「常に主を恐れる人はさいわいである」(Blessed is the one who always trembles before God)(箴言28:14) ― 2025/08/21 13:29
Blessed is the one who always trembles before God,
but whoever hardens their heart falls into trouble.
常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。(箴言28:14)
+++ +++ +++
これは、知恵文学(箴言(しんげん)、コヘレトの言葉、雅歌)と呼ばれる旧約聖書の中の一書の中の一節であり、知恵文学はソロモン王によって作られたとされている。多くの教訓が書かれている。
宗教は単なる道徳ではなく、道徳の源の神様の教えを伝えるものです。基本は、善悪は神様の教えから来るものだということです。そして、神様は全善だと言われる。つまり、完全な善が神様にはあるということです。
しかし、この世は、悪魔の支配下にあり、至る所で悪事が行われている。キリスト者とは、そのような悪と戦う者だということになる。これは,全てのまともな宗教の基本です。悪を推奨する宗教はない。悪魔教などは、狂っている。ただし、どの宗教にも悪魔が入り込み、悪魔を神だとして教えているケースもある。善を教え、実践させるのが宗教です。
それでも、そのような世の中で生きる必要性から、人は多くの悪を受け入れることを余儀なくされている。しかし、キリスト者は、それを反省し、全善なる神様に許しを求めることを要求されている。つまり、悪から遠ざかった生き方をするのがキリスト者なのです。
全知全能の神様にさからって悪事に走れば、必ず神様から罰を下される。そのような神様を恐れるのが、信仰者であり、神様を恐れるということ自体が、神様への崇拝の念を表し、神様を崇拝する者は、神様によって生活に必要なものは与えられる。
人間が悪をなすのは、自分の欲望を満たすためであることが普通です。そして、悪魔は人間の欲望を喚起し、悪を行わさせる。つまり、カネと富を求めさせる。資本主義社会の大きな問題です。しかし、行き過ぎた欲望の追及は、やがて破綻する。悪魔は自分の教えに従って、カネや富を蓄えた者も最後には破滅させて喜ぶ。しかし、物質的欲望の追及を最小限に抑えて生きていれば、悪魔による罠は避けることができる。
どんなに物質的な幸福を求める心があっても、それが神様の教えに反することを知っている者は、神様を恐れ自粛する。それを神様は、高く評価してくださる。しかし、人々の欲を喚起し、自分の商売などの利益をはかる者は、人をつまずかせる者と言われる。悪魔が与える誘惑の片棒をかつぐような生き方をしてはいけない。そういう意味で、現代の商業主義、娯楽などは危険な行為だということになる。
仏教でも、人に欲望を喚起させる行為は慎むようにと教えている。人の羨望を買うのは罪なのです。自分の富や、幸運、成功などを人に誇るのは、悪魔の教えを広めるようなものです。神様を恐れる者は、そのようなことはできない。いつかは、自分が神様に罰されるからです。
つまり、世の中の富裕層やエリートは、その富、特権、高い地位、肩書などによって、人々を羨ましがらせるので、悪魔の片棒をかついでいることになる。だから、仏教でも志の高い修行者は、俗世間を離れた山中で禁欲的な修業を行う。キリスト教でも、修道院という世間から隔離された生活の場がある。
しかし、悪魔はどこにでも入り込む。何十年もの信仰生活の果てに、高い肩書や地位に魂を売る宗教人もいる。
だから、イエス・キリストも仏陀も、生涯、ホームレスの伝道者としての生活を送った。彼らは、完全な善を体現する神様を恐れていたのです。イエスに従う者も、神様を恐れ、清貧生活をすることが基本です。生活に必要なものは、神様が与えてくれると信じるのが、信仰者なのです。
これが、宗教的悟りの現れです。
but whoever hardens their heart falls into trouble.
常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。(箴言28:14)
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これは、知恵文学(箴言(しんげん)、コヘレトの言葉、雅歌)と呼ばれる旧約聖書の中の一書の中の一節であり、知恵文学はソロモン王によって作られたとされている。多くの教訓が書かれている。
宗教は単なる道徳ではなく、道徳の源の神様の教えを伝えるものです。基本は、善悪は神様の教えから来るものだということです。そして、神様は全善だと言われる。つまり、完全な善が神様にはあるということです。
しかし、この世は、悪魔の支配下にあり、至る所で悪事が行われている。キリスト者とは、そのような悪と戦う者だということになる。これは,全てのまともな宗教の基本です。悪を推奨する宗教はない。悪魔教などは、狂っている。ただし、どの宗教にも悪魔が入り込み、悪魔を神だとして教えているケースもある。善を教え、実践させるのが宗教です。
それでも、そのような世の中で生きる必要性から、人は多くの悪を受け入れることを余儀なくされている。しかし、キリスト者は、それを反省し、全善なる神様に許しを求めることを要求されている。つまり、悪から遠ざかった生き方をするのがキリスト者なのです。
全知全能の神様にさからって悪事に走れば、必ず神様から罰を下される。そのような神様を恐れるのが、信仰者であり、神様を恐れるということ自体が、神様への崇拝の念を表し、神様を崇拝する者は、神様によって生活に必要なものは与えられる。
人間が悪をなすのは、自分の欲望を満たすためであることが普通です。そして、悪魔は人間の欲望を喚起し、悪を行わさせる。つまり、カネと富を求めさせる。資本主義社会の大きな問題です。しかし、行き過ぎた欲望の追及は、やがて破綻する。悪魔は自分の教えに従って、カネや富を蓄えた者も最後には破滅させて喜ぶ。しかし、物質的欲望の追及を最小限に抑えて生きていれば、悪魔による罠は避けることができる。
どんなに物質的な幸福を求める心があっても、それが神様の教えに反することを知っている者は、神様を恐れ自粛する。それを神様は、高く評価してくださる。しかし、人々の欲を喚起し、自分の商売などの利益をはかる者は、人をつまずかせる者と言われる。悪魔が与える誘惑の片棒をかつぐような生き方をしてはいけない。そういう意味で、現代の商業主義、娯楽などは危険な行為だということになる。
仏教でも、人に欲望を喚起させる行為は慎むようにと教えている。人の羨望を買うのは罪なのです。自分の富や、幸運、成功などを人に誇るのは、悪魔の教えを広めるようなものです。神様を恐れる者は、そのようなことはできない。いつかは、自分が神様に罰されるからです。
つまり、世の中の富裕層やエリートは、その富、特権、高い地位、肩書などによって、人々を羨ましがらせるので、悪魔の片棒をかついでいることになる。だから、仏教でも志の高い修行者は、俗世間を離れた山中で禁欲的な修業を行う。キリスト教でも、修道院という世間から隔離された生活の場がある。
しかし、悪魔はどこにでも入り込む。何十年もの信仰生活の果てに、高い肩書や地位に魂を売る宗教人もいる。
だから、イエス・キリストも仏陀も、生涯、ホームレスの伝道者としての生活を送った。彼らは、完全な善を体現する神様を恐れていたのです。イエスに従う者も、神様を恐れ、清貧生活をすることが基本です。生活に必要なものは、神様が与えてくれると信じるのが、信仰者なのです。
これが、宗教的悟りの現れです。
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