「ほかの九人は、どこにいるのか?」 ― 2025/06/02 18:46
Jesus asked, “Were not all ten cleansed? Where are the other nine?"
イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」(ルカによる福音書 17:17)
+++ +++ +++
イエス・キリストが、多くの病人を霊能力で癒した後に、癒された者がイエスに感謝を捧げたときの話です。10人の人が癒されたのに、一人しかイエスに感謝の挨拶をしなっかた。その時に、イエスが、あとの9人は、どうして感謝の挨拶をしないのか、と声に出されたという情景です。
つまり、イエスが助けた人のうち、90%は恩知らずだということです。彼らは、恩人のイエスに感謝の礼も表さない。あきれた話ですが、それが聖書に記されている。
イエスにすら感謝を示さないのだから、私たちが困っている人を助けても、感謝されることを期待してはいけない、ということです。しかし、10人に一人は感謝の気持ちを持つ者もいる。それで、満足しなければならない。人助けは、感謝されるために行ってはならない。それが、人間としての義務だから、人を助けるという心構えでなければならない。
また、助けられて感謝したからと言って、立派な態度を取ったなどと思ってはいけない。自分は礼儀を知っている人間だと、思い上がってはいけない。自分は、感謝知らずの他の90%の人間よりまともだと思ってはいけない。それは当たり前のことです。ただし、そのような当たり前の考えも理解できない人間は多い。それでは、いわゆる民度の低い社会になる。
この「恩知らず」、という特徴は、いつの世も人間に共通に見られる愚かさです。そもそも、神様が人間に命を与えてくれたのに、毎日、それを神様に感謝して生きている人間はほとんどいない。皆、自分には命があって当然だ、という顔をして生きている。神様や神仏、天使が人間に呆れても当然です。だから、悪魔がそのような人間に取り付く。神様への感謝は、悪魔につけ入れられない術でもある。
自分の知らない時に、知らない所で、神様が自分に命を与えてくれることを決定した、というのは、ある意味で恐ろしいことです。自分には、何の力もないことを認めなければならない。いつ神様が自分の命を奪うかも分からない、ということを認めなければならない。だから、運命論者になる人間も多い。どんなに努力をしても、自分の運命は変えられない、と考えても無理はない。
しかし、そのような姿勢は正しくない、ということをイエスは示唆しているのです。
人間は、素直に感謝を表すべきだというのがイエスの教えです。むしろ、感謝も表さない人間に、イエスは呆れている。だから、イエスは「ああ、信仰心の薄い者よ」と嘆くことがあったのです。
ここに、真実の信仰者とそうでない人間の違いが現れる。真実の信仰者は、訳が分からなくても、或は、何と考えられようと、神様を信じている。神様が自分に命を与えてくれた理由は分からなくても、神様に感謝する気持ちはなくならない、というのが真実の信仰者です。イエスに感謝した一人の元病人のようなものです。
ただし、90%の人間は、喉元過ぎれば熱さを忘れるという姿勢を示す。苦しんでいたことを忘れて、自分は助けられて当たり前だと考える。そして、その思い上がりの果てに、自分を助けてくれた人間を無視し、さらには軽蔑するようになる。
しかし、そういう恩知らずの人間も助けようというのが、イエス・キリストの人間への愛なのです。
さらに、悪魔はそういう恩知らずの人間の心に入り込み、恩人に対する裏切り行為を行わせる。イエスの弟子の一人がイエスを裏切ったのも、そのような事情があったからだと考えられる。つまり、90%の人間は悪魔に支配される可能性がある。
これは、人類に対する警告です。90%の人間は、素直な信仰心を持っていない。これでは、人類の未来は暗い。人類全体が危機に陥り、神様に助けられても、神様に感謝しない人間が大部分であれば、神様は人類を見捨てる。
とにかく、神様に感謝する気持ちをもって生きよ、ということです。今、生きているのなら、ということです。
イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」(ルカによる福音書 17:17)
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イエス・キリストが、多くの病人を霊能力で癒した後に、癒された者がイエスに感謝を捧げたときの話です。10人の人が癒されたのに、一人しかイエスに感謝の挨拶をしなっかた。その時に、イエスが、あとの9人は、どうして感謝の挨拶をしないのか、と声に出されたという情景です。
つまり、イエスが助けた人のうち、90%は恩知らずだということです。彼らは、恩人のイエスに感謝の礼も表さない。あきれた話ですが、それが聖書に記されている。
イエスにすら感謝を示さないのだから、私たちが困っている人を助けても、感謝されることを期待してはいけない、ということです。しかし、10人に一人は感謝の気持ちを持つ者もいる。それで、満足しなければならない。人助けは、感謝されるために行ってはならない。それが、人間としての義務だから、人を助けるという心構えでなければならない。
また、助けられて感謝したからと言って、立派な態度を取ったなどと思ってはいけない。自分は礼儀を知っている人間だと、思い上がってはいけない。自分は、感謝知らずの他の90%の人間よりまともだと思ってはいけない。それは当たり前のことです。ただし、そのような当たり前の考えも理解できない人間は多い。それでは、いわゆる民度の低い社会になる。
この「恩知らず」、という特徴は、いつの世も人間に共通に見られる愚かさです。そもそも、神様が人間に命を与えてくれたのに、毎日、それを神様に感謝して生きている人間はほとんどいない。皆、自分には命があって当然だ、という顔をして生きている。神様や神仏、天使が人間に呆れても当然です。だから、悪魔がそのような人間に取り付く。神様への感謝は、悪魔につけ入れられない術でもある。
自分の知らない時に、知らない所で、神様が自分に命を与えてくれることを決定した、というのは、ある意味で恐ろしいことです。自分には、何の力もないことを認めなければならない。いつ神様が自分の命を奪うかも分からない、ということを認めなければならない。だから、運命論者になる人間も多い。どんなに努力をしても、自分の運命は変えられない、と考えても無理はない。
しかし、そのような姿勢は正しくない、ということをイエスは示唆しているのです。
人間は、素直に感謝を表すべきだというのがイエスの教えです。むしろ、感謝も表さない人間に、イエスは呆れている。だから、イエスは「ああ、信仰心の薄い者よ」と嘆くことがあったのです。
ここに、真実の信仰者とそうでない人間の違いが現れる。真実の信仰者は、訳が分からなくても、或は、何と考えられようと、神様を信じている。神様が自分に命を与えてくれた理由は分からなくても、神様に感謝する気持ちはなくならない、というのが真実の信仰者です。イエスに感謝した一人の元病人のようなものです。
ただし、90%の人間は、喉元過ぎれば熱さを忘れるという姿勢を示す。苦しんでいたことを忘れて、自分は助けられて当たり前だと考える。そして、その思い上がりの果てに、自分を助けてくれた人間を無視し、さらには軽蔑するようになる。
しかし、そういう恩知らずの人間も助けようというのが、イエス・キリストの人間への愛なのです。
さらに、悪魔はそういう恩知らずの人間の心に入り込み、恩人に対する裏切り行為を行わせる。イエスの弟子の一人がイエスを裏切ったのも、そのような事情があったからだと考えられる。つまり、90%の人間は悪魔に支配される可能性がある。
これは、人類に対する警告です。90%の人間は、素直な信仰心を持っていない。これでは、人類の未来は暗い。人類全体が危機に陥り、神様に助けられても、神様に感謝しない人間が大部分であれば、神様は人類を見捨てる。
とにかく、神様に感謝する気持ちをもって生きよ、ということです。今、生きているのなら、ということです。
『僕はその主人にまさるものではない』 ― 2025/06/02 23:01
Remember what I told you: ‘A servant is not greater than his master.’If they persecuted me, they will persecute you also. If they obeyed my teaching, they will obey yours also.
「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。」 (ヨハネによる福音書 15:20)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが弟子に、彼らの心構えについて述べた言葉です。
イエスは主人であり、弟子はその召し使いの立場にある、ということを明確にしたのです。そして、しもべ、又は、召し使は主人より劣った者だということを自覚しなければならない。主人が人々から迫害されていれば、その召し使いも迫害される。人々が主人の言葉に従っているのなら、その召し使いの言葉も守る。
イエス・キリストの活動が広まり、人々の中にはイエスを受け入れる者と、イエスを憎む者が明らかになり、弟子たちも持ち上げられる者や、憎まれる者が現れた。イエスは弟子たちに、思い上がらないように、また、憎まれても恐れないようにと忠告したのです。
この世は悪魔の影響下にあり、神様の子のイエスを憎む悪魔は、人々をしてイエスを憎ませる。前もって、そのような厳しい環境に生きていることを弟子たちは理解しなければならない。また、イエスの言葉に従えば、人々は悪魔の影響から逃れることができ、多くの人は、悪魔よりイエスに従うことを選んでいる。そのような人々は、弟子の言葉でも有難がる。弟子たちは、虎の威を借りる狐のような立場にもある。しかし、それで思い上がってはいけない、と戒めたのです。
弟子は、主人あっての弟子なのです。主人の威光で弟子も高く評価される。逆に、主人を憎む者は、弟子までも憎む。弟子の運命は、どこまでも、主人の運命に従うことになる。
キリスト教がヨーロッパ中に広まり、ヴァチカンの栄光と威厳が高まったときに、神父や法王などはこの世の王族並みに尊敬されるようになり、思い上がる可能性が出てきた時に、この警告は生きてくる。あくまで、神父や法王はイエス・キリストの召し使いなのです。自分たちに、霊的な力があるわけではない。イエスの霊能力のお陰で、本来のキリスト教は成り立っている。
また、悪魔に魂を売っている人間は、イエスの教えに反発する。彼らは、イエスを迫害し、弟子たちをも憎む。それだけの、覚悟をせよということです。そのために、人々がイエスの言葉を受け入れているなら、弟子たちも安全だと知るべきだと教えたのです。全ては、イエスが受け入れられるかどうかに弟子の扱いもかかっている。
現在でも、キリスト教は、他の宗教よりも教祖のイエス・キリストを正面に出す。個人崇拝の極致です。イエス・キリストを受け入れる人間は、神父や法王を受け入れる。イエスの教えを拒絶する人は、神父や法王も拒絶する。神父などの力ではなく、全てはイエス・キリストのお陰だということに感謝しなければならない。
弟子も信徒も、自分の力で人々に歓迎されたり、嫌わられたりするのではなく、その主人のイエスのせいだということを常に自覚する必要がある。つまり、弟子も信徒も常にイエス・キリストに従う者だと自覚しなければならない。だから、キリスト教では、日本の仏教のように、さまざまな宗派が出現し、その教祖が崇拝されるということは少ない。プロテスタント各派も、それぞれイエス・キリストを教祖としていることに変わりはない。ヴァチカンの法王の権威に対する姿勢の違いが大きい。
いずれにしても、イエス・キリストの活動が拡大すれば、悪魔の影響下にあるこの世では、イエスに対する風当たりが強くなり、その影響が弟子にも表れることを理解しなければならない。弟子が、自分は人に憎まれる覚えはない、と思っても、弟子の主人が憎まれていれば、弟子も憎まれる。また、弟子が、自分は人に尊敬される覚えはない、と思っても、弟子の主人が尊敬されていれば、弟子も尊敬される。
つまり、弟子には、あくまでも主人であるイエスの傘の下に生きているのだ、ということを忘れるなという戒めです。
「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。」 (ヨハネによる福音書 15:20)
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これは、イエス・キリストが弟子に、彼らの心構えについて述べた言葉です。
イエスは主人であり、弟子はその召し使いの立場にある、ということを明確にしたのです。そして、しもべ、又は、召し使は主人より劣った者だということを自覚しなければならない。主人が人々から迫害されていれば、その召し使いも迫害される。人々が主人の言葉に従っているのなら、その召し使いの言葉も守る。
イエス・キリストの活動が広まり、人々の中にはイエスを受け入れる者と、イエスを憎む者が明らかになり、弟子たちも持ち上げられる者や、憎まれる者が現れた。イエスは弟子たちに、思い上がらないように、また、憎まれても恐れないようにと忠告したのです。
この世は悪魔の影響下にあり、神様の子のイエスを憎む悪魔は、人々をしてイエスを憎ませる。前もって、そのような厳しい環境に生きていることを弟子たちは理解しなければならない。また、イエスの言葉に従えば、人々は悪魔の影響から逃れることができ、多くの人は、悪魔よりイエスに従うことを選んでいる。そのような人々は、弟子の言葉でも有難がる。弟子たちは、虎の威を借りる狐のような立場にもある。しかし、それで思い上がってはいけない、と戒めたのです。
弟子は、主人あっての弟子なのです。主人の威光で弟子も高く評価される。逆に、主人を憎む者は、弟子までも憎む。弟子の運命は、どこまでも、主人の運命に従うことになる。
キリスト教がヨーロッパ中に広まり、ヴァチカンの栄光と威厳が高まったときに、神父や法王などはこの世の王族並みに尊敬されるようになり、思い上がる可能性が出てきた時に、この警告は生きてくる。あくまで、神父や法王はイエス・キリストの召し使いなのです。自分たちに、霊的な力があるわけではない。イエスの霊能力のお陰で、本来のキリスト教は成り立っている。
また、悪魔に魂を売っている人間は、イエスの教えに反発する。彼らは、イエスを迫害し、弟子たちをも憎む。それだけの、覚悟をせよということです。そのために、人々がイエスの言葉を受け入れているなら、弟子たちも安全だと知るべきだと教えたのです。全ては、イエスが受け入れられるかどうかに弟子の扱いもかかっている。
現在でも、キリスト教は、他の宗教よりも教祖のイエス・キリストを正面に出す。個人崇拝の極致です。イエス・キリストを受け入れる人間は、神父や法王を受け入れる。イエスの教えを拒絶する人は、神父や法王も拒絶する。神父などの力ではなく、全てはイエス・キリストのお陰だということに感謝しなければならない。
弟子も信徒も、自分の力で人々に歓迎されたり、嫌わられたりするのではなく、その主人のイエスのせいだということを常に自覚する必要がある。つまり、弟子も信徒も常にイエス・キリストに従う者だと自覚しなければならない。だから、キリスト教では、日本の仏教のように、さまざまな宗派が出現し、その教祖が崇拝されるということは少ない。プロテスタント各派も、それぞれイエス・キリストを教祖としていることに変わりはない。ヴァチカンの法王の権威に対する姿勢の違いが大きい。
いずれにしても、イエス・キリストの活動が拡大すれば、悪魔の影響下にあるこの世では、イエスに対する風当たりが強くなり、その影響が弟子にも表れることを理解しなければならない。弟子が、自分は人に憎まれる覚えはない、と思っても、弟子の主人が憎まれていれば、弟子も憎まれる。また、弟子が、自分は人に尊敬される覚えはない、と思っても、弟子の主人が尊敬されていれば、弟子も尊敬される。
つまり、弟子には、あくまでも主人であるイエスの傘の下に生きているのだ、ということを忘れるなという戒めです。
「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」 ― 2025/06/03 21:13
The Son of Man will go just as it is written about him. But woe to that man who betrays the Son of Man! It would be better for him if he had not been born.”
「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。(マルコによる福音書 14:21)
+++ +++ +++
これは、ユダヤ教の幹部やローマ兵による逮捕が近いことを察し、弟子たちと最後の晩餐を取ったときに、イエス・キリストが述べた言葉です。なお、イエスは自分のことを「人の子(the Son of Man)」と呼んでいる。
イエスを裏切る弟子について言及し、その弟子は生れて来ない方がよかったと述べている。これは、霊的な発言です。人に命を与え、その人の運命を決めるのも神様です。しかし、人には自由意志が与えられ、その運命を変えていく力も与えられている。そこで、人に本当の責任が生じる。そして、そこで神様の裁きが生じる。
せっかく、神様が命を与えてくれたのに、その自由意志によって、神様の子であるイエスを裏切った人間の罪は深い。神様の裁きは重く、罪はどこまでも深い。神様に厳しく罰されるくらいであれば、この世に生まれてこない方がよかったということになる。イエスを裏切った弟子に対して、むしろイエス自身は同情的です。その弟子が、死後、霊界に入った後に、どのような裁きが神様によって行われるかを考えると、普通の人間の霊には耐えられない処罰になることは間違いない。永遠の地獄生活が待っている。そのことを、イエスは示唆している。
しかし、イエス・キリストがこの世で伝道し、その神様の教えに反対する権力者によって、イエスが殺害されるという運命を与えたのも神様です。イエスは聖者として、以後、多くの人々に崇められるが、イエスを裏切った弟子は永遠に呪われることになる。同じ人間として、この世を生きたイエスは、裏切った弟子に対して一抹の同情心を持ったはずです。
それでも、背後には神様と悪魔の対立という問題がある。悪魔はその弟子にイエスを裏切らせ、イエスを使って人々の神様への信仰心を高めようとした神様の企てを挫き、この世の闇を深めようとした。その悪魔に魂を売ること自体の罪は限りなく重い。その弟子は悪魔と一緒になって神様に逆らったことになる。神様の怒りは、当然、その子であるイエスを殺害した悪魔とその裏切った弟子に向けられる。神様の怒りほど恐ろしいものはない。イエスの言葉には、その恐怖が反映している。人間の霊には、耐えられない裁きとなる。
イエス・キリスト自身は、権力者に逮捕され殺害されることは、ある意味で承知のことだったとしても、悪魔がイエスの弟子を使うことは、当初、想像外だったのだろう。その弟子をも愛しておられた人間としてのイエスにとって、深い悲しみを感じたということです。しかし、その弟子を罵るよりも、その弟子を待ち受ける神様の処罰の恐ろしさを考えると、同情的な言葉を発せざるを得なかった。
この最後の晩餐は、神の定めた運命を受けいるイエス、裏切った弟子に対する失望と同情を感じるイエス、それでも、神様のご威光を認めるイエスの姿が現れている。キリスト教徒とは、イエスにならって、神の定めた運命を受けいれ、悪魔に魂を売った敵に同情し、かつ、神様のご威光を認めるものでなければならない。
「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。(マルコによる福音書 14:21)
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これは、ユダヤ教の幹部やローマ兵による逮捕が近いことを察し、弟子たちと最後の晩餐を取ったときに、イエス・キリストが述べた言葉です。なお、イエスは自分のことを「人の子(the Son of Man)」と呼んでいる。
イエスを裏切る弟子について言及し、その弟子は生れて来ない方がよかったと述べている。これは、霊的な発言です。人に命を与え、その人の運命を決めるのも神様です。しかし、人には自由意志が与えられ、その運命を変えていく力も与えられている。そこで、人に本当の責任が生じる。そして、そこで神様の裁きが生じる。
せっかく、神様が命を与えてくれたのに、その自由意志によって、神様の子であるイエスを裏切った人間の罪は深い。神様の裁きは重く、罪はどこまでも深い。神様に厳しく罰されるくらいであれば、この世に生まれてこない方がよかったということになる。イエスを裏切った弟子に対して、むしろイエス自身は同情的です。その弟子が、死後、霊界に入った後に、どのような裁きが神様によって行われるかを考えると、普通の人間の霊には耐えられない処罰になることは間違いない。永遠の地獄生活が待っている。そのことを、イエスは示唆している。
しかし、イエス・キリストがこの世で伝道し、その神様の教えに反対する権力者によって、イエスが殺害されるという運命を与えたのも神様です。イエスは聖者として、以後、多くの人々に崇められるが、イエスを裏切った弟子は永遠に呪われることになる。同じ人間として、この世を生きたイエスは、裏切った弟子に対して一抹の同情心を持ったはずです。
それでも、背後には神様と悪魔の対立という問題がある。悪魔はその弟子にイエスを裏切らせ、イエスを使って人々の神様への信仰心を高めようとした神様の企てを挫き、この世の闇を深めようとした。その悪魔に魂を売ること自体の罪は限りなく重い。その弟子は悪魔と一緒になって神様に逆らったことになる。神様の怒りは、当然、その子であるイエスを殺害した悪魔とその裏切った弟子に向けられる。神様の怒りほど恐ろしいものはない。イエスの言葉には、その恐怖が反映している。人間の霊には、耐えられない裁きとなる。
イエス・キリスト自身は、権力者に逮捕され殺害されることは、ある意味で承知のことだったとしても、悪魔がイエスの弟子を使うことは、当初、想像外だったのだろう。その弟子をも愛しておられた人間としてのイエスにとって、深い悲しみを感じたということです。しかし、その弟子を罵るよりも、その弟子を待ち受ける神様の処罰の恐ろしさを考えると、同情的な言葉を発せざるを得なかった。
この最後の晩餐は、神の定めた運命を受けいるイエス、裏切った弟子に対する失望と同情を感じるイエス、それでも、神様のご威光を認めるイエスの姿が現れている。キリスト教徒とは、イエスにならって、神の定めた運命を受けいれ、悪魔に魂を売った敵に同情し、かつ、神様のご威光を認めるものでなければならない。
「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」 ― 2025/06/04 21:26
Are not two sparrows sold for a penny? Yet not one of them will fall to the ground outside your Father’s care. And even the very hairs of your head are all numbered. So don’t be afraid; you are worth more than many sparrows.
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはないまたあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイによる福音書 10:29-31)
+++ +++ +++
イエス・キリストは、十二人の弟子をつかわすに当り、このような教訓を与えた。スズメを例に出して、神様の恵みを与えられているのだから、勇気を持てと教えている。
さらに、神様は一人ひとりの信者のことは何でも知っており、髪の毛の本数までご存じだと強調している。また、信者はスズメよりも、価値のあるものだとユーモアを交えて励ましている。小鳥ですら、神様の定める運命に従って生きている。信者も神様の定めた運命から逃れられないが、神様は信者を大事に扱っていることを信じなければならない。
そもそも、この世は神様が霊的エネルギーを使って作られたものであり、この世、即ち、物質界に存在するものは全て、神様の想念に従って存在している。大宇宙、銀河系、太陽系、地球などの、自然界は全て、神様の想念で作られたのです。地球の自然界の全ての生物も無生物も神様の想念に従って存在しているのです。
だから、自然の全てに神性を感じるという、縄文時代以来の日本の霊性は、神学的に正しい。宗教以前に、日本人の霊性が純粋で優れていることは、証明されている。日本人はスズメどころか、他の民族以上に、霊的に優れたものとして自信を持つべきです。しかし、イエス・キリストは、2千年前のユダヤ人に現れ、キリスト教は欧米を中心として発展してきた。なぜ、日本人の中にイエス・キリストは生まれなかったのかは謎ですが、現在の日本国憲法は、キリスト教国アメリカの民主主義精神を基礎としており、日本は準キリスト教国となっている。日本にキリスト教の精神が根付くのには、2千年近い年月が必要だった。しかし、だからといって、日本と言う国に反キリスト精神が強いというわけではない。
また、世の中の人間には、スズメ並みの人間もいる。聖書全体を読めば、イエス・キリストが金持ちを批判していることが分かる。社会のエリートや富裕層は、悪魔につながっているとして、イエスから警戒されている。彼らに比べれば、神様やイエスの信者は、はるかに神様に愛されている、というのがイエスの教えです。
エリートや富裕層は、神様から見れば、わずかのカネで自分の魂を悪魔に売り渡したものです。人々の個人の髪の毛の本数までご存じの神様は、人の心の中まで周知している。そのうえで、神様は信者の心の中を知って、信者を愛され、守っておられる。だから、生活のことは、心配せずに、自信をもって生きて行けというのがイエスの言葉なのです。
社会や生活の中で問題に出会えば、エリートや富裕層はカネの力、地位や肩書の力、その他の社会的な力、又は、暴力で問題を解決しようとする。しかし、それでは問題の本当の解決にはならない。しかし、神様しか頼る者のない信者は、全ての問題を神様に頼って解決しようとする。そして、イエスは問題はカネではなく、愛と信仰で解決せよと教えている。だから、キリスト教は貧しい者を無視できず、教会は慈善事業を行い、信徒は他人に親切にしなければならない。
逆に、お布施や寄付金を要求する宗教は、真の神様の教えに反している。かれらは、この世のスズメのように、二束三文で自分の魂を悪魔に売る人間なのです。そういう教団や宗教団体の教祖や会長より、神様やイエス・キリストの信者の方が、価値が高い。だから、神様を崇めて、自信をもって生きて行け、伝道せよというのが、イエス・キリストの教えなのです。
神様やイエス・キリストを信じるだけで、この世のエリートや富裕層以上の恵みを神様から与えられるというのが、本来のキリスト教の教義なのです。精神的・霊的な幸福は、カネではなく、このような信仰心から得られるのです。物質的な幸福ではなく、霊的な幸福を求めるのが、人間の生き方なのです。
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはないまたあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイによる福音書 10:29-31)
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イエス・キリストは、十二人の弟子をつかわすに当り、このような教訓を与えた。スズメを例に出して、神様の恵みを与えられているのだから、勇気を持てと教えている。
さらに、神様は一人ひとりの信者のことは何でも知っており、髪の毛の本数までご存じだと強調している。また、信者はスズメよりも、価値のあるものだとユーモアを交えて励ましている。小鳥ですら、神様の定める運命に従って生きている。信者も神様の定めた運命から逃れられないが、神様は信者を大事に扱っていることを信じなければならない。
そもそも、この世は神様が霊的エネルギーを使って作られたものであり、この世、即ち、物質界に存在するものは全て、神様の想念に従って存在している。大宇宙、銀河系、太陽系、地球などの、自然界は全て、神様の想念で作られたのです。地球の自然界の全ての生物も無生物も神様の想念に従って存在しているのです。
だから、自然の全てに神性を感じるという、縄文時代以来の日本の霊性は、神学的に正しい。宗教以前に、日本人の霊性が純粋で優れていることは、証明されている。日本人はスズメどころか、他の民族以上に、霊的に優れたものとして自信を持つべきです。しかし、イエス・キリストは、2千年前のユダヤ人に現れ、キリスト教は欧米を中心として発展してきた。なぜ、日本人の中にイエス・キリストは生まれなかったのかは謎ですが、現在の日本国憲法は、キリスト教国アメリカの民主主義精神を基礎としており、日本は準キリスト教国となっている。日本にキリスト教の精神が根付くのには、2千年近い年月が必要だった。しかし、だからといって、日本と言う国に反キリスト精神が強いというわけではない。
また、世の中の人間には、スズメ並みの人間もいる。聖書全体を読めば、イエス・キリストが金持ちを批判していることが分かる。社会のエリートや富裕層は、悪魔につながっているとして、イエスから警戒されている。彼らに比べれば、神様やイエスの信者は、はるかに神様に愛されている、というのがイエスの教えです。
エリートや富裕層は、神様から見れば、わずかのカネで自分の魂を悪魔に売り渡したものです。人々の個人の髪の毛の本数までご存じの神様は、人の心の中まで周知している。そのうえで、神様は信者の心の中を知って、信者を愛され、守っておられる。だから、生活のことは、心配せずに、自信をもって生きて行けというのがイエスの言葉なのです。
社会や生活の中で問題に出会えば、エリートや富裕層はカネの力、地位や肩書の力、その他の社会的な力、又は、暴力で問題を解決しようとする。しかし、それでは問題の本当の解決にはならない。しかし、神様しか頼る者のない信者は、全ての問題を神様に頼って解決しようとする。そして、イエスは問題はカネではなく、愛と信仰で解決せよと教えている。だから、キリスト教は貧しい者を無視できず、教会は慈善事業を行い、信徒は他人に親切にしなければならない。
逆に、お布施や寄付金を要求する宗教は、真の神様の教えに反している。かれらは、この世のスズメのように、二束三文で自分の魂を悪魔に売る人間なのです。そういう教団や宗教団体の教祖や会長より、神様やイエス・キリストの信者の方が、価値が高い。だから、神様を崇めて、自信をもって生きて行け、伝道せよというのが、イエス・キリストの教えなのです。
神様やイエス・キリストを信じるだけで、この世のエリートや富裕層以上の恵みを神様から与えられるというのが、本来のキリスト教の教義なのです。精神的・霊的な幸福は、カネではなく、このような信仰心から得られるのです。物質的な幸福ではなく、霊的な幸福を求めるのが、人間の生き方なのです。
「彼を十字架につけよ」 ― 2025/06/06 00:58
It was the day of Preparation of the Passover; it was about noon.“Here is your king,” Pilate said to the Jews. But they shouted, “Take him away! Take him away! Crucify him!” “Shall I crucify your king?” Pilate asked. “We have no king but Caesar,” the chief priests answered.
その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。(ヨハネによる福音書 19:14~15)
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イエス・キリストが十字架にかけられ、刑死したときの、ローマ総督の前での裁判の様子は、聖書に詳しく書かれている。ローマ総督のピラトは、イエスを死刑にするのには、余り乗り気ではなかったが、ユダヤ教の祭司やその手下はイエスを殺害したかったと記されている。
しかし、この時のローマ総督のピラトは、イエスを刑死させた人物として、悪名を残すことになった。また、ユダヤ人がイエスの死を望んだとして、その後のキリスト教化したヨーロッパでは、ユダヤ人は敵視されることになった。それが、第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人への虐殺につながった。
教祖のイエス・キリストが、ユダヤ教徒やローマ軍によって殺害されるというのは教祖の権威や霊力を疑わせるものです。それだけなら、イエスの教えは歴史に忘れ去られたはずです。しかし、イエスは、死後に葬られた墓の中から蘇り、悲しんでいる弟子たちの前に姿を現し、弟子たちはイエスが生き返ったのを見て、神様やイエスへの信仰を新たにした。そして、弟子たちは、このイエスの奇跡に励まされて、世界伝道を続けた。イエスの十字架刑から、2千年たった今日では、キリスト教は世界最大の宗教となり、欧米文化の基盤となり、現代文明の基礎となっている。
つまり、イエスの十字架刑による死が、キリスト教の発展の出発点となった。だから、聖書ではイエスの死と、よみがえりがハイライトとなっている。これが、他の宗教の聖典と大きく異なる、キリスト教の特徴です。教祖の刑死と死からの蘇りが、キリスト教の出発点なのです。
しかし、霊能力のある教祖がイエスのように刑死したり、仏陀のように食あたりで病死したりするのは、教祖として相応しくない、という考えもある。ただし、教祖も人間であり、人間は全て神様の定めた寿命に従わなければならない、という大前提がある。教祖が神様なら死ぬことはない。しかし、教祖は人間だからこそ、人間の宗教の教祖になれるのです。つまり、人間である以上、神様の定めた寿命に従って、いつかは必ず死ななければならない。
それでも、イエスは刑死から生き返り、その魂は蘇り、弟子たちに姿を現して、その後、生きたまま天に上がって行かれたと聖書には記されている。これは、イエスがただの人間ではないことを示している。
人間としてのイエス・キリストの人生は、十字架の上での死によって終わり、その後の死からの蘇りは、もはや人間ではない、霊的な存在としてのイエスの物語になる。死後は、短時間にこの世で霊的な姿を現し、弟子の見守る中で天に上げられた。これが、聖書に記されたイエスの物語なのです。
霊的な姿は幽霊となったということではない。本当の霊には、肉体を持った人間として現れる力もある。この世の物質界と霊界を自由に行き来できる。そのことをイエスは示された。ただし、霊となった以上は、物質界に無理をして留まる必要はない。霊界から必要な影響を及ぼすことができる。だから、イエスは死後、短時間だけ弟子たちに姿を見せられ、自分は霊的には、まだ生きていることを示されて、再び霊界に戻って行かれたのです。
この世の物質界とあの世の霊界の関係を理解しないと、聖書は本当に理解することはできない。しかし、キリスト教では今もイエス・キリストは霊界で生きていると考えている。イエス・キリストは霊界の天国で、弟子や信者が死後、天国に入って来るのを待っている、と考えるのがキリスト教徒です。
それでも、この世でのイエスの死は、人間の死であり、イエスを愛する者にとっては、悲しい別れを意味する。その気持ちが聖書に現れている。そのイエスに、悪魔が当時のユダヤ教の幹部や支配者のローマ軍を使って、死をもたらしたのです。悪魔が勝利したように見えたが、霊となったイエスは再び人間としても現れて、悪魔の勝利は無意味であることを、弟子たちに知らせたのです。
イエス・キリストの霊能力を信じることが、聖書の読者には求められている。
その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。(ヨハネによる福音書 19:14~15)
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イエス・キリストが十字架にかけられ、刑死したときの、ローマ総督の前での裁判の様子は、聖書に詳しく書かれている。ローマ総督のピラトは、イエスを死刑にするのには、余り乗り気ではなかったが、ユダヤ教の祭司やその手下はイエスを殺害したかったと記されている。
しかし、この時のローマ総督のピラトは、イエスを刑死させた人物として、悪名を残すことになった。また、ユダヤ人がイエスの死を望んだとして、その後のキリスト教化したヨーロッパでは、ユダヤ人は敵視されることになった。それが、第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人への虐殺につながった。
教祖のイエス・キリストが、ユダヤ教徒やローマ軍によって殺害されるというのは教祖の権威や霊力を疑わせるものです。それだけなら、イエスの教えは歴史に忘れ去られたはずです。しかし、イエスは、死後に葬られた墓の中から蘇り、悲しんでいる弟子たちの前に姿を現し、弟子たちはイエスが生き返ったのを見て、神様やイエスへの信仰を新たにした。そして、弟子たちは、このイエスの奇跡に励まされて、世界伝道を続けた。イエスの十字架刑から、2千年たった今日では、キリスト教は世界最大の宗教となり、欧米文化の基盤となり、現代文明の基礎となっている。
つまり、イエスの十字架刑による死が、キリスト教の発展の出発点となった。だから、聖書ではイエスの死と、よみがえりがハイライトとなっている。これが、他の宗教の聖典と大きく異なる、キリスト教の特徴です。教祖の刑死と死からの蘇りが、キリスト教の出発点なのです。
しかし、霊能力のある教祖がイエスのように刑死したり、仏陀のように食あたりで病死したりするのは、教祖として相応しくない、という考えもある。ただし、教祖も人間であり、人間は全て神様の定めた寿命に従わなければならない、という大前提がある。教祖が神様なら死ぬことはない。しかし、教祖は人間だからこそ、人間の宗教の教祖になれるのです。つまり、人間である以上、神様の定めた寿命に従って、いつかは必ず死ななければならない。
それでも、イエスは刑死から生き返り、その魂は蘇り、弟子たちに姿を現して、その後、生きたまま天に上がって行かれたと聖書には記されている。これは、イエスがただの人間ではないことを示している。
人間としてのイエス・キリストの人生は、十字架の上での死によって終わり、その後の死からの蘇りは、もはや人間ではない、霊的な存在としてのイエスの物語になる。死後は、短時間にこの世で霊的な姿を現し、弟子の見守る中で天に上げられた。これが、聖書に記されたイエスの物語なのです。
霊的な姿は幽霊となったということではない。本当の霊には、肉体を持った人間として現れる力もある。この世の物質界と霊界を自由に行き来できる。そのことをイエスは示された。ただし、霊となった以上は、物質界に無理をして留まる必要はない。霊界から必要な影響を及ぼすことができる。だから、イエスは死後、短時間だけ弟子たちに姿を見せられ、自分は霊的には、まだ生きていることを示されて、再び霊界に戻って行かれたのです。
この世の物質界とあの世の霊界の関係を理解しないと、聖書は本当に理解することはできない。しかし、キリスト教では今もイエス・キリストは霊界で生きていると考えている。イエス・キリストは霊界の天国で、弟子や信者が死後、天国に入って来るのを待っている、と考えるのがキリスト教徒です。
それでも、この世でのイエスの死は、人間の死であり、イエスを愛する者にとっては、悲しい別れを意味する。その気持ちが聖書に現れている。そのイエスに、悪魔が当時のユダヤ教の幹部や支配者のローマ軍を使って、死をもたらしたのです。悪魔が勝利したように見えたが、霊となったイエスは再び人間としても現れて、悪魔の勝利は無意味であることを、弟子たちに知らせたのです。
イエス・キリストの霊能力を信じることが、聖書の読者には求められている。
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