪い合いになり、人々は互いに争うことになり、この世は地獄になる。

だから、本来は、「生活が貧しい人は、天国に入れる」という教えだったと思われる。しかし、聖書の著者は密かに「心の貧しい人は」というように変更したのではないかと疑われる。


実際、「生活が貧しい人は、天国に入れる」という教えは誰にでも理解できる。また、多くの人の生活が貧しかったのだから、多くの人がイエス・キリストの教えに感動したと思われる。しかし、この言葉では社会の支配層である富裕層に脅威を与える。イエスの教えは、金持ちを天国から排除するものだとして、富裕層はイエスを敵視する。また、現世的なユダヤ教では、幸福とは金持ちになることだという観念があり、ユダヤ教の祭司たちも敵に回すことになる。だから、物質生活の問題ではなく、精神的な心の問題だとイエスは語ったと思われる。


実際、福音書の他の箇所では、イエスは「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るようなもので、不可能だ」という意味のことを述べている。だから、心の問題ではなく、この世の貧富の差のことを問題にしているのは、明らかです。

しかし、この山上の垂訓、八福の教えと呼ばれる教えでは、直接、富裕層を非難することはしなかった。山に集まった多くの人の中には、金持ちもいたので、彼らに騒ぎを起こさせないようにする必要もあったのだろう。

とにかく、イエスが金持ちの間を回って喜捨を集めるようなことはしなかったし、金持ちの病人を助けたという話しも福音書にはのっていない。あくまで、イエスは生活が貧しい人を超能力や霊能力で助けたのです。

イエスほどの神的な力を持っていれば、何事も思うがままであり、カネなど必要なかったのです。愛と信仰心のない無力な人々を哀れに思って、霊界からこの物質界に来られたのが、神の子、イエス・キリストなのです。

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』('Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.’)(マルコによる福音書 12:28~30)2025/08/11 23:33

One of the teachers of the law came and heard them debating. Noticing that Jesus had given them a good answer, he asked him, “Of all the commandments, which is the most important?”
“The most important one,” answered Jesus, “is this: ‘Hear, O Israel: The Lord our God, the Lord is one. Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.’

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。」(マルコによる福音書 12:28~30)

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これは、イエス・キリストの教えの基本となる重要な言葉です。聖書の中で最高の言葉だと言えます。

ユダヤ教の律法学者という当時の最高のエリートが、イエスの権威に挑戦して、「全ての教えの中で第一のものは何か」と最も基本となる教えのことをイエスに問うたのです。ユダヤ教の教えと違っていれば、イエスの攻撃の材料にしようとしたのです。

しかし、イエスは誰もが同意しなけれなならない解答を与えたのです。それは、まず神を全霊全力で愛せということです。これでは、イエスの言動に反感を持っていたユダヤ教の幹部もイエスの教えの正しさに納得しなければならない。

そして、それ以上に、イエスの教えはユダヤ教徒に改めて、信仰とは何かを教えているのです。

当時のユダヤ教の司祭などは、宗教の教えよりも、宗教人のエリートとしての特権を享受し、人々を精神的に、社会的にも支配し、自分たちの利益をはかるような生き方していた。形骸化した宗教の教えよりも、ユダヤ教の戒律、規則、ルールを重んじていた。彼らであれば、最も重要なことは、祭司の教えを守ることだ、というのが第一の教えだと答えていただろう。しかし、イエスは、まず神様のことを考えよと述べたのです。

イエスの答えは、神様よりも自分たちの利益を第一に考えている当時のユダヤ教の幹部に対する警告にもなっている。しかし、神様のことを第一にあげたイエスには、彼らは文句のつけようもない。また、当時のパレスチナの支配者のローマ帝国でも、神様という概念はあったので、ユダヤを支配していたローマ軍も納得する答えだった。

そして、そのようなユダヤ教の祭司たちの影響を受けている人々にも、改めて、真の信仰とは何かを教えているのです。

実際、宗教は神様をあがめる行為であり、自分のことよりも神様を優先する生き方、考え方、感じ方をしなければならない。これは、宗教人や権力者だけでなく、全ての人に言えることです。つまり、人間中心の生き方ではなく、神様を中心とした生き方をしなければならない。

これは、現代の世の中、宗教状況、人々の精神生活にもあてはまることです。西洋では、宗教色の強かった中世以降、近代、現代となって、人間中心の社会へと変わってきた。14世紀から16世紀にかけてルンサンスを超え、17世紀以降の科学革命、産業革命、18世紀以降の民主化、20世紀の技術・科学の飛躍の時代を超えて、現代の21世紀では資本主義・貨幣主義・物質主義・拝金主義がはびこり、もはや、キリスト教も形骸化しようとしている。

だからこそ、このイエス・キリストの教えに再び注目すべきなのです。

全ての教えの中で基本は、神様のことを全身全霊で考え、愛せということです。つまり、自分のことよりも神様のことを大事にせよということです。まさに、神様中心のルネサンス以前の社会の常識です。人間の欲望を正当化する、人間中心の人生観や社会観は間違っているのです。神様の許される範囲で、人間は自由を享受し、個性を伸ばし、必要なものを得ることが許されるのです。

つまり、無限の力を持った神様の前では、人間は無に等しいことを自覚せよということです。それでも、存在を許されている人間は、せめて、全身全霊で神様を愛せというのが、イエスの教えです。

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