「なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ask whatever you wish, and it will be done for you) (ヨハネによる福音書 15:6~7)2025/08/01 21:51

"If you do not remain in me, you are like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned. If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you."

「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」
(ヨハネによる福音書 15:6~7)

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これは、イエス・キリストが、ユダヤ教の過越の祭の前に、ご自分の人生の最後が近いことを感じて夕食の席で弟子たちに与えた教えです。

イエスと精神的、霊的につながっていなければ、世の中から見捨てられると警告し、ただし、イエスの言葉を信じ続ければ、願ったことは叶えられると宣言したのです。

世の中に影響を及ぼす悪魔は、弟子たちが少しでも迷ったり、イエスの言葉を疑ったりすると、人々をして弟子たちを軽蔑し、攻撃させようとする。霊的な守りがなくなるからです。しかし、あくまでイエスを信じる心を失わない者は、霊的な助けを得て、霊界からの力によって願ったことはかなえられる。天使や守護霊の助けを得ることができると述べておられる。

イエスに今後、どんな悲劇が起こっても、イエスへの信仰を失うなという教えです。

イエスは、悪魔の攻撃が厳しいものであることを知っており、弟子たちに隙があれば、悪魔は人々をして弟子たちを攻撃させることを知っていた。それに耐えれば、霊界から大きな助けを得られるということです。

これは、イエスが神様から来たということを確信し、神様の教えを愛し、イエスを愛していなければ、悪魔が与える誘惑、疑惑、欺瞞に耐えられなくなるということです。理屈ではなく、弟子たちの直感や心底の願いが試される。目の前に、どれだけ富やカネを積まれても、また、どれだけ脅迫されても、神様とイエスへの信仰を失わないことが求められている。

そもそも、自分の得になるから神様やイエスを信じるという生き方は間違っている。自分の欲の実現に神様やイエスを信じるのではなく、損得にかかわらず、神様やイエスの教えに従うのが正しいという気持ちが必要なのです。自分よりも、神様を大事にする気持ちが信仰心なのです。

どんなに悪魔によって、この世的に不幸にされても、死後の霊界での救いを信じて、神様への信仰心を失わないことが求められているのです。この意味で、天国への途は厳しい。悪魔との戦い、物質的な欲望、この世の幸福への誘惑と戦うことが求められている。つまり、この世的には禁欲的な清貧生活をしなければならない。

俗世間的な欲望とは無縁なのが、本当の信仰者なのです。だから、人を憎んだり、羨望したり、裏切ることのないのが信仰者であり、人々はそれを見て、信仰者を尊敬するようにり、イエスの教えは広まって行くのです。

悪魔の影響下にあるこの世の人々から、認められるには、このような徹底した生き方が必要なのです。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(He is not the God of the dead, but of the living)(ルカによる福音書 20:34~38)2025/08/02 19:47

Jesus replied, “The people of this age marry and are given in marriage. But those who are considered worthy of taking part in the age to come and in the resurrection from the dead will neither marry nor be given in marriage, and they can no longer die; for they are like the angels. They are God’s children, since they are children of the resurrection. But in the account of the burning bush, even Moses showed that the dead rise, for he calls the Lord ‘the God of Abraham, and the God of Isaac, and the God of Jacob." He is not the God of the dead, but of the living, for to him all are alive.”

イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。 (ルカによる福音書 20:34~38)

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これは、イエス・キリストが神殿で人々に教えを述べている時に、ユダヤ教の幹部たちが来てイエスがユダヤ教の教えに反したことを言うのを確かめようとして、さまざまな質問をイエスにし、「死者の婚姻関係は、どうなるのか」とたずねたのに、イエスが与えた言葉です。

つまり、人はこの世の死後、霊界で蘇り、新たな生を得るので、神様は霊界で新たな生を得た者の神であり、死んだ者の神としてとらえるべきではない、と仰ったのです。

この世の結婚は、死後の世界の結婚関係は保証しません。生きている間の制約のない霊界では、本人たちの心の状態が互いに明らかになり、直ぐに相手の本性が分かります。また、肉体的な条件も、社会的な条件も存在しないので、霊的な愛や相性によって二人は結ばれることになります。

霊的な条件が異なっていれば、この世の夫婦でも死後に一緒になることはありません。また、前世の関係もあります。霊は霊界から物質界に下って人間になるので、生まれる前には既に前世を生きており、そのときの因果というものもあります。霊界とこの世の関係を認めることが、本当の宗教です。

だから、この世の関係は、死後は解消すると考えるべきです。この世に生きている間は、相手の心の奥底や、霊的状態は分かりません。肉体的、人格的、社会的、経済的、文化的な条件によって、相手に何らかの魅力を感じていても、死後の霊界では、ただ霊格が重要になります。霊的な状況、霊格が異なっていれば、霊界では相手に魅力を感じなくなり、当然、夫婦も離れ離れになります。霊界では、想念が実現し、物質的な問題に関わる想念は霊的な形で実現するので、物質的な欲望は誰れでも満たすことができるので、この世の貧富、社会的な地位や肩書は無意味です。霊的な愛、嗜好、上下の判断、真理への志向が意味を持つのです。霊的に同じレベルにいなければ、相手を認識することもできません、

この世の慣習を、死後の霊界に持ち込むことは無意味です。

この世の成功者の多くは、霊界では地獄の近くに行くものです。この世では、清貧生活をしていた貧しい信者は、霊界では天国に近い高い地位に上げられます。夫婦でも、一方は霊界の地獄の近くに行き、他方は天国の近くに行く場合が多い。

なぜ、あれだけ霊格の異なる男女がこの世で一緒なれたのか、と霊界では驚くことも多い。それは、互いの霊的な修業のためであることが多い。この世での霊的な修業が終われば、もはや、霊界では出会うこともない、という例もある。夫婦だけでなく、家族や親族でも霊界では霊的状態によって互いに認識できないこともある。

人間は、この世だけの関係を考えずに、死後の霊界のことも考えるべきです。霊界は神様の直接の支配下にあるので、この世のように、悪魔の影響もなく、純粋な信仰心を高めることができる。純粋な愛と信仰心の世界が、死後の世界なのです。

この世の結婚は、死後の男女の結びつきを保証するものではない。霊界での生が、本当の生なのです。この世の結婚問題に振り回されるべきではない。

「あとの者は先になり、先の者はあとになる」(So the last shall be first, and the first last)(マタイによる福音書 20:12~16)2025/08/05 01:15

Saying, These last have wrought but one hour, and thou hast made them equal unto us, which have borne the burden and heat of the day. But he answered one of them, and said, Friend, I do thee no wrong: didst not thou agree with me for a penny? Take that thine is, and go thy way: I will give unto this last, even as unto thee. Is it not lawful for me to do what I will with mine own? Is thine eye evil, because I am good? So the last shall be first, and the first last.

『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 20:12~16)

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これは、イエス・キリストが、天国を労働者を雇う主人にたとえて、教訓を人々に与えた時の言葉です。

朝早くから働いていた者も、1時間しか働かなかった者にも、同じ給金が与えられたという話しです。そして、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という教えを述べられたのです。

これは、この世の考えから言えば不合理です。しかし、神様の意図は人には分からない。神様は、それぞれの働き人に必要なものを与えられる。人間には分からない理由によって、あとから来た者が、先に来た者と同じ扱いを神様から受けることがある。神様のなさることに文句を言ってはいけない。ただし、人間の目から見れば、理解の出来ないことを神様がなさる場合もある。

例えば、病人などの面倒を見ていて遅れた者や、遠方の貧しい友の世話をして時間に遅れる者もいる。そういう労働者にも正しい扱いがなされるのが、神様が直接、支配する天国なのです。

現実に、後輩がやがて先輩を追い越し、高い地位につこともあり、後進の企業が、先発の企業を追い抜くこともある。あとの者が、先になることもある。この世の順序ですら、入れ替わることがある。ましてや、霊的な順序では、神様のみが知る理由によって順序が入れ替わる。

それによって、人々は深い理由に気が付き、霊は神様の深い真理に気が付くことになる。

表面的な秩序、理由、合理性ではなく、神様の考える真実の理由を人は知らねばならない。

人間は、人間的な利害、好悪、上下の関係に縛られるが、神様の本意はなかなか理解できない。しかし、この世の全ては愛と信仰心で解決すべきです。愛と信仰心がなければ、理解できない

「それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(But you have made it ‘a den of robbers’.)(マルコによる福音書 11:15~17)2025/08/07 20:45

On reaching Jerusalem, Jesus entered the temple courts and began driving out those who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves, and would not allow anyone to carry merchandise through the temple courts. And as he taught them, he said, “Is it not written: ‘My house will be called a house of prayer for all nations'? But you have made it ‘a den of robbers.'”

それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(マルコによる福音書 11:15~17)

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これは、イエス・キリストが最後にエルサレムの神殿に入ったときの言動です。神殿内には、商売人が入り込み、両替商や、貢物や儀式で開放する動物を売っていたので、その欲にまみれた行いにイエスは怒って、商売人のテーブルを覆すという実力行為に出たのです。

これが、商売人とつながっている神殿の祭司や管理者の怒りを買い、ローマ軍と組んでイエスの逮捕につながることになる。それほど、イエスは神殿内の商売人たちに怒りを見せたというこです。

イエスが、暴力的な行為をしたことは、他にはない。福音書でも特別な箇所になっている。愛に満ちて、優しく柔和なイエスも、神様の神殿では厳しい姿を見せざるを得なかった。その激しさに周囲の者も見守るだけだった。神殿内の警備員も気圧された。しかし、ユダヤ教の幹部にとっては、自分たちの利益の源を脅かす行為だった。ユダヤ教の司祭たちとの対立は、決定的となった。

しかし、神殿というのは、人間が霊的な信仰心を神に捧げる神聖な場所です。そこを、商売人の行為を許し、その利益の一部を取り上げて、自分たちの懐を豊かにしていた、ユダヤ教の司祭たちは、神様を冒涜するものです。また、ユダヤ教の祭司たちとつながっている支配者ローマ軍は、さらにユダヤ教の管理者から上納金を得ているので、イエスは危険人物だと見なした。

今でも、自分の家庭に犯罪者や、やくざ者が入り込んでくれば、誰でも本気になって怒る。また、先祖の墓を粗末に扱う管理者には怒りを覚える。一方、年末年始の神社、仏閣の参道では、さまざまな屋台などで賑わっている。一応、商売人は管理されており、境内には入っていないが、度が過ぎると不快に感じる者もいる。神聖な場には、やはり、俗世間の行為は相応しくない。

ユダヤ教の熱心な信徒でもあったイエスには、神殿で人々の欲が満ちることには、我慢がならなかった。しかし、そこまでの怒りを爆発させるとは、弟子たちにも意外だった。それで。福音書にはこのイエスの行為が記録されている。

現在は、霊帝な信仰心というものが、ないがしろにされているので、ピンと来ない人も多いが、誰にも個人的なプライドがあり、それを踏みにじられれば怒るように、自分のプライドより大事な信仰心を傷つけられたと感じたとき、やはり、人はイエスのように怒っても当然です。

それでも、狡猾な悪魔は、このイエスの行為を理由として、当時の権力者がイエスに非常手段を取ることを決意させる。

それを承知の上で、イエスは神様に対する忠誠心を見せねばならかった。これは、如何にイエスが熱心なユダヤ教の信者であったかを示している。

今の日本人も、日本人としての霊的な伝統を守りながら、イエス・キリストの神である唯一の絶対神である万物の創造主への信仰を勇気をもって示さなければならない。

「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。」(They are not of the world, even as I am not of it.)(ヨハネによる福音書17:14~17)2025/08/09 00:17

I have given them your word and the world has hated them, for they are not of the world any more than I am of the world. My prayer is not that you take them out of the world but that you protect them from the evil one. They are not of the world, even as I am not of it. Sanctify them by[d] the truth; your word is truth.

わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。(ヨハネによる福音書17:14~17)

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これは、イエス・キリストが天を仰いで神様に祈りを捧げたときの言葉です。

この世の存在と、霊的な存在の違いを明らかにしている。たとえ同じような肉体をもっていても、霊的な信仰心のないものと、霊的な信仰心のあるものでは、この世の存在にすぎない者と、霊的な世界につながる者の違いが出てくる。

人間は肉体が死んでも、心や精神、霊は霊界で生き続けるのが当然という考えが基本になっている。イエスを単なる道徳家や人格者だと考えるのは、イエスの本質を見ていないことになる。イエスは人間の肉体を持っているが、その霊、精神、そして心は100パーセント、霊界の天国から来ている。他の人間は、その霊は霊界の天国以外の場所から来ており、精神や心もこの世の影響を受けて形作られている。

つまり、イエスはこの世の存在というよりは、霊界、天国の存在であり、他の人々はこの世の存在であり、その魂は天国以外の霊界からこの世に来たのです。しかし、イエスの言葉を信じる弟子たちも、その魂は、もはや、この世の存在ではなく、霊界の天国に属する者となっている。あくまで、肉体ではなく霊が人間の本質なのです。

この世の影響を受けて、精神や心、人格を作り上げた者は、当然、悪魔の影響を受ける。この世の幸福のためには、カネを多く得ようとする。カネを多く得るには、悪魔に魂を売らなければならない。そして、拝金主義者や悪魔崇拝者となる。意識的であり、無意識的であり、そのような生き方をする。そして、悪魔を神と崇めるようになる。これが、この世の者の生き方です。ただし、あくまで真実の神様は全善であることは、薄々感じているので、彼らは悪心を隠し、密かに悪を行うことを好む。そこで、欺瞞、陰謀、悪だくみ、裏切りが当然のこととされる。彼らは、死後のことも真剣には考えない。肉体の死とともに、全てがなくなると考えている。だから、悪魔に魂を売ってでも、この世で物質的な幸福を得ようとする。そういう人間ばかりが集まれば、この世は地獄となる。だから、この世では、人々は互いに苦しめ合う。

他方、霊界の天国とつながったイエスやその弟子のような人間は、肉体は滅んでも、魂は霊界に入り、霊界では霊格を高めて天国を目指すべきことを理解しているので、肉体を持ったこの世でも、物欲には屈しない。悪魔の誘惑も退ける。物質的な幸福ではなく、霊的、精神的な幸福を求める。いくらカネを積まれても、悪魔には魂を売らない。

問題は、悪魔や悪魔に魂を売って悪魔の手下となった人間は、霊的な信仰心を持った人間を攻撃することです。悪魔に魂を売った人間は狼となって、神様に従う子羊を攻撃する。だから、イエス・キリストは、「私を信じる者は、狼の群れの中を行く子羊である」と述べている。

無力な子羊は、血に飢えた狼の餌食となるのが普通だが、神様は強力な天使をつかわして、狼から子羊を守ってくれる。これを信じるのが、本当のキリスト教徒なのです。聖母マリアは、悪魔という蛇の頭を踏み砕く力をもっているとキリスト教では教えている。

いずれにしても、物質世界のこの世は、悪魔の影響下にあるが、霊的な信仰心を持っている者は、神様によって悪魔から守られる。これが、この世の存在と。霊的な存在の違いの意味です。

悪魔に従ってカネを求めて生きて、死後、霊界の地獄に落ちて永遠に苦しむか、霊的信仰心を持って神様やイエス・キリストを信じて、霊界の天国に受け入れられ、永遠の幸福を得るかを、人は決断しなければならない。

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