「ほかの九人は、どこにいるのか?」2025/06/02 18:46

Jesus asked, “Were not all ten cleansed? Where are the other nine?"

イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」(ルカによる福音書 17:17)

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イエス・キリストが、多くの病人を霊能力で癒した後に、癒された者がイエスに感謝を捧げたときの話です。10人の人が癒されたのに、一人しかイエスに感謝の挨拶をしなっかた。その時に、イエスが、あとの9人は、どうして感謝の挨拶をしないのか、と声に出されたという情景です。

つまり、イエスが助けた人のうち、90%は恩知らずだということです。彼らは、恩人のイエスに感謝の礼も表さない。あきれた話ですが、それが聖書に記されている。

イエスにすら感謝を示さないのだから、私たちが困っている人を助けても、感謝されることを期待してはいけない、ということです。しかし、10人に一人は感謝の気持ちを持つ者もいる。それで、満足しなければならない。人助けは、感謝されるために行ってはならない。それが、人間としての義務だから、人を助けるという心構えでなければならない。

また、助けられて感謝したからと言って、立派な態度を取ったなどと思ってはいけない。自分は礼儀を知っている人間だと、思い上がってはいけない。自分は、感謝知らずの他の90%の人間よりまともだと思ってはいけない。それは当たり前のことです。ただし、そのような当たり前の考えも理解できない人間は多い。それでは、いわゆる民度の低い社会になる。

この「恩知らず」、という特徴は、いつの世も人間に共通に見られる愚かさです。そもそも、神様が人間に命を与えてくれたのに、毎日、それを神様に感謝して生きている人間はほとんどいない。皆、自分には命があって当然だ、という顔をして生きている。神様や神仏、天使が人間に呆れても当然です。だから、悪魔がそのような人間に取り付く。神様への感謝は、悪魔につけ入れられない術でもある。

自分の知らない時に、知らない所で、神様が自分に命を与えてくれることを決定した、というのは、ある意味で恐ろしいことです。自分には、何の力もないことを認めなければならない。いつ神様が自分の命を奪うかも分からない、ということを認めなければならない。だから、運命論者になる人間も多い。どんなに努力をしても、自分の運命は変えられない、と考えても無理はない。

しかし、そのような姿勢は正しくない、ということをイエスは示唆しているのです。

人間は、素直に感謝を表すべきだというのがイエスの教えです。むしろ、感謝も表さない人間に、イエスは呆れている。だから、イエスは「ああ、信仰心の薄い者よ」と嘆くことがあったのです。

ここに、真実の信仰者とそうでない人間の違いが現れる。真実の信仰者は、訳が分からなくても、或は、何と考えられようと、神様を信じている。神様が自分に命を与えてくれた理由は分からなくても、神様に感謝する気持ちはなくならない、というのが真実の信仰者です。イエスに感謝した一人の元病人のようなものです。

ただし、90%の人間は、喉元過ぎれば熱さを忘れるという姿勢を示す。苦しんでいたことを忘れて、自分は助けられて当たり前だと考える。そして、その思い上がりの果てに、自分を助けてくれた人間を無視し、さらには軽蔑するようになる。

しかし、そういう恩知らずの人間も助けようというのが、イエス・キリストの人間への愛なのです。

さらに、悪魔はそういう恩知らずの人間の心に入り込み、恩人に対する裏切り行為を行わせる。イエスの弟子の一人がイエスを裏切ったのも、そのような事情があったからだと考えられる。つまり、90%の人間は悪魔に支配される可能性がある。

これは、人類に対する警告です。90%の人間は、素直な信仰心を持っていない。これでは、人類の未来は暗い。人類全体が危機に陥り、神様に助けられても、神様に感謝しない人間が大部分であれば、神様は人類を見捨てる。

とにかく、神様に感謝する気持ちをもって生きよ、ということです。今、生きているのなら、ということです。

『僕はその主人にまさるものではない』2025/06/02 23:01

Remember what I told you: ‘A servant is not greater than his master.’If they persecuted me, they will persecute you also. If they obeyed my teaching, they will obey yours also.

「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。」 (ヨハネによる福音書 15:20)
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これは、イエス・キリストが弟子に、彼らの心構えについて述べた言葉です。

イエスは主人であり、弟子はその召し使いの立場にある、ということを明確にしたのです。そして、しもべ、又は、召し使は主人より劣った者だということを自覚しなければならない。主人が人々から迫害されていれば、その召し使いも迫害される。人々が主人の言葉に従っているのなら、その召し使いの言葉も守る。

イエス・キリストの活動が広まり、人々の中にはイエスを受け入れる者と、イエスを憎む者が明らかになり、弟子たちも持ち上げられる者や、憎まれる者が現れた。イエスは弟子たちに、思い上がらないように、また、憎まれても恐れないようにと忠告したのです。

この世は悪魔の影響下にあり、神様の子のイエスを憎む悪魔は、人々をしてイエスを憎ませる。前もって、そのような厳しい環境に生きていることを弟子たちは理解しなければならない。また、イエスの言葉に従えば、人々は悪魔の影響から逃れることができ、多くの人は、悪魔よりイエスに従うことを選んでいる。そのような人々は、弟子の言葉でも有難がる。弟子たちは、虎の威を借りる狐のような立場にもある。しかし、それで思い上がってはいけない、と戒めたのです。

弟子は、主人あっての弟子なのです。主人の威光で弟子も高く評価される。逆に、主人を憎む者は、弟子までも憎む。弟子の運命は、どこまでも、主人の運命に従うことになる。

キリスト教がヨーロッパ中に広まり、ヴァチカンの栄光と威厳が高まったときに、神父や法王などはこの世の王族並みに尊敬されるようになり、思い上がる可能性が出てきた時に、この警告は生きてくる。あくまで、神父や法王はイエス・キリストの召し使いなのです。自分たちに、霊的な力があるわけではない。イエスの霊能力のお陰で、本来のキリスト教は成り立っている。

また、悪魔に魂を売っている人間は、イエスの教えに反発する。彼らは、イエスを迫害し、弟子たちをも憎む。それだけの、覚悟をせよということです。そのために、人々がイエスの言葉を受け入れているなら、弟子たちも安全だと知るべきだと教えたのです。全ては、イエスが受け入れられるかどうかに弟子の扱いもかかっている。

現在でも、キリスト教は、他の宗教よりも教祖のイエス・キリストを正面に出す。個人崇拝の極致です。イエス・キリストを受け入れる人間は、神父や法王を受け入れる。イエスの教えを拒絶する人は、神父や法王も拒絶する。神父などの力ではなく、全てはイエス・キリストのお陰だということに感謝しなければならない。

弟子も信徒も、自分の力で人々に歓迎されたり、嫌わられたりするのではなく、その主人のイエスのせいだということを常に自覚する必要がある。つまり、弟子も信徒も常にイエス・キリストに従う者だと自覚しなければならない。だから、キリスト教では、日本の仏教のように、さまざまな宗派が出現し、その教祖が崇拝されるということは少ない。プロテスタント各派も、それぞれイエス・キリストを教祖としていることに変わりはない。ヴァチカンの法王の権威に対する姿勢の違いが大きい。

いずれにしても、イエス・キリストの活動が拡大すれば、悪魔の影響下にあるこの世では、イエスに対する風当たりが強くなり、その影響が弟子にも表れることを理解しなければならない。弟子が、自分は人に憎まれる覚えはない、と思っても、弟子の主人が憎まれていれば、弟子も憎まれる。また、弟子が、自分は人に尊敬される覚えはない、と思っても、弟子の主人が尊敬されていれば、弟子も尊敬される。

つまり、弟子には、あくまでも主人であるイエスの傘の下に生きているのだ、ということを忘れるなという戒めです。

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