「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」 ― 2025/05/01 13:59
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。(マタイによる福音書 17:5)
While he was still speaking, a bright cloud covered them, and a voice from the cloud said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”
+++ +++ +++
これは、神様がイエス・キリストを自分の子だと認める場面です。だから、イエスは神様の子だとされている。
しかし、世の中には、神様は自分の心の中にいる、神様と自分は一体だ、自分は神様の一部だなどと言う教祖や、人間の心の中に神様はいるなどとする教えがある。これは、誤解をもたらす表現です。神様は、ご自分が作られた人間の中にいる必要はないし、有限の人間の心が無限以上の神様を入れることはできない。むしろ、人間の心に入り込むのは悪魔です。このような教えは悪魔の教えに近い。
人間の心(魂)は、神様とつながることは出来るが、人間の心の中に神様がいるわけではない。神様のおられる神界、天界と人間の生きている、この世とは大きく隔たっている。
それでも、神様は、御自分が作られた人間を救うために、ご自分の子のイエス・キリストを、人間の中に送られた。それほど、神様は人間を愛しておられるということです。その神様の愛を実現するのが、イエスの任務です。だから、イエスの教えは愛の宗教だと言われる。その愛に反感を覚え、反抗するのが悪魔です。神様は善であり、悪魔は悪だというのが基本です。
もし、悪魔が霊界もこの世も支配していれば、世界には、建前だけでも善は存在せず、悪が称賛され、悪が常識となり、闇の世界となります。
ただし、善の神様が作られた霊界やこの世では、霊や人間は本能的に善の価値を認め、悪を嫌うものです。しかし、悪魔は霊界にもこの世にも入り込み、人間の欲望を掻き立て、あるいは、生活の必要だとしてカネや富を求めさせ、悪魔にその魂を売らせるのです。
神様は、全知全能かつ全善だとされている。だから、生死と善は神様が関わる問題であり、まともな宗教は、生死と善悪を扱うものです。死を恐れるように、悪を恐れるのが人間なのです。
この世で、善を追求し実現することが人間には求められており、その教えに従った善人は霊界でも上位に挙げられ、神の国や天国に近づく。
さらに、貧富の問題がある。隣人愛のある人間は、自分より貧しい人間を無視して、金持ちになることはできない。神様は、隣人を自分のように愛せ、と命じておられる。この教えに従うことが善であり、隣人より金持ちになることは、信仰者にはできない。従って、信仰者は誰よりも貧しくなければならない。世界に自分より貧しい人間がいなくなったときに、始めてカネを求めることが許される。少なくとも、それが、本当の隣人愛だということは、それが出来なくても、理解していなければならない。
つまり、「生死」、「善悪」、「貧富」の問題が、本当の宗教の対象だということになる。
今のキリスト教は、この点で不十分であり、他の宗教では、こういう問題意識すら曖昧です。だから、霊的なキリスト教、イエス・キリストの本来のキリスト教が必要なのです。
本当のキリスト教は、貧しさを称賛する宗教なのです。
While he was still speaking, a bright cloud covered them, and a voice from the cloud said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”
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これは、神様がイエス・キリストを自分の子だと認める場面です。だから、イエスは神様の子だとされている。
しかし、世の中には、神様は自分の心の中にいる、神様と自分は一体だ、自分は神様の一部だなどと言う教祖や、人間の心の中に神様はいるなどとする教えがある。これは、誤解をもたらす表現です。神様は、ご自分が作られた人間の中にいる必要はないし、有限の人間の心が無限以上の神様を入れることはできない。むしろ、人間の心に入り込むのは悪魔です。このような教えは悪魔の教えに近い。
人間の心(魂)は、神様とつながることは出来るが、人間の心の中に神様がいるわけではない。神様のおられる神界、天界と人間の生きている、この世とは大きく隔たっている。
それでも、神様は、御自分が作られた人間を救うために、ご自分の子のイエス・キリストを、人間の中に送られた。それほど、神様は人間を愛しておられるということです。その神様の愛を実現するのが、イエスの任務です。だから、イエスの教えは愛の宗教だと言われる。その愛に反感を覚え、反抗するのが悪魔です。神様は善であり、悪魔は悪だというのが基本です。
もし、悪魔が霊界もこの世も支配していれば、世界には、建前だけでも善は存在せず、悪が称賛され、悪が常識となり、闇の世界となります。
ただし、善の神様が作られた霊界やこの世では、霊や人間は本能的に善の価値を認め、悪を嫌うものです。しかし、悪魔は霊界にもこの世にも入り込み、人間の欲望を掻き立て、あるいは、生活の必要だとしてカネや富を求めさせ、悪魔にその魂を売らせるのです。
神様は、全知全能かつ全善だとされている。だから、生死と善は神様が関わる問題であり、まともな宗教は、生死と善悪を扱うものです。死を恐れるように、悪を恐れるのが人間なのです。
この世で、善を追求し実現することが人間には求められており、その教えに従った善人は霊界でも上位に挙げられ、神の国や天国に近づく。
さらに、貧富の問題がある。隣人愛のある人間は、自分より貧しい人間を無視して、金持ちになることはできない。神様は、隣人を自分のように愛せ、と命じておられる。この教えに従うことが善であり、隣人より金持ちになることは、信仰者にはできない。従って、信仰者は誰よりも貧しくなければならない。世界に自分より貧しい人間がいなくなったときに、始めてカネを求めることが許される。少なくとも、それが、本当の隣人愛だということは、それが出来なくても、理解していなければならない。
つまり、「生死」、「善悪」、「貧富」の問題が、本当の宗教の対象だということになる。
今のキリスト教は、この点で不十分であり、他の宗教では、こういう問題意識すら曖昧です。だから、霊的なキリスト教、イエス・キリストの本来のキリスト教が必要なのです。
本当のキリスト教は、貧しさを称賛する宗教なのです。
あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう ― 2025/05/02 14:34
すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう (使徒行伝1:5)
For John baptized with water, but in a few days you will be baptized with the Holy Spirit.
+++ +++ +++
「バプテスマ(洗礼)」の本来の意味は、「一体化」ということです。 布を染料液に浸けると、その色に染まることです。そして、宗教では、いったん全身を水に沈める儀式を意味する。それによって、全身が清められることを意味する。
ヨハネというイエスの従兄弟は、信徒を水で清めていた。しかし、イエスは水ではなく、聖霊を用いてこの清めの儀式を行うことにする。イエスの宗教が霊的な宗教であることが明確にされている。
水にも、霊的な力があり、穢れを落とすことは、仏教や神道でもよく知られている。日本では、滝に打たれて身を清めるという行(ぎょう)が、修験者などによって行われている。しかし、目に見えない聖霊の力で清めの儀式を行うというのは、水による間接的な清めではなく、霊的な効果を直接受けることを示す。
聖霊とは、聖なる霊であり、神様から生じる霊という目に見えない、精神的な力です。父、子、霊の三体が1つのものであるという、キリスト教の三位一体の教義につながります。神様と、その子のイエス・キリストと、神様の霊の三つが、本来、一体のものであり、聖霊は神様やイエスの霊を表すと考えられる。
神様は霊界の天界の上の神界というはるかな高みにおられ、イエス・キリストは人となって汚れた人間界にあらわれたが、その両者をつなぎ、また、人間界に神様とイエスの力を伝えるものが聖霊なのです。
水は物質であり、清めの効果は物質的であり、霊的な効果は間接的なものです。しかし、神様を源とする聖霊は、直接、霊的な効果を持ち、人間の魂を清め、悪魔を排除するものです。
聖霊を受けるということは、人間界で悪魔の影響を受け、汚れた魂を清めるという意味があります。聖霊で清められると、人間の魂は悪魔の誘惑に負けないようになり、それまでの生き方が変わります。人間中心の考え方から、神様の教えを中心とする生き方に変わるのです。自分の欲望を肯定し、カネを求める生き方から、神様の教えに従うことを喜びとする生き方に変わるのです。
ただし、悪魔は宗教にも入り込み、人間を混乱させます。人間界では、悪の洗礼を受けて、欲の追及に走る人間が大部分です。彼らの神とは、悪魔なのです。そういう悪に染まった人間の心を入れ替えさせるのは、魂に聖霊を受けて回心した心だけです。だから、人間には他人を救ったり、道徳的な生き方に導く力はないが、それが出来るのは聖霊なのです。聖霊を受ければ、悪を嫌い、聖なるものに憧れることになり、天使たちの力を得て、悪魔と戦うことができるようになります。
聖霊によって、人間の魂は神様とつながり、この世の悪の力に負けないようになるのです。
For John baptized with water, but in a few days you will be baptized with the Holy Spirit.
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「バプテスマ(洗礼)」の本来の意味は、「一体化」ということです。 布を染料液に浸けると、その色に染まることです。そして、宗教では、いったん全身を水に沈める儀式を意味する。それによって、全身が清められることを意味する。
ヨハネというイエスの従兄弟は、信徒を水で清めていた。しかし、イエスは水ではなく、聖霊を用いてこの清めの儀式を行うことにする。イエスの宗教が霊的な宗教であることが明確にされている。
水にも、霊的な力があり、穢れを落とすことは、仏教や神道でもよく知られている。日本では、滝に打たれて身を清めるという行(ぎょう)が、修験者などによって行われている。しかし、目に見えない聖霊の力で清めの儀式を行うというのは、水による間接的な清めではなく、霊的な効果を直接受けることを示す。
聖霊とは、聖なる霊であり、神様から生じる霊という目に見えない、精神的な力です。父、子、霊の三体が1つのものであるという、キリスト教の三位一体の教義につながります。神様と、その子のイエス・キリストと、神様の霊の三つが、本来、一体のものであり、聖霊は神様やイエスの霊を表すと考えられる。
神様は霊界の天界の上の神界というはるかな高みにおられ、イエス・キリストは人となって汚れた人間界にあらわれたが、その両者をつなぎ、また、人間界に神様とイエスの力を伝えるものが聖霊なのです。
水は物質であり、清めの効果は物質的であり、霊的な効果は間接的なものです。しかし、神様を源とする聖霊は、直接、霊的な効果を持ち、人間の魂を清め、悪魔を排除するものです。
聖霊を受けるということは、人間界で悪魔の影響を受け、汚れた魂を清めるという意味があります。聖霊で清められると、人間の魂は悪魔の誘惑に負けないようになり、それまでの生き方が変わります。人間中心の考え方から、神様の教えを中心とする生き方に変わるのです。自分の欲望を肯定し、カネを求める生き方から、神様の教えに従うことを喜びとする生き方に変わるのです。
ただし、悪魔は宗教にも入り込み、人間を混乱させます。人間界では、悪の洗礼を受けて、欲の追及に走る人間が大部分です。彼らの神とは、悪魔なのです。そういう悪に染まった人間の心を入れ替えさせるのは、魂に聖霊を受けて回心した心だけです。だから、人間には他人を救ったり、道徳的な生き方に導く力はないが、それが出来るのは聖霊なのです。聖霊を受ければ、悪を嫌い、聖なるものに憧れることになり、天使たちの力を得て、悪魔と戦うことができるようになります。
聖霊によって、人間の魂は神様とつながり、この世の悪の力に負けないようになるのです。
「戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな。」 ― 2025/05/03 14:18
「また、戦争の勃発や戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。」(マルコによる福音書 13:7)
"When you hear of wars and rumors of wars, do not be alarmed. Such things must happen, but the end is still to come."
+++ +++ +++
イエスは、世の終わりについて予言をしている。人々は、特に、戦争を恐れている。しかし、戦争はまだ本当の世の終わりではない、とイエスは述べている。もっと、恐ろしいことが生じる、だから、戦争があっても心を惑わしてはならない、という教えです。
イエス・キリストが世に現れて以来、2000年近くがたつが、人類の歴史は戦争の歴史だった。特に、20世紀になってからは、第一次と第二次世界大戦が生じ、ヨーロッパを始めとして、世界規模に戦争の被害が生じるようになった。
特に、第二次大戦では原子爆弾が使われ、世界は核兵器の時代になった。今度、第三次世界大戦が生じる時には、核兵器が使われると考えられている。2024年に日本の反核団体がノーベル平和賞を取ったのも、ヨーロッパの不安の表れだと考えられる。
さらに、UFOが原子力発電所の事故現場に頻繁に出現したり、核兵器のサイトに出現した記録があるが、UFOの異星人も、人類による核エネルギーの使用には強い関心を抱ている。人類の運命には、UFOの異星人も強い関心を抱いている。
ただし、UFOの異星人は、積極的に人類の運命に介入しようとはしていない。それでも、何人もの人間を誘拐してUFOに連れ込み、人類の危機が迫っていることを告げている。また、米軍などは異星人と密かに接触して、UFOの技術を受け取り、自前のUFOを作っていると言われる。UFOの異星人と米軍、NASAやCIAとの関係は、まだ闇に包まれている。いずれにしても、UFOと米軍の関係は、都市伝説のレベルを超えるような重要性を持っている。
イエス・キリストは、UFOや異星人のことは、特に述べてはいないが、人類が危機を迎えた時には、イエスは雲に乗って、誰にも分かるようにして、再び地球に現れると述べている。キリスト教では、これを再臨と呼んでいるが、雲とはUFOのことではないか、という説がある。また、18世紀のキリスト教徒の神秘家のスエーデンボルグは、霊界で他の惑星の異星人の霊を会ったと述べている。20世紀のUFOとの接触で有名なアアムスキーは、神様を信じる異星人と会っている。キリスト教とUFOとの関係も謎が多い。
いずれにしても、UFOは、地球の自然環境が放射能で汚染されないように地球を監視している。人類が戦争などで滅びた後は、異星人が地球を乗っ取るつもりだと疑われる。そのときには、地球の環境が放射能汚染をしていては、彼らも困るのだろう。
聖母マリアの霊が、ファチマ(ポルトガル)やメジュゴリエ(バルカン半島)に出現して、21世紀中には人類の文明は崩壊すると警告を出していることも考えても、今世紀中に人類が危機を迎えるには間違いない。聖母マリアの霊は、日本の秋田の女子修道会にも出現している。
イエスの予言、聖母マリアの霊の出現、UFOの動向などを考えても、今世紀中に第三次世界大戦が生じるのは間違いない。現在のウクライナ戦争やガザの戦争は、その序曲になると思われる。中国による台湾侵攻も考えられる。
せめて、日本は、第三次世界大戦で核兵器が使われないことを祈るべきです。戦争、異常気象などの自然大災害が、21世紀中に人類を襲うことは間違いない。しかし、イエスの再臨によって人類は救われると信じるのが、本当のイエス・キリストの信者です・・・
"When you hear of wars and rumors of wars, do not be alarmed. Such things must happen, but the end is still to come."
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イエスは、世の終わりについて予言をしている。人々は、特に、戦争を恐れている。しかし、戦争はまだ本当の世の終わりではない、とイエスは述べている。もっと、恐ろしいことが生じる、だから、戦争があっても心を惑わしてはならない、という教えです。
イエス・キリストが世に現れて以来、2000年近くがたつが、人類の歴史は戦争の歴史だった。特に、20世紀になってからは、第一次と第二次世界大戦が生じ、ヨーロッパを始めとして、世界規模に戦争の被害が生じるようになった。
特に、第二次大戦では原子爆弾が使われ、世界は核兵器の時代になった。今度、第三次世界大戦が生じる時には、核兵器が使われると考えられている。2024年に日本の反核団体がノーベル平和賞を取ったのも、ヨーロッパの不安の表れだと考えられる。
さらに、UFOが原子力発電所の事故現場に頻繁に出現したり、核兵器のサイトに出現した記録があるが、UFOの異星人も、人類による核エネルギーの使用には強い関心を抱ている。人類の運命には、UFOの異星人も強い関心を抱いている。
ただし、UFOの異星人は、積極的に人類の運命に介入しようとはしていない。それでも、何人もの人間を誘拐してUFOに連れ込み、人類の危機が迫っていることを告げている。また、米軍などは異星人と密かに接触して、UFOの技術を受け取り、自前のUFOを作っていると言われる。UFOの異星人と米軍、NASAやCIAとの関係は、まだ闇に包まれている。いずれにしても、UFOと米軍の関係は、都市伝説のレベルを超えるような重要性を持っている。
イエス・キリストは、UFOや異星人のことは、特に述べてはいないが、人類が危機を迎えた時には、イエスは雲に乗って、誰にも分かるようにして、再び地球に現れると述べている。キリスト教では、これを再臨と呼んでいるが、雲とはUFOのことではないか、という説がある。また、18世紀のキリスト教徒の神秘家のスエーデンボルグは、霊界で他の惑星の異星人の霊を会ったと述べている。20世紀のUFOとの接触で有名なアアムスキーは、神様を信じる異星人と会っている。キリスト教とUFOとの関係も謎が多い。
いずれにしても、UFOは、地球の自然環境が放射能で汚染されないように地球を監視している。人類が戦争などで滅びた後は、異星人が地球を乗っ取るつもりだと疑われる。そのときには、地球の環境が放射能汚染をしていては、彼らも困るのだろう。
聖母マリアの霊が、ファチマ(ポルトガル)やメジュゴリエ(バルカン半島)に出現して、21世紀中には人類の文明は崩壊すると警告を出していることも考えても、今世紀中に人類が危機を迎えるには間違いない。聖母マリアの霊は、日本の秋田の女子修道会にも出現している。
イエスの予言、聖母マリアの霊の出現、UFOの動向などを考えても、今世紀中に第三次世界大戦が生じるのは間違いない。現在のウクライナ戦争やガザの戦争は、その序曲になると思われる。中国による台湾侵攻も考えられる。
せめて、日本は、第三次世界大戦で核兵器が使われないことを祈るべきです。戦争、異常気象などの自然大災害が、21世紀中に人類を襲うことは間違いない。しかし、イエスの再臨によって人類は救われると信じるのが、本当のイエス・キリストの信者です・・・
「安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 ― 2025/05/05 14:01
「あなたがたのうちで、自分の息子か牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)
Then he asked them, “If one of you has a child[a] or an ox that falls into a well on the Sabbath day, will you not immediately pull it out?” 6 And they had nothing to say.
+++ +++ +++
これは、当時の安息日にはユダヤ人は休まなければならない、というユダヤ教の教えに、敢然と挑戦したイエスの姿勢を表している。安息日の定めに反対したのではなく、安息日だからと言って安息日に人助けすら禁止しようとする、当時の宗教家たちの横暴、欺瞞に反対したのです。しかも、その陰で宗教の権威者は安息日にも、人々からどのようにしてカネを搾り取るかを相談し、画策し、陰謀を行っているのを、イエスは責めたのです。
要するに、当時の宗教家たちは、宗教の権威を傘に着て、人々の生活を規制し、カネを絞り取ろうとしていたということです。これは、今も宗教国家と呼ばれる体制では同じことが行われている。たとえば、イスラム教世界や北朝鮮、中国、ロシアなどの専制主義国家では、イデオロギー的に国民を支配しようとしている。要するに、表現の自由も、思想の自由も認めない体制が続いている。他方、欧米・日本などの民主主義国家では、過去の歴史的反省から自由を尊重する体制が取られている。特に、宗教は個人の心の問題として、自由が認められている。
日本でも、戦前は天皇を中心とする、専制主義体制だった。天皇の悪口を言えば、逮捕され、天皇を批判すれば、裁判にかけられるのが戦前の日本だった。そして、天皇の名において戦争が実施された。戦後も、天皇家を頂点とする体制に変わりはない。これでは、日本は真の平和国家になったとは言えない。天皇が「戦争やむなし」と言えば、日本は戦争を始めるような精神風土に変わりはない。真の平和活動とは、現天皇家を廃止することを意味する。そして、新たな天皇家か王家を立てるか、大統領制を採用するしかない。しかし、日本の国民にはまだそのような深い歴史的反省は見られない。
勿論、現天皇家の人間は、日本国民として主権者の地位を与えられる。今の体制は、国民が主権者であり、皇族は国民以外の特殊な日本人であるということになっているが、神の下では人間は全て平等だというイエスの思想に反している。これでは、皇族も不幸であり、天皇家の宗教的権威を利用しようとする者が後を絶たない。そもそも、現憲法はアメリカのキリスト教的民主主義に基づいており、天皇神道に従う天皇体制とは相容れない。日本国民もイエス(神様)を取るか、出自の不明確な天皇を取るかを、必ず迫られる時が来る。
いずれにしても、宗教的な権威を悪用する者は、2千年前のイエスの時代から跡を絶たない。これは、今でも通用する警告なのです。特に、80年前までは、天皇神道で戦争をして、原爆まで落とされて敗戦した日本では、真剣に考えるべき問題です。
要するに、宗教を悪用する人間が多すぎる。悪魔はどの宗教団体にも(天皇神道にも)入り込む。心霊主義にも悪魔が入り込む。しかも、悪魔に取り付かれた人間は、そのことを意識できない。彼らは、神様に使える気持ちで悪魔に仕えている。だから、そのことを理解しないと、戦前の日本の天皇神道という宗教による国民支配を理解できない。
今も、そのような天皇神道による国民支配の動きはあるが、それを抑えているのが、欧米のキリスト教なのです。ところが、欧米のキリスト教自体が腐敗・堕落の道を進んでいる。だから、日本人は独自にキリスト教を研究し、発展させる必要があるのです。
ただし、宗教と同等の左翼/絶対主義的イデオロギーによる支配も警戒しなければならない。どちらも、貧しい人々の味方を演じていながら、貧しい人々を支配することを狙いとしている。これは、天皇神道より悪質であるということは、戦後の歴史が証明している。悪魔は、共産主義にも入り込んでいる。戦後の日本は、天皇絶対主義と左翼絶対主義の間の不毛な戦いでもあった。唯一の救いは、世界標準のキリスト教が、辛うじて生き残っていることです。日本人も独自にキリスト教を学び、発展させるべき時なのです。
Then he asked them, “If one of you has a child[a] or an ox that falls into a well on the Sabbath day, will you not immediately pull it out?” 6 And they had nothing to say.
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これは、当時の安息日にはユダヤ人は休まなければならない、というユダヤ教の教えに、敢然と挑戦したイエスの姿勢を表している。安息日の定めに反対したのではなく、安息日だからと言って安息日に人助けすら禁止しようとする、当時の宗教家たちの横暴、欺瞞に反対したのです。しかも、その陰で宗教の権威者は安息日にも、人々からどのようにしてカネを搾り取るかを相談し、画策し、陰謀を行っているのを、イエスは責めたのです。
要するに、当時の宗教家たちは、宗教の権威を傘に着て、人々の生活を規制し、カネを絞り取ろうとしていたということです。これは、今も宗教国家と呼ばれる体制では同じことが行われている。たとえば、イスラム教世界や北朝鮮、中国、ロシアなどの専制主義国家では、イデオロギー的に国民を支配しようとしている。要するに、表現の自由も、思想の自由も認めない体制が続いている。他方、欧米・日本などの民主主義国家では、過去の歴史的反省から自由を尊重する体制が取られている。特に、宗教は個人の心の問題として、自由が認められている。
日本でも、戦前は天皇を中心とする、専制主義体制だった。天皇の悪口を言えば、逮捕され、天皇を批判すれば、裁判にかけられるのが戦前の日本だった。そして、天皇の名において戦争が実施された。戦後も、天皇家を頂点とする体制に変わりはない。これでは、日本は真の平和国家になったとは言えない。天皇が「戦争やむなし」と言えば、日本は戦争を始めるような精神風土に変わりはない。真の平和活動とは、現天皇家を廃止することを意味する。そして、新たな天皇家か王家を立てるか、大統領制を採用するしかない。しかし、日本の国民にはまだそのような深い歴史的反省は見られない。
勿論、現天皇家の人間は、日本国民として主権者の地位を与えられる。今の体制は、国民が主権者であり、皇族は国民以外の特殊な日本人であるということになっているが、神の下では人間は全て平等だというイエスの思想に反している。これでは、皇族も不幸であり、天皇家の宗教的権威を利用しようとする者が後を絶たない。そもそも、現憲法はアメリカのキリスト教的民主主義に基づいており、天皇神道に従う天皇体制とは相容れない。日本国民もイエス(神様)を取るか、出自の不明確な天皇を取るかを、必ず迫られる時が来る。
いずれにしても、宗教的な権威を悪用する者は、2千年前のイエスの時代から跡を絶たない。これは、今でも通用する警告なのです。特に、80年前までは、天皇神道で戦争をして、原爆まで落とされて敗戦した日本では、真剣に考えるべき問題です。
要するに、宗教を悪用する人間が多すぎる。悪魔はどの宗教団体にも(天皇神道にも)入り込む。心霊主義にも悪魔が入り込む。しかも、悪魔に取り付かれた人間は、そのことを意識できない。彼らは、神様に使える気持ちで悪魔に仕えている。だから、そのことを理解しないと、戦前の日本の天皇神道という宗教による国民支配を理解できない。
今も、そのような天皇神道による国民支配の動きはあるが、それを抑えているのが、欧米のキリスト教なのです。ところが、欧米のキリスト教自体が腐敗・堕落の道を進んでいる。だから、日本人は独自にキリスト教を研究し、発展させる必要があるのです。
ただし、宗教と同等の左翼/絶対主義的イデオロギーによる支配も警戒しなければならない。どちらも、貧しい人々の味方を演じていながら、貧しい人々を支配することを狙いとしている。これは、天皇神道より悪質であるということは、戦後の歴史が証明している。悪魔は、共産主義にも入り込んでいる。戦後の日本は、天皇絶対主義と左翼絶対主義の間の不毛な戦いでもあった。唯一の救いは、世界標準のキリスト教が、辛うじて生き残っていることです。日本人も独自にキリスト教を学び、発展させるべき時なのです。
「つまずきを、もたらす者は不幸である。」 ― 2025/05/06 22:54
イエスは弟子たちに言われた、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」(ルカによる福音書 17:1)
Jesus said to his disciples: “Things that cause people to stumble are bound to come, but woe to anyone through whom they come.
+++ +++ +++
これは、人は過ちを犯すものであるが、他人に過ちを犯させた者は、もっと罪が大きいという意味です。「つまずき」とは、罪や失敗ということです。
今の多くのシステムでは、人間はエラーを犯すものだということを前提として構築されている。つまり、ヒューマン・エラーを見越して、複数のシステムが用意されている。しかし、悪意を持った人間は、他人にエラーを犯させることがある。そのような、悪意を持った人間は、より罪が大きいということを意味しているのです。
これは、実際に日常生活で、よく見られることです。いわゆる、知能犯と言われる犯罪行為もこれに属する。また、他人を嫉妬し、憎しみ、その不幸を願う者も多い。そういう人間は、相手をわざと罪を犯さざるを得ないような状態に持って行くことがある。いわゆる、「他人をはめる」と言う行為です。
2千年前にも、こういう人間が多かったことをイエスの言葉は示している。
今でも、部下に違法行為の責任を負わせたり、手下に違法行為を行わせたり、あるいは、知人に違反行為の責任をなすりつける者も多い。知能犯になれば、うまく他人に違法行為をせざるを得ない状況に追い込む例もある。また、警察官に加害者が被害者を装って、被害者に罪をなすりつけるものがいる。冤罪事件の背後には、そのような真犯人がいる。
しかし、意図的に他人をして、違反行為をするように仕向ける者は、違反行為をした者より悪質だということです。
また、世間は、そのような悪質なトリックに騙されやすい。だから、イエスは人の罪を責めてはならないと警告している。人に何らかの理由で憎しみを抱いた者は、相手を罪に陥れようとするのは、昔から変わらない。
政治家も、部下の秘書に罪を負わせる。やくざの親分は、子分に罪を負わせる。会社の上役も、業務の失敗の責任を部下に負わせる。立場の弱い者が、犠牲になるのは昔から変わらない。だから、誰でも出世し、他人より強い立場になろうとする。また、社会のエリートになれば、たいていの罪は誤魔化すことができる。そういう社会に、警告を発したのがイエスなのです。
こういう社会の常識を扱った言葉は、エリート主義の教団や階層的な宗教では扱わない。そういう宗教団体でも、上位の者が、下位の者に罪を負わせることが、当然のことのように行われていることも多い。それを、イエスは責めているのです。
つまり、人間は誰でもミスや失敗、違反行為を犯すものだが、それを他人に行わせる者は、もっと罪が重いということをイエスは述べている。
実際、世の中では、飛んでもない欺瞞が行われている。そこで、陰謀論や都市伝説という暴露行為が行われる。また、その陰謀論を利用する者も出てくる。最後は、何が真実か分からなくなる。そして、いわゆる社会の常識が認める結論になる。
しかし、そういう常識自体を疑え、という警告をイエスは出しているのです。だから、聖書を学んで、そのような悪を避ける必要があるのです・・・
Jesus said to his disciples: “Things that cause people to stumble are bound to come, but woe to anyone through whom they come.
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これは、人は過ちを犯すものであるが、他人に過ちを犯させた者は、もっと罪が大きいという意味です。「つまずき」とは、罪や失敗ということです。
今の多くのシステムでは、人間はエラーを犯すものだということを前提として構築されている。つまり、ヒューマン・エラーを見越して、複数のシステムが用意されている。しかし、悪意を持った人間は、他人にエラーを犯させることがある。そのような、悪意を持った人間は、より罪が大きいということを意味しているのです。
これは、実際に日常生活で、よく見られることです。いわゆる、知能犯と言われる犯罪行為もこれに属する。また、他人を嫉妬し、憎しみ、その不幸を願う者も多い。そういう人間は、相手をわざと罪を犯さざるを得ないような状態に持って行くことがある。いわゆる、「他人をはめる」と言う行為です。
2千年前にも、こういう人間が多かったことをイエスの言葉は示している。
今でも、部下に違法行為の責任を負わせたり、手下に違法行為を行わせたり、あるいは、知人に違反行為の責任をなすりつける者も多い。知能犯になれば、うまく他人に違法行為をせざるを得ない状況に追い込む例もある。また、警察官に加害者が被害者を装って、被害者に罪をなすりつけるものがいる。冤罪事件の背後には、そのような真犯人がいる。
しかし、意図的に他人をして、違反行為をするように仕向ける者は、違反行為をした者より悪質だということです。
また、世間は、そのような悪質なトリックに騙されやすい。だから、イエスは人の罪を責めてはならないと警告している。人に何らかの理由で憎しみを抱いた者は、相手を罪に陥れようとするのは、昔から変わらない。
政治家も、部下の秘書に罪を負わせる。やくざの親分は、子分に罪を負わせる。会社の上役も、業務の失敗の責任を部下に負わせる。立場の弱い者が、犠牲になるのは昔から変わらない。だから、誰でも出世し、他人より強い立場になろうとする。また、社会のエリートになれば、たいていの罪は誤魔化すことができる。そういう社会に、警告を発したのがイエスなのです。
こういう社会の常識を扱った言葉は、エリート主義の教団や階層的な宗教では扱わない。そういう宗教団体でも、上位の者が、下位の者に罪を負わせることが、当然のことのように行われていることも多い。それを、イエスは責めているのです。
つまり、人間は誰でもミスや失敗、違反行為を犯すものだが、それを他人に行わせる者は、もっと罪が重いということをイエスは述べている。
実際、世の中では、飛んでもない欺瞞が行われている。そこで、陰謀論や都市伝説という暴露行為が行われる。また、その陰謀論を利用する者も出てくる。最後は、何が真実か分からなくなる。そして、いわゆる社会の常識が認める結論になる。
しかし、そういう常識自体を疑え、という警告をイエスは出しているのです。だから、聖書を学んで、そのような悪を避ける必要があるのです・・・
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