「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」 (ヨハネによる福音書 第 15 章) (Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends. ) ― 2026/06/11 18:13
12 「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」(ヨハネによる福音書 第 15 章)
12 My command is this: Love each other as I have loved you. 13 Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends. 14 You are my friends if you do what I command. 15 I no longer call you servants, because a servant does not know his master’s business. Instead, I have called you friends, for everything that I learned from my Father I have made known to you. 16 You did not choose me, but I chose you and appointed you so that you might go and bear fruit—fruit that will last—and so that whatever you ask in my name the Father will give you. 17 This is my command: Love each other.
+++ +++ +++
イエス・キリストの最も重要な教えは、「人間同士は互いに愛さねばまらない」ということです。
そして、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と述べておられる。これは、宗教家も学者も注目しなかったイエス・キリストの重要な教えです。
愛する家族や、恩のある人間には命も顧みないことはあるが、そのような自然な感情や生存の必要からではなく、友人というだけで命を差し出すものはほとんどいない。しかし、人は友人を単に好き嫌いや、相性だけで選ぶのではない。相手の人格、信用の可能性、理想や思想の一致、感覚的な許容度、人生観の一致、世界観の一致、善悪の許容度などから選ぶ。つまり、自分のプライドをかけて友人を選ぶものです。その友人のためなら、自分の命をかけても惜しくはないというのが真の友情なのです。
そして、イエスは、「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と弟子に述べている。神の子イエスの友人になることほど名誉なことはない。
しかも、イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と述べている。つまり、人がイエスの友人となるのは、イエスの選択だということです。
いかし、イエスの弟子たちは、イエスがユダヤ教の幹部やローマ兵に逮捕されたとき、皆、イエスを捨てて逃げ去っている。これが、彼らの負い目となった。キリスト教は、このような弟子たちのイエス・キリストに対する負い目から生まれたのです。
つまり、イエスを裏切った弟子たちが打ち立てたキリスト教には、そのときの弟子たちの負い目がこめられている。そのような、弟子の弟子、さらに、その弟子のようなキリスト教の神父や牧師がイエスに何を頼んでもイエスは、その頼みを受け入れてくれるとは思えない。これが、普通の考えです。
しかし、イエス・キリストは「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」と述べて、不実な弟子たちのことより、この世の人々を救うことに重点を置かれている。
そして、「あなたがたが互に愛し合うため」にイエス・キリストは、自分を捨てて逃げ出すような弟子たちに対する友情を持ち続けられたのです。悪魔の影響下にある世界から人々を救うことの重要性に比べれば、友なるイエスのために、自分たちの命を捨てなかった弟子の未熟な信仰は二の次だということのなる。
かくして、お粗末な友情や信仰心しかない弟子たちでも、イエス・キリストは世の中の人々を救うために、愛の教えを説き続けることにされたのです。これを見て、悪魔はイエスや弟子たちを笑っただろうが、イエス・キリストの愛と弟子たちへの友情の強さが、やがて真の信仰を人々にもたらしたのです。
そのカギが、「人間は互いに愛し合わなければならない」という教えなのです。そのような信仰心があれば、「父(神様)に求めるものはなんでも、父(神様)が与えて下さる」と保証されているのです。これが、霊的な真実のキリスト教です。
キリスト教の信徒は、友なるイエス・キリストのためには、命をかけなければまらない。だから、キリスト教、特に、カトリックでは、歴史的に殉教者(キリスト教を捨てずに、時の権力者に殺された信者)が高く評価され、聖者と呼ばれるようになったのです。
13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」(ヨハネによる福音書 第 15 章)
12 My command is this: Love each other as I have loved you. 13 Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends. 14 You are my friends if you do what I command. 15 I no longer call you servants, because a servant does not know his master’s business. Instead, I have called you friends, for everything that I learned from my Father I have made known to you. 16 You did not choose me, but I chose you and appointed you so that you might go and bear fruit—fruit that will last—and so that whatever you ask in my name the Father will give you. 17 This is my command: Love each other.
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イエス・キリストの最も重要な教えは、「人間同士は互いに愛さねばまらない」ということです。
そして、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と述べておられる。これは、宗教家も学者も注目しなかったイエス・キリストの重要な教えです。
愛する家族や、恩のある人間には命も顧みないことはあるが、そのような自然な感情や生存の必要からではなく、友人というだけで命を差し出すものはほとんどいない。しかし、人は友人を単に好き嫌いや、相性だけで選ぶのではない。相手の人格、信用の可能性、理想や思想の一致、感覚的な許容度、人生観の一致、世界観の一致、善悪の許容度などから選ぶ。つまり、自分のプライドをかけて友人を選ぶものです。その友人のためなら、自分の命をかけても惜しくはないというのが真の友情なのです。
そして、イエスは、「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と弟子に述べている。神の子イエスの友人になることほど名誉なことはない。
しかも、イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と述べている。つまり、人がイエスの友人となるのは、イエスの選択だということです。
いかし、イエスの弟子たちは、イエスがユダヤ教の幹部やローマ兵に逮捕されたとき、皆、イエスを捨てて逃げ去っている。これが、彼らの負い目となった。キリスト教は、このような弟子たちのイエス・キリストに対する負い目から生まれたのです。
つまり、イエスを裏切った弟子たちが打ち立てたキリスト教には、そのときの弟子たちの負い目がこめられている。そのような、弟子の弟子、さらに、その弟子のようなキリスト教の神父や牧師がイエスに何を頼んでもイエスは、その頼みを受け入れてくれるとは思えない。これが、普通の考えです。
しかし、イエス・キリストは「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」と述べて、不実な弟子たちのことより、この世の人々を救うことに重点を置かれている。
そして、「あなたがたが互に愛し合うため」にイエス・キリストは、自分を捨てて逃げ出すような弟子たちに対する友情を持ち続けられたのです。悪魔の影響下にある世界から人々を救うことの重要性に比べれば、友なるイエスのために、自分たちの命を捨てなかった弟子の未熟な信仰は二の次だということのなる。
かくして、お粗末な友情や信仰心しかない弟子たちでも、イエス・キリストは世の中の人々を救うために、愛の教えを説き続けることにされたのです。これを見て、悪魔はイエスや弟子たちを笑っただろうが、イエス・キリストの愛と弟子たちへの友情の強さが、やがて真の信仰を人々にもたらしたのです。
そのカギが、「人間は互いに愛し合わなければならない」という教えなのです。そのような信仰心があれば、「父(神様)に求めるものはなんでも、父(神様)が与えて下さる」と保証されているのです。これが、霊的な真実のキリスト教です。
キリスト教の信徒は、友なるイエス・キリストのためには、命をかけなければまらない。だから、キリスト教、特に、カトリックでは、歴史的に殉教者(キリスト教を捨てずに、時の権力者に殺された信者)が高く評価され、聖者と呼ばれるようになったのです。
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