「まことに、この人は神の子であった」(“Surely this man was the Son of God!”) (マルコによる福音書 15:37~39) ― 2025/07/29 12:36
With a loud cry, Jesus breathed his last. The curtain of the temple was torn in two from top to bottom. And when the centurion, who stood there in front of Jesus, saw how he died, he said, “Surely this man was the Son of God!”・
イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコによる福音書 15:37~39)
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これは、イエス・キリストが、十字架上で息を引き取ったときの情景です。イエスを十字架刑にしたローマ軍の百卒長は、この様子を見て感動し、イエスが神様の子であることを認めたのです。
聖書の福音書は、イエスが無実の罪で逮捕され、十字架の刑で死刑にされるまでを描いたものです。そのハイライトが、この場面です。イエスの死の際には、エルサレムの神殿の幕が下げたり、太陽の光が陰ったり、さまざまな奇跡が起きたとされている。
神の子のイエスが、なぜ死ななければならなかったというのは、2千年間にわたるキリスト教の謎です。その死の解釈から多くの神学が生まれ、ヨーロッパのキリスト教徒は延々と議論してきた。しかし、これは霊的な解釈を必要としている。この世的な解釈では理解できない。
そもそも、イエスは霊能力を持っていたので、敵対するユダヤ教の幹部やローマ軍などを征服することも可能だった。しかし、悪魔に取り付かれたユダヤ教の祭司やローマ軍は、イエスを罠にかけて罪を負わせ死刑にすることができた。神様の力が現れれば、イエスを救い出し、ユダヤ教の祭司やローマ軍を抑えることも可能だったはずです。何故、神様が、その子であるイエスの死を黙認されたのかは、人間には理解できない謎です。
しかし、聖書はこの刑死後、イエスが蘇って弟子たちに現れたことを記している。クライマックスの刑死後、さらに、奇跡が起きてイエスが生きた姿を弟子たちに示したことが、福音書の最後に記されている。イエス・キリストが蘇ったので、キリスト教は生まれたのです。
実際、イエスは蘇った後に、数日して弟子たちが見守るなか、天に昇って行ったとされている。これが、新約聖書の福音書が描くイエスの活動の最後なのです。仏典や神道の祝詞のような、難解な言葉ではなく、聖書は平易な表現で記されている。誰でも理解できるように書かれている。
重要なことは、死後の先に霊界があり、霊界は天国と地獄に分かれており、神様の教えに従う者は天国に入れるということです。物質界のこの世で、人間であるイエスを殺害しても、霊界で最高の地位にあるイエスの威厳や栄光には悪魔は手が出せない。霊界とこの世を通して、神様と悪魔の戦いは続いており、イエスの人間界での死は、霊界での霊的な意味を理解しなければ理解できない。
イエスの死で、悪魔は勝利したかに見えたが、イエスの死後、2千年でイエスの教えは世界中に広まり、人々の間には悪魔に対する警戒が徹底することになった。神様の愛と悪魔の憎しみを人々は理解するようになった。
イエスの死は、悪魔に対する正しい認識がなければ理解できない。それは、人間の心の闇を理解することでもある。この意味で、宗教としてのキリスト教は軽々しく扱えるものではない。ただし、聖書はあくまで分かりやすくイエスの活動を描いているので、誰でもイエスの教えを学ぶことができる。
それでも、イエスの存在は、この世だけでなく、霊界につながるものなのです。
イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコによる福音書 15:37~39)
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これは、イエス・キリストが、十字架上で息を引き取ったときの情景です。イエスを十字架刑にしたローマ軍の百卒長は、この様子を見て感動し、イエスが神様の子であることを認めたのです。
聖書の福音書は、イエスが無実の罪で逮捕され、十字架の刑で死刑にされるまでを描いたものです。そのハイライトが、この場面です。イエスの死の際には、エルサレムの神殿の幕が下げたり、太陽の光が陰ったり、さまざまな奇跡が起きたとされている。
神の子のイエスが、なぜ死ななければならなかったというのは、2千年間にわたるキリスト教の謎です。その死の解釈から多くの神学が生まれ、ヨーロッパのキリスト教徒は延々と議論してきた。しかし、これは霊的な解釈を必要としている。この世的な解釈では理解できない。
そもそも、イエスは霊能力を持っていたので、敵対するユダヤ教の幹部やローマ軍などを征服することも可能だった。しかし、悪魔に取り付かれたユダヤ教の祭司やローマ軍は、イエスを罠にかけて罪を負わせ死刑にすることができた。神様の力が現れれば、イエスを救い出し、ユダヤ教の祭司やローマ軍を抑えることも可能だったはずです。何故、神様が、その子であるイエスの死を黙認されたのかは、人間には理解できない謎です。
しかし、聖書はこの刑死後、イエスが蘇って弟子たちに現れたことを記している。クライマックスの刑死後、さらに、奇跡が起きてイエスが生きた姿を弟子たちに示したことが、福音書の最後に記されている。イエス・キリストが蘇ったので、キリスト教は生まれたのです。
実際、イエスは蘇った後に、数日して弟子たちが見守るなか、天に昇って行ったとされている。これが、新約聖書の福音書が描くイエスの活動の最後なのです。仏典や神道の祝詞のような、難解な言葉ではなく、聖書は平易な表現で記されている。誰でも理解できるように書かれている。
重要なことは、死後の先に霊界があり、霊界は天国と地獄に分かれており、神様の教えに従う者は天国に入れるということです。物質界のこの世で、人間であるイエスを殺害しても、霊界で最高の地位にあるイエスの威厳や栄光には悪魔は手が出せない。霊界とこの世を通して、神様と悪魔の戦いは続いており、イエスの人間界での死は、霊界での霊的な意味を理解しなければ理解できない。
イエスの死で、悪魔は勝利したかに見えたが、イエスの死後、2千年でイエスの教えは世界中に広まり、人々の間には悪魔に対する警戒が徹底することになった。神様の愛と悪魔の憎しみを人々は理解するようになった。
イエスの死は、悪魔に対する正しい認識がなければ理解できない。それは、人間の心の闇を理解することでもある。この意味で、宗教としてのキリスト教は軽々しく扱えるものではない。ただし、聖書はあくまで分かりやすくイエスの活動を描いているので、誰でもイエスの教えを学ぶことができる。
それでも、イエスの存在は、この世だけでなく、霊界につながるものなのです。
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