「持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられる」2025/06/07 23:35

“He replied, ‘I tell you that to everyone who has, more will be given, but as for the one who has nothing, even what they have will be taken away.

『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。」

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これは、イエス・キリストが、弟子にたとえ話をして、ある農園の主人が旅に出たときに、二人の召し使いに農園の管理を任せたと話したときの言葉です。その主人は、召使のそれぞれに管理費を与えたが、一人は農園の管理費を経済活動に活用して資産を増やし、主人が帰ったときに利益も含めて主人に返したが、他方は管理費を失わないように、ただ保管して資産を増やさなかった例をあげて、資産を増やした召し使いをほめ、カネをただ貯めこんでいただけの召し使いを非難したあとに、教訓として語った言葉です。主人は、後者から管理費を取り上げ、前者に与えるということです。

「持っている者は、さらに与えられ、持たない者は、持っているものまで取り上げられる」、というのは、厳しい言葉です。ただし、これは現実の経済問題だけでなく、霊的な意味も持っています。神の教えを与えられても、その教えを活用せず、ただ、自分の心の内にしまい込んでいる者は、神様から教えと共に与えられた恵みも取り上げられる、という意味です。

経済的には、多くの資産を与えられても、貯蓄だけに回し、世のために何ら支出をしなかったものは、やがて、その資産を取りあげられる、という意味になる。だから、カネを抱え込むだけでなく、さらに投資や開発などに使うべきだという意味にとって、さらに経済活動を活発にする人間は、資産倍増などの金銭的目的ではなく、世のために経済活動を活性化する目的であれば、この言葉に適っていることになる。欧米で資本主義が活性化した理由の一因になっている。

しかし、霊的には、神様から与えられた恵みを、自分だけのために持っている人間は、「人々を助けよ」という神様の精神に対する理解を持っていないことになる。神様から与えられた才能を、神様の教えに従って使わない者は、その才能を取り上げられることになる。逆に、神様から与えられた才能を活用して、世のためや人のために活動した者は、さらに才能を高められ、多くの幸運も与えられる。

例えば、ある若者が大学の神学部に進み牧師となったが、信仰は自分の生活を救うためだけに使い、神様の教えに従って、周囲の貧しい人を救おうとしなかった場合、神様はその若者から信仰による恵みも取り上げられる。また、美人に生まれた女性が、自分の魅力を自分の幸福のためだけに使い、周囲の不幸な人間を明るくするために自分の魅力を使わなければ、神様はその魅力も取り上げられる。

また、スポーツの才能を与えられた者も、自分の成功のためだけにその才能を使っていても、やがて、その才能はなくなる。しかし、世の中の人を励まし、勇気を与えるために、自分の才能を全力で伸ばす努力をしていれば、その才能はいくらでも伸びる。

学者も、その学問的才能を自分の社会的成功のためだけに使っていれば、やがて才能は失われ、無意味な人生を送る。しかし、学問を世のため、人のために役立てようと活動していれば、才能はなくならない。

問題は、利己的な意味で、与えられた幸運や才能を使ってはいけない、ということです。ただし、管理費を貯めこんだままにしておいた悪い召し使いのように、何もしない場合は、利己的な活動をする方より厳しく罰される。利己的な活動でも、その活動によって救われる他人もいる。ただし、その活動が人々に害を与える場合は、神様によってもっと厳しく罰される。

誰でも、神様から長所を与えられれている。何らかの才能や魅力を与えられている。それを、自分だけのものにしていてはいけない。神様への信仰や貧しい隣人のために、使わなければならない。利己的な生き方をしたものは、その長所も神様から取り上げられる。だから、キリスト教文化の欧米では、金持ちは慈善活動をし、芸術やスポーツでも、ファンとの交流を重んじる。

自分には運も、才能も、魅力もない、と考えるのは間違っている。神様は誰もに、必要な独自の運や、才能・魅力を与えている。他人を羨む必要はない。各人はそれぞれ独特の運、才能、魅力を与えられている。それに、気が付くのにも信仰心が必要です。これを、神様からの贈り物だと、欧米では言う。だから、gift from the God を持っているという言葉で、天才や美人を評し、彼らを褒めたたえる。そのギフトを発揮するのは、人間として正しいことをしていると考えている。

ただし、ここにも悪魔が入り込み、神様が与えられたギフトを発揮し、その力を伸ばすこと自体が、幸福なのに、それによって経済的、金銭的な代価を得ようという欲が芽生える者も多い。神様の与えられた任務を、悪魔のもたらす欲で汚すようなことになる。これでは、神様に罰されても仕方がない。悪い召使が、主人から与えられた管理費を、贅沢な生活のために使い、さらに、その生活を維持するために悪事の企てにカネを使うようなものです。

つまり、自分の才能や魅力で物質的な欲を満たすのではなく、神様への信仰を高め、隣人愛を実践するために、その才能や魅力を使うべきです。さもないと、最後は才能も無意味になり、魅力も失われる。

つまり、自分に与えられた才能や魅力を自覚し、なおかつ、清貧生活をすることが、誰もに求められている。

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