「それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(But you have made it ‘a den of robbers’.)(マルコによる福音書 11:15~17) ― 2025/08/07 20:45
On reaching Jerusalem, Jesus entered the temple courts and began driving out those who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves, and would not allow anyone to carry merchandise through the temple courts. And as he taught them, he said, “Is it not written: ‘My house will be called a house of prayer for all nations'? But you have made it ‘a den of robbers.'”
それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(マルコによる福音書 11:15~17)
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これは、イエス・キリストが最後にエルサレムの神殿に入ったときの言動です。神殿内には、商売人が入り込み、両替商や、貢物や儀式で開放する動物を売っていたので、その欲にまみれた行いにイエスは怒って、商売人のテーブルを覆すという実力行為に出たのです。
これが、商売人とつながっている神殿の祭司や管理者の怒りを買い、ローマ軍と組んでイエスの逮捕につながることになる。それほど、イエスは神殿内の商売人たちに怒りを見せたというこです。
イエスが、暴力的な行為をしたことは、他にはない。福音書でも特別な箇所になっている。愛に満ちて、優しく柔和なイエスも、神様の神殿では厳しい姿を見せざるを得なかった。その激しさに周囲の者も見守るだけだった。神殿内の警備員も気圧された。しかし、ユダヤ教の幹部にとっては、自分たちの利益の源を脅かす行為だった。ユダヤ教の司祭たちとの対立は、決定的となった。
しかし、神殿というのは、人間が霊的な信仰心を神に捧げる神聖な場所です。そこを、商売人の行為を許し、その利益の一部を取り上げて、自分たちの懐を豊かにしていた、ユダヤ教の司祭たちは、神様を冒涜するものです。また、ユダヤ教の祭司たちとつながっている支配者ローマ軍は、さらにユダヤ教の管理者から上納金を得ているので、イエスは危険人物だと見なした。
今でも、自分の家庭に犯罪者や、やくざ者が入り込んでくれば、誰でも本気になって怒る。また、先祖の墓を粗末に扱う管理者には怒りを覚える。一方、年末年始の神社、仏閣の参道では、さまざまな屋台などで賑わっている。一応、商売人は管理されており、境内には入っていないが、度が過ぎると不快に感じる者もいる。神聖な場には、やはり、俗世間の行為は相応しくない。
ユダヤ教の熱心な信徒でもあったイエスには、神殿で人々の欲が満ちることには、我慢がならなかった。しかし、そこまでの怒りを爆発させるとは、弟子たちにも意外だった。それで。福音書にはこのイエスの行為が記録されている。
現在は、霊帝な信仰心というものが、ないがしろにされているので、ピンと来ない人も多いが、誰にも個人的なプライドがあり、それを踏みにじられれば怒るように、自分のプライドより大事な信仰心を傷つけられたと感じたとき、やはり、人はイエスのように怒っても当然です。
それでも、狡猾な悪魔は、このイエスの行為を理由として、当時の権力者がイエスに非常手段を取ることを決意させる。
それを承知の上で、イエスは神様に対する忠誠心を見せねばならかった。これは、如何にイエスが熱心なユダヤ教の信者であったかを示している。
今の日本人も、日本人としての霊的な伝統を守りながら、イエス・キリストの神である唯一の絶対神である万物の創造主への信仰を勇気をもって示さなければならない。
それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(マルコによる福音書 11:15~17)
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これは、イエス・キリストが最後にエルサレムの神殿に入ったときの言動です。神殿内には、商売人が入り込み、両替商や、貢物や儀式で開放する動物を売っていたので、その欲にまみれた行いにイエスは怒って、商売人のテーブルを覆すという実力行為に出たのです。
これが、商売人とつながっている神殿の祭司や管理者の怒りを買い、ローマ軍と組んでイエスの逮捕につながることになる。それほど、イエスは神殿内の商売人たちに怒りを見せたというこです。
イエスが、暴力的な行為をしたことは、他にはない。福音書でも特別な箇所になっている。愛に満ちて、優しく柔和なイエスも、神様の神殿では厳しい姿を見せざるを得なかった。その激しさに周囲の者も見守るだけだった。神殿内の警備員も気圧された。しかし、ユダヤ教の幹部にとっては、自分たちの利益の源を脅かす行為だった。ユダヤ教の司祭たちとの対立は、決定的となった。
しかし、神殿というのは、人間が霊的な信仰心を神に捧げる神聖な場所です。そこを、商売人の行為を許し、その利益の一部を取り上げて、自分たちの懐を豊かにしていた、ユダヤ教の司祭たちは、神様を冒涜するものです。また、ユダヤ教の祭司たちとつながっている支配者ローマ軍は、さらにユダヤ教の管理者から上納金を得ているので、イエスは危険人物だと見なした。
今でも、自分の家庭に犯罪者や、やくざ者が入り込んでくれば、誰でも本気になって怒る。また、先祖の墓を粗末に扱う管理者には怒りを覚える。一方、年末年始の神社、仏閣の参道では、さまざまな屋台などで賑わっている。一応、商売人は管理されており、境内には入っていないが、度が過ぎると不快に感じる者もいる。神聖な場には、やはり、俗世間の行為は相応しくない。
ユダヤ教の熱心な信徒でもあったイエスには、神殿で人々の欲が満ちることには、我慢がならなかった。しかし、そこまでの怒りを爆発させるとは、弟子たちにも意外だった。それで。福音書にはこのイエスの行為が記録されている。
現在は、霊帝な信仰心というものが、ないがしろにされているので、ピンと来ない人も多いが、誰にも個人的なプライドがあり、それを踏みにじられれば怒るように、自分のプライドより大事な信仰心を傷つけられたと感じたとき、やはり、人はイエスのように怒っても当然です。
それでも、狡猾な悪魔は、このイエスの行為を理由として、当時の権力者がイエスに非常手段を取ることを決意させる。
それを承知の上で、イエスは神様に対する忠誠心を見せねばならかった。これは、如何にイエスが熱心なユダヤ教の信者であったかを示している。
今の日本人も、日本人としての霊的な伝統を守りながら、イエス・キリストの神である唯一の絶対神である万物の創造主への信仰を勇気をもって示さなければならない。
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