『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 ― 2025/05/19 13:36
同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。(ルカによる福音書17:10)
"So you also, when you have done everything you were told to do, should say, ‘We are unworthy servants; we have only done our duty.’”
+++ +++ +++
これは、弟子がイエス・キリストに信仰を高める方法を問うた時に、イエスが述べた言葉です。
要するに、謙虚さを失うなということです。
まず、信仰者は神様の召使いだという心がけが必要です。召使は、主人の命令に従わなければならない。そして、召使いの義務を果たした後も、主人に対して、謙虚に「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言うべきだというのがイエスの教えです。
だから、「自分をほめてやりたい」などと思い上がってはいけない。どこまでも、主人である神様の前では、自分を低くして、褒美などは期待せずに、「まだまだ、自分はいたりません」との思いを持つべきだということです。
逆に、主人の側から見れば、召使がどこまで頑張っても「ふん、その程度か」と思うものです。しかし、「では、まだ使ってやろう」と考えて、召使を使い続けるようになる。
信仰の世界も、こういう厳しい世界なのです。しかし、召使は主人によって守られ、日々の生活も無事に過ごせることができる。召使が主人のもとを去れば、悪魔が支配する闇の中を生きていかねばならない。主人である神様の光と愛のある屋敷の中に住める幸福を、召使はありがたく享受しなければならない。
人は、何かを失って、始めて、その有難さを思い知る。家族や友人や、職業や、健康や、希望などは、あるときには有難みを感じないが、失うとその有難みが感じられるものです。
そのような、知恵は若い時にはない。ある程度、年齢を重ね、社会生活もすることで理解できるようになる。悪魔の誘惑に負けて、安易に富や成功を追求しても、悪魔は人間が苦しむのを喜ぶので、やがて、思わぬ不運、不幸、事故、病気、失敗、裏切りなどに見舞われる。そのときに、大事なものを失っていたことに気が付いても遅い。だから、年長者、先輩、高齢者には敬意をもって接し、彼らの知恵から学ぶべきだというのが、日本の常識になっている。
また、偉人、名人、人格者、博愛家、修行者、宗教人などから、教訓や知恵を学び、自分の人生に活かすべきだとうのが、小学校で学ぶべきことになっている。
しかし、学校では、「お前たちは、神様の召使いにすぎない」などということは教えない。むしろ、「有力者や金持ちの家来になれ」と教えている。そして、権力者や富裕層に気にいられるには、学校で良い成績を上げたり、営業で成績を上げたりしなければならないと教える。有力者や金持ちの家来になれば、人間は、主人をまねして、すぐに思い上がるようになる。また、適当に手を抜くようになる。他方、神様の召使になれば、どこまで仕えても十分だということはない。権力者や富裕層の召使になれば、自分もそれなりの地位を与えられ、或いは、それなりの富を得れば、今度は自分をほめたくなり、思い上がるようになる。そういう、この世の召し使いのようであってはならない、とうのがイエスも教えです。
神様の教えは、どこまでも深く広い。どこまで学んでも、修業をしても、合格・卒業ということはない。上には、上がある。死ぬまで信仰の修業だと思わなければならない。
ただし、信仰のレベルが一段階上がるごとに、霊的には充実し、満足感を感じ、ますます、神様のレベルを目指したくなる。信仰の度合いが増すごとに、物質的な欲望が消えていき、質素な生活をするようになり、この世の物事へのこだわりや執着心がなくなる。だから、本当に宗教心のある宗教人、僧侶、神父・牧師は乞食やホームレスのような姿をしている。
権力者や富裕層のような姿をしている、宗教人は信用できない。
どのような、僧侶、神父、牧師でも、神様の前では、「いたらぬ召し使い」なのです。そして、謙虚な人間は、死後の霊界で、高く評価され、この世のエリ-トや富裕層より、高い地位に上げられるのです。霊界では、貧乏人が上になり、下っ端がエリートの上に置かれるのです・・・
"So you also, when you have done everything you were told to do, should say, ‘We are unworthy servants; we have only done our duty.’”
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これは、弟子がイエス・キリストに信仰を高める方法を問うた時に、イエスが述べた言葉です。
要するに、謙虚さを失うなということです。
まず、信仰者は神様の召使いだという心がけが必要です。召使は、主人の命令に従わなければならない。そして、召使いの義務を果たした後も、主人に対して、謙虚に「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言うべきだというのがイエスの教えです。
だから、「自分をほめてやりたい」などと思い上がってはいけない。どこまでも、主人である神様の前では、自分を低くして、褒美などは期待せずに、「まだまだ、自分はいたりません」との思いを持つべきだということです。
逆に、主人の側から見れば、召使がどこまで頑張っても「ふん、その程度か」と思うものです。しかし、「では、まだ使ってやろう」と考えて、召使を使い続けるようになる。
信仰の世界も、こういう厳しい世界なのです。しかし、召使は主人によって守られ、日々の生活も無事に過ごせることができる。召使が主人のもとを去れば、悪魔が支配する闇の中を生きていかねばならない。主人である神様の光と愛のある屋敷の中に住める幸福を、召使はありがたく享受しなければならない。
人は、何かを失って、始めて、その有難さを思い知る。家族や友人や、職業や、健康や、希望などは、あるときには有難みを感じないが、失うとその有難みが感じられるものです。
そのような、知恵は若い時にはない。ある程度、年齢を重ね、社会生活もすることで理解できるようになる。悪魔の誘惑に負けて、安易に富や成功を追求しても、悪魔は人間が苦しむのを喜ぶので、やがて、思わぬ不運、不幸、事故、病気、失敗、裏切りなどに見舞われる。そのときに、大事なものを失っていたことに気が付いても遅い。だから、年長者、先輩、高齢者には敬意をもって接し、彼らの知恵から学ぶべきだというのが、日本の常識になっている。
また、偉人、名人、人格者、博愛家、修行者、宗教人などから、教訓や知恵を学び、自分の人生に活かすべきだとうのが、小学校で学ぶべきことになっている。
しかし、学校では、「お前たちは、神様の召使いにすぎない」などということは教えない。むしろ、「有力者や金持ちの家来になれ」と教えている。そして、権力者や富裕層に気にいられるには、学校で良い成績を上げたり、営業で成績を上げたりしなければならないと教える。有力者や金持ちの家来になれば、人間は、主人をまねして、すぐに思い上がるようになる。また、適当に手を抜くようになる。他方、神様の召使になれば、どこまで仕えても十分だということはない。権力者や富裕層の召使になれば、自分もそれなりの地位を与えられ、或いは、それなりの富を得れば、今度は自分をほめたくなり、思い上がるようになる。そういう、この世の召し使いのようであってはならない、とうのがイエスも教えです。
神様の教えは、どこまでも深く広い。どこまで学んでも、修業をしても、合格・卒業ということはない。上には、上がある。死ぬまで信仰の修業だと思わなければならない。
ただし、信仰のレベルが一段階上がるごとに、霊的には充実し、満足感を感じ、ますます、神様のレベルを目指したくなる。信仰の度合いが増すごとに、物質的な欲望が消えていき、質素な生活をするようになり、この世の物事へのこだわりや執着心がなくなる。だから、本当に宗教心のある宗教人、僧侶、神父・牧師は乞食やホームレスのような姿をしている。
権力者や富裕層のような姿をしている、宗教人は信用できない。
どのような、僧侶、神父、牧師でも、神様の前では、「いたらぬ召し使い」なのです。そして、謙虚な人間は、死後の霊界で、高く評価され、この世のエリ-トや富裕層より、高い地位に上げられるのです。霊界では、貧乏人が上になり、下っ端がエリートの上に置かれるのです・・・
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