「あとの者が先になり、先の者はあとになる」 ― 2025/06/06 14:04
“So the last will be first, and the first will be last.”
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 20:16)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが人々を農園の労働者にたとえ、一番早く働いていた者にも、遅れて働き始めた者にも、同じ報酬を与えるべきことを教えたときの言葉です。つまり、この世の順番・序列と神様の判断は異なるということです。
この教えは、世の中で正しいことが多くの人間によって感じられている。マラソンでも、一番にゴールした者が、ルール違反で失格になったり、同級生で一番早く結婚した者が、一番早く離婚したり、この世の一番の金持ちが、精神的に一番不幸を感じたりすることもある。この世の順序・序列は、あてにならない。
これは、悪魔の影響の大きいこの世では、悪魔の定める順序・序列が重んじられるが、神様の直接支配が行われる霊界では、悪魔の定める順序・序列
は否定されるからです。霊界の事実は、この世にもやがて影響を与える。
実際、この世で地位の高い者、物質的に一番豊かで幸福だった者が、死後の霊界では、最も下の階層におかれる。この世ですら、地位の浮き沈み、幸福感の逆転は、しばしば見られる。地位の上の者が、やがて、下の地位に落とされたり、最も大きな名声を得ていた者が、皆から軽蔑されるようになることも多い。
だから、イエスは「皆があなたを持ち上げるとき、あなたの不幸は近い」という意味のことも述べている。逆に、「神様の教えに従っている者は、この世では直ちには評価されないが、やがて、その正しさが現れる」という意味のことを述べておられる。
この世で、物質的に幸福になるには、悪魔に魂を売って大金を稼ぐべきだという考えが主流です。この悪の教えに早くから馴染んだ者は、要領よく悪魔の教えに従い、悪魔の気持ちを忖度し、他人には分からないように悪事を働き、表面的には善人を装う。そして、この世のエリートになり、また、富裕層になる。しかし、死後の霊界では、この世の価値観は通用しない。信仰と愛のみが評価される。
この世で、純粋な信仰心を持ち、貧しい隣人を愛し、人に親切にし、自分の利益は後にして、他人を助ける者は、この世では競争に負け、金持ちにもなれず、高い地位も肩書も得られないが、死後の霊界では高く評価され、高い霊格を与えられ、天国に近い位置を与えられる。つまり、この世の順序・序列と、霊界の順序・序列は逆になる。
実際、イエスはこの世では物質的には無一文で、ホームレスのような生活をしていたが、死後の霊界では、人間としては最高の地位を与えられ、霊的な最高の豊かさを得ている。この世の最下位の者が、あの世では最高の地位を与えられる。
そして、霊界の真実は、やがて、この世にも反映するので、今ではイエスの教えに従うキリスト教が、世界の宗教の主流となり、キリスト教の総本山のヴァチカンのローマ法王は、世界最高の精神的指導者だとされている。
2千年前は、乞食の宗教といわれたキリスト教が、今の世界の文化の基礎となっている。欧米では、どんな高位の者、どれだけ富裕な者でも、形だけではキリスト教を信じる生き方をしている。時間はかかるが、神様の真実に従う者は、この世でも、やがて高く評価される。
だから、神様を信じて清貧生活をする者は、この世でどんなに不幸でも、貧しくても、地位が低くても、やがて、高く評価されるようになることを信じて生きるべきです。
例えば、失恋しても、自分が神様を信じる清貧生活をしていれば、やがて、信仰が新しい相手との出会いをもたらす。また、不幸にも失業したり、事業に失敗しても、神様への信仰心を捨てなければ、新たなアイデアを与えられたり、チャンスに出会ったりする。神様は、ご自分の信徒が滅びるのは許されないからです。
この世は、流れる川のようなもので、その上を流れる落ち葉は、流れによって浮いたり沈んだり、早く流れたり、停滞したりするが、神様の天使や守護霊が見守っており、落ち葉である人間の霊が、川に沈んで破滅しないように助けてくれる。これを信じるのが、本来のキリスト教なのです。
この考えが正しいのは、2千年前の乞食やホームレスの集団だったキリスト教徒が、今や、ヴァチカンや世界中に大教会を持ち、また、精神的にも高く評価されていることが証明している。
この世のホームレスは、霊界では王族や皇族の上に置かれるものです。また、大学の神学部も出なかった、貧しい信徒が、霊界では神父・牧師の上に立ち、彼らに教えを与えることも多い。
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 20:16)
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これは、イエス・キリストが人々を農園の労働者にたとえ、一番早く働いていた者にも、遅れて働き始めた者にも、同じ報酬を与えるべきことを教えたときの言葉です。つまり、この世の順番・序列と神様の判断は異なるということです。
この教えは、世の中で正しいことが多くの人間によって感じられている。マラソンでも、一番にゴールした者が、ルール違反で失格になったり、同級生で一番早く結婚した者が、一番早く離婚したり、この世の一番の金持ちが、精神的に一番不幸を感じたりすることもある。この世の順序・序列は、あてにならない。
これは、悪魔の影響の大きいこの世では、悪魔の定める順序・序列が重んじられるが、神様の直接支配が行われる霊界では、悪魔の定める順序・序列
は否定されるからです。霊界の事実は、この世にもやがて影響を与える。
実際、この世で地位の高い者、物質的に一番豊かで幸福だった者が、死後の霊界では、最も下の階層におかれる。この世ですら、地位の浮き沈み、幸福感の逆転は、しばしば見られる。地位の上の者が、やがて、下の地位に落とされたり、最も大きな名声を得ていた者が、皆から軽蔑されるようになることも多い。
だから、イエスは「皆があなたを持ち上げるとき、あなたの不幸は近い」という意味のことも述べている。逆に、「神様の教えに従っている者は、この世では直ちには評価されないが、やがて、その正しさが現れる」という意味のことを述べておられる。
この世で、物質的に幸福になるには、悪魔に魂を売って大金を稼ぐべきだという考えが主流です。この悪の教えに早くから馴染んだ者は、要領よく悪魔の教えに従い、悪魔の気持ちを忖度し、他人には分からないように悪事を働き、表面的には善人を装う。そして、この世のエリートになり、また、富裕層になる。しかし、死後の霊界では、この世の価値観は通用しない。信仰と愛のみが評価される。
この世で、純粋な信仰心を持ち、貧しい隣人を愛し、人に親切にし、自分の利益は後にして、他人を助ける者は、この世では競争に負け、金持ちにもなれず、高い地位も肩書も得られないが、死後の霊界では高く評価され、高い霊格を与えられ、天国に近い位置を与えられる。つまり、この世の順序・序列と、霊界の順序・序列は逆になる。
実際、イエスはこの世では物質的には無一文で、ホームレスのような生活をしていたが、死後の霊界では、人間としては最高の地位を与えられ、霊的な最高の豊かさを得ている。この世の最下位の者が、あの世では最高の地位を与えられる。
そして、霊界の真実は、やがて、この世にも反映するので、今ではイエスの教えに従うキリスト教が、世界の宗教の主流となり、キリスト教の総本山のヴァチカンのローマ法王は、世界最高の精神的指導者だとされている。
2千年前は、乞食の宗教といわれたキリスト教が、今の世界の文化の基礎となっている。欧米では、どんな高位の者、どれだけ富裕な者でも、形だけではキリスト教を信じる生き方をしている。時間はかかるが、神様の真実に従う者は、この世でも、やがて高く評価される。
だから、神様を信じて清貧生活をする者は、この世でどんなに不幸でも、貧しくても、地位が低くても、やがて、高く評価されるようになることを信じて生きるべきです。
例えば、失恋しても、自分が神様を信じる清貧生活をしていれば、やがて、信仰が新しい相手との出会いをもたらす。また、不幸にも失業したり、事業に失敗しても、神様への信仰心を捨てなければ、新たなアイデアを与えられたり、チャンスに出会ったりする。神様は、ご自分の信徒が滅びるのは許されないからです。
この世は、流れる川のようなもので、その上を流れる落ち葉は、流れによって浮いたり沈んだり、早く流れたり、停滞したりするが、神様の天使や守護霊が見守っており、落ち葉である人間の霊が、川に沈んで破滅しないように助けてくれる。これを信じるのが、本来のキリスト教なのです。
この考えが正しいのは、2千年前の乞食やホームレスの集団だったキリスト教徒が、今や、ヴァチカンや世界中に大教会を持ち、また、精神的にも高く評価されていることが証明している。
この世のホームレスは、霊界では王族や皇族の上に置かれるものです。また、大学の神学部も出なかった、貧しい信徒が、霊界では神父・牧師の上に立ち、彼らに教えを与えることも多い。
「持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられる」 ― 2025/06/07 23:35
“He replied, ‘I tell you that to everyone who has, more will be given, but as for the one who has nothing, even what they have will be taken away.
『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、弟子にたとえ話をして、ある農園の主人が旅に出たときに、二人の召し使いに農園の管理を任せたと話したときの言葉です。その主人は、召使のそれぞれに管理費を与えたが、一人は農園の管理費を経済活動に活用して資産を増やし、主人が帰ったときに利益も含めて主人に返したが、他方は管理費を失わないように、ただ保管して資産を増やさなかった例をあげて、資産を増やした召し使いをほめ、カネをただ貯めこんでいただけの召し使いを非難したあとに、教訓として語った言葉です。主人は、後者から管理費を取り上げ、前者に与えるということです。
「持っている者は、さらに与えられ、持たない者は、持っているものまで取り上げられる」、というのは、厳しい言葉です。ただし、これは現実の経済問題だけでなく、霊的な意味も持っています。神の教えを与えられても、その教えを活用せず、ただ、自分の心の内にしまい込んでいる者は、神様から教えと共に与えられた恵みも取り上げられる、という意味です。
経済的には、多くの資産を与えられても、貯蓄だけに回し、世のために何ら支出をしなかったものは、やがて、その資産を取りあげられる、という意味になる。だから、カネを抱え込むだけでなく、さらに投資や開発などに使うべきだという意味にとって、さらに経済活動を活発にする人間は、資産倍増などの金銭的目的ではなく、世のために経済活動を活性化する目的であれば、この言葉に適っていることになる。欧米で資本主義が活性化した理由の一因になっている。
しかし、霊的には、神様から与えられた恵みを、自分だけのために持っている人間は、「人々を助けよ」という神様の精神に対する理解を持っていないことになる。神様から与えられた才能を、神様の教えに従って使わない者は、その才能を取り上げられることになる。逆に、神様から与えられた才能を活用して、世のためや人のために活動した者は、さらに才能を高められ、多くの幸運も与えられる。
例えば、ある若者が大学の神学部に進み牧師となったが、信仰は自分の生活を救うためだけに使い、神様の教えに従って、周囲の貧しい人を救おうとしなかった場合、神様はその若者から信仰による恵みも取り上げられる。また、美人に生まれた女性が、自分の魅力を自分の幸福のためだけに使い、周囲の不幸な人間を明るくするために自分の魅力を使わなければ、神様はその魅力も取り上げられる。
また、スポーツの才能を与えられた者も、自分の成功のためだけにその才能を使っていても、やがて、その才能はなくなる。しかし、世の中の人を励まし、勇気を与えるために、自分の才能を全力で伸ばす努力をしていれば、その才能はいくらでも伸びる。
学者も、その学問的才能を自分の社会的成功のためだけに使っていれば、やがて才能は失われ、無意味な人生を送る。しかし、学問を世のため、人のために役立てようと活動していれば、才能はなくならない。
問題は、利己的な意味で、与えられた幸運や才能を使ってはいけない、ということです。ただし、管理費を貯めこんだままにしておいた悪い召し使いのように、何もしない場合は、利己的な活動をする方より厳しく罰される。利己的な活動でも、その活動によって救われる他人もいる。ただし、その活動が人々に害を与える場合は、神様によってもっと厳しく罰される。
誰でも、神様から長所を与えられれている。何らかの才能や魅力を与えられている。それを、自分だけのものにしていてはいけない。神様への信仰や貧しい隣人のために、使わなければならない。利己的な生き方をしたものは、その長所も神様から取り上げられる。だから、キリスト教文化の欧米では、金持ちは慈善活動をし、芸術やスポーツでも、ファンとの交流を重んじる。
自分には運も、才能も、魅力もない、と考えるのは間違っている。神様は誰もに、必要な独自の運や、才能・魅力を与えている。他人を羨む必要はない。各人はそれぞれ独特の運、才能、魅力を与えられている。それに、気が付くのにも信仰心が必要です。これを、神様からの贈り物だと、欧米では言う。だから、gift from the God を持っているという言葉で、天才や美人を評し、彼らを褒めたたえる。そのギフトを発揮するのは、人間として正しいことをしていると考えている。
ただし、ここにも悪魔が入り込み、神様が与えられたギフトを発揮し、その力を伸ばすこと自体が、幸福なのに、それによって経済的、金銭的な代価を得ようという欲が芽生える者も多い。神様の与えられた任務を、悪魔のもたらす欲で汚すようなことになる。これでは、神様に罰されても仕方がない。悪い召使が、主人から与えられた管理費を、贅沢な生活のために使い、さらに、その生活を維持するために悪事の企てにカネを使うようなものです。
つまり、自分の才能や魅力で物質的な欲を満たすのではなく、神様への信仰を高め、隣人愛を実践するために、その才能や魅力を使うべきです。さもないと、最後は才能も無意味になり、魅力も失われる。
つまり、自分に与えられた才能や魅力を自覚し、なおかつ、清貧生活をすることが、誰もに求められている。
『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
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これは、イエス・キリストが、弟子にたとえ話をして、ある農園の主人が旅に出たときに、二人の召し使いに農園の管理を任せたと話したときの言葉です。その主人は、召使のそれぞれに管理費を与えたが、一人は農園の管理費を経済活動に活用して資産を増やし、主人が帰ったときに利益も含めて主人に返したが、他方は管理費を失わないように、ただ保管して資産を増やさなかった例をあげて、資産を増やした召し使いをほめ、カネをただ貯めこんでいただけの召し使いを非難したあとに、教訓として語った言葉です。主人は、後者から管理費を取り上げ、前者に与えるということです。
「持っている者は、さらに与えられ、持たない者は、持っているものまで取り上げられる」、というのは、厳しい言葉です。ただし、これは現実の経済問題だけでなく、霊的な意味も持っています。神の教えを与えられても、その教えを活用せず、ただ、自分の心の内にしまい込んでいる者は、神様から教えと共に与えられた恵みも取り上げられる、という意味です。
経済的には、多くの資産を与えられても、貯蓄だけに回し、世のために何ら支出をしなかったものは、やがて、その資産を取りあげられる、という意味になる。だから、カネを抱え込むだけでなく、さらに投資や開発などに使うべきだという意味にとって、さらに経済活動を活発にする人間は、資産倍増などの金銭的目的ではなく、世のために経済活動を活性化する目的であれば、この言葉に適っていることになる。欧米で資本主義が活性化した理由の一因になっている。
しかし、霊的には、神様から与えられた恵みを、自分だけのために持っている人間は、「人々を助けよ」という神様の精神に対する理解を持っていないことになる。神様から与えられた才能を、神様の教えに従って使わない者は、その才能を取り上げられることになる。逆に、神様から与えられた才能を活用して、世のためや人のために活動した者は、さらに才能を高められ、多くの幸運も与えられる。
例えば、ある若者が大学の神学部に進み牧師となったが、信仰は自分の生活を救うためだけに使い、神様の教えに従って、周囲の貧しい人を救おうとしなかった場合、神様はその若者から信仰による恵みも取り上げられる。また、美人に生まれた女性が、自分の魅力を自分の幸福のためだけに使い、周囲の不幸な人間を明るくするために自分の魅力を使わなければ、神様はその魅力も取り上げられる。
また、スポーツの才能を与えられた者も、自分の成功のためだけにその才能を使っていても、やがて、その才能はなくなる。しかし、世の中の人を励まし、勇気を与えるために、自分の才能を全力で伸ばす努力をしていれば、その才能はいくらでも伸びる。
学者も、その学問的才能を自分の社会的成功のためだけに使っていれば、やがて才能は失われ、無意味な人生を送る。しかし、学問を世のため、人のために役立てようと活動していれば、才能はなくならない。
問題は、利己的な意味で、与えられた幸運や才能を使ってはいけない、ということです。ただし、管理費を貯めこんだままにしておいた悪い召し使いのように、何もしない場合は、利己的な活動をする方より厳しく罰される。利己的な活動でも、その活動によって救われる他人もいる。ただし、その活動が人々に害を与える場合は、神様によってもっと厳しく罰される。
誰でも、神様から長所を与えられれている。何らかの才能や魅力を与えられている。それを、自分だけのものにしていてはいけない。神様への信仰や貧しい隣人のために、使わなければならない。利己的な生き方をしたものは、その長所も神様から取り上げられる。だから、キリスト教文化の欧米では、金持ちは慈善活動をし、芸術やスポーツでも、ファンとの交流を重んじる。
自分には運も、才能も、魅力もない、と考えるのは間違っている。神様は誰もに、必要な独自の運や、才能・魅力を与えている。他人を羨む必要はない。各人はそれぞれ独特の運、才能、魅力を与えられている。それに、気が付くのにも信仰心が必要です。これを、神様からの贈り物だと、欧米では言う。だから、gift from the God を持っているという言葉で、天才や美人を評し、彼らを褒めたたえる。そのギフトを発揮するのは、人間として正しいことをしていると考えている。
ただし、ここにも悪魔が入り込み、神様が与えられたギフトを発揮し、その力を伸ばすこと自体が、幸福なのに、それによって経済的、金銭的な代価を得ようという欲が芽生える者も多い。神様の与えられた任務を、悪魔のもたらす欲で汚すようなことになる。これでは、神様に罰されても仕方がない。悪い召使が、主人から与えられた管理費を、贅沢な生活のために使い、さらに、その生活を維持するために悪事の企てにカネを使うようなものです。
つまり、自分の才能や魅力で物質的な欲を満たすのではなく、神様への信仰を高め、隣人愛を実践するために、その才能や魅力を使うべきです。さもないと、最後は才能も無意味になり、魅力も失われる。
つまり、自分に与えられた才能や魅力を自覚し、なおかつ、清貧生活をすることが、誰もに求められている。
「だから、目をさましていなさい」 ― 2025/06/09 21:09
“Later the others also came. ‘Lord, Lord,’ they said, ‘open the door for us!'
But he replied, ‘Truly I tell you, I don’t know you.’ Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour."
「そのあとで、ほかの乙女たちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである。」(マタイによる福音書 12:11~13)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、10人の乙女が夜にそれぞれ灯りを手にして、彼女たちの主人の館で花婿を迎えるという、たとえ話をしたときに与えた教訓です。
その乙女たちのうちの5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であった。
思慮深い者たちは、自分たちの灯りと一緒に、さらに油を用意していたが、思慮の浅い者は余分の油を用意していなかった。しかし、花婿の到来が遅れて10人とも眠ってしまった。そして、夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。乙女たちは皆、起きて、それぞれ灯りを整えようとした。そこで、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油を私たちにわけてください。私たちの灯りが消えかかっていますから』と言った。そこで、思慮深い女たちは答えて言った、『私たちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。そこで、思慮の浅い女たちが 油を買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴の部屋にはいり、そして戸がしめられた。その後に、思慮の浅い者も帰ってきて 、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、戸を開けください』と言った。
しかし主人は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。
つまり、花婿を迎えるのに、灯りの油を十分に用意をしていなかった乙女たちは、婚宴の部屋に入れなかったという話です。いつ花婿が来るのかが分からないのに、十分な油の用意をしていなかった思慮の浅い乙女たちは、婚宴の館から締め出されたのです。
それと同じように、人々は、いつ神の子が来るか分からないのに、十分な精神的用意ができないでいると、神の子がこの世に来た時に、その恵みに与れない、という話しです。また、乙女たちのように眠ってはいけない、という警告です。いつ、神の子が来るか分からないので、十分な精神的用意をして、常に目覚めていよということです。
神の子、イエス・キリストは、パレスチナ周辺で、ローマ帝国のカエサルとエジプトの女王クレオパトラとのロマンスの後に、ローマ帝国がパレスチナのユダヤ人を支配し、ユダヤ人もローマの支配になれた頃に、突然として現れたのです。ローマ帝国と手を組んでいたユダヤ教の幹部も、自分たちの宗教の独自性よりも、ローマの支配を受け入れて、ユダヤ教徒を支配していた。そこに、ユダヤ教を立て直そうとして、神の子、イエス・キリストが何の前触れもなく出現した。ユダヤ教の教えを真摯に信じていた者は、イエス・キリストを受けいれる心の準備が出来ていたが、この世の利益ばかりを考えていた者は、イエス・キリストが理解できなかった。しかし、前者からキリスト教が生まれ、後者は自分たちの宗教解釈にこだわり、イエス・キリストを拒絶し、西暦70年頃にローマ軍と戦って、パレスチナを追われ、以後、約2千年間、世界をさ迷うことになる。
このイエスの教えは、その後のユダヤ教徒の運命を象徴している。第二次大戦の後まで、ユダヤ人は自分たちの国を持てなかった。しかし、第二次大戦後の1948年にアメリカなどの支持を得てイスラエルを建国したが、周辺のイスラム教徒たちとの争いは絶えない。
今は、再びイエス・キリストがこの世に出現する時が近いと言われている。しかし、人々は、物質文明に溺れて、霊的には眠っている状態です。一部の霊能者などは、常に警告を発してきたが、霊的に眠っている人々は、その警告を理解できない。ただ、危機を煽るものだと批判してきた。実際、21世紀になって自然災害が加速し、第三次世界大戦が近づいているのに、人々はこの世のことばかりに目を向けている。
20世紀以降の全ての問題は、人々の霊的な眠りに原因がある。イエスのいうように、目覚めて神様の教えに立ち返り、悪魔の広める拝金主義を拒絶し、神様への霊的な信仰を深め、隣人愛を実践すれば全ての問題は解決する。
さもなければ、神様から恵みを得られなくなる。神の国から締めだされ、死後も天国には受け入れてもらえない。霊界の闇の中に締め出される。最後は、地獄で悪魔の支配を受けることになる。
だから、思慮深い乙女のように、常に霊的な準備をし、霊的に目覚めていよ、とイエス・キリストは述べておられる。実際、霊的な信仰者は、現代の物質文明を嫌悪し、破滅が近いことを感じている。日本人も早く、聖書を読む習慣をつけるべきです。
But he replied, ‘Truly I tell you, I don’t know you.’ Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour."
「そのあとで、ほかの乙女たちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである。」(マタイによる福音書 12:11~13)
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これは、イエス・キリストが、10人の乙女が夜にそれぞれ灯りを手にして、彼女たちの主人の館で花婿を迎えるという、たとえ話をしたときに与えた教訓です。
その乙女たちのうちの5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であった。
思慮深い者たちは、自分たちの灯りと一緒に、さらに油を用意していたが、思慮の浅い者は余分の油を用意していなかった。しかし、花婿の到来が遅れて10人とも眠ってしまった。そして、夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。乙女たちは皆、起きて、それぞれ灯りを整えようとした。そこで、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油を私たちにわけてください。私たちの灯りが消えかかっていますから』と言った。そこで、思慮深い女たちは答えて言った、『私たちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。そこで、思慮の浅い女たちが 油を買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴の部屋にはいり、そして戸がしめられた。その後に、思慮の浅い者も帰ってきて 、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、戸を開けください』と言った。
しかし主人は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。
つまり、花婿を迎えるのに、灯りの油を十分に用意をしていなかった乙女たちは、婚宴の部屋に入れなかったという話です。いつ花婿が来るのかが分からないのに、十分な油の用意をしていなかった思慮の浅い乙女たちは、婚宴の館から締め出されたのです。
それと同じように、人々は、いつ神の子が来るか分からないのに、十分な精神的用意ができないでいると、神の子がこの世に来た時に、その恵みに与れない、という話しです。また、乙女たちのように眠ってはいけない、という警告です。いつ、神の子が来るか分からないので、十分な精神的用意をして、常に目覚めていよということです。
神の子、イエス・キリストは、パレスチナ周辺で、ローマ帝国のカエサルとエジプトの女王クレオパトラとのロマンスの後に、ローマ帝国がパレスチナのユダヤ人を支配し、ユダヤ人もローマの支配になれた頃に、突然として現れたのです。ローマ帝国と手を組んでいたユダヤ教の幹部も、自分たちの宗教の独自性よりも、ローマの支配を受け入れて、ユダヤ教徒を支配していた。そこに、ユダヤ教を立て直そうとして、神の子、イエス・キリストが何の前触れもなく出現した。ユダヤ教の教えを真摯に信じていた者は、イエス・キリストを受けいれる心の準備が出来ていたが、この世の利益ばかりを考えていた者は、イエス・キリストが理解できなかった。しかし、前者からキリスト教が生まれ、後者は自分たちの宗教解釈にこだわり、イエス・キリストを拒絶し、西暦70年頃にローマ軍と戦って、パレスチナを追われ、以後、約2千年間、世界をさ迷うことになる。
このイエスの教えは、その後のユダヤ教徒の運命を象徴している。第二次大戦の後まで、ユダヤ人は自分たちの国を持てなかった。しかし、第二次大戦後の1948年にアメリカなどの支持を得てイスラエルを建国したが、周辺のイスラム教徒たちとの争いは絶えない。
今は、再びイエス・キリストがこの世に出現する時が近いと言われている。しかし、人々は、物質文明に溺れて、霊的には眠っている状態です。一部の霊能者などは、常に警告を発してきたが、霊的に眠っている人々は、その警告を理解できない。ただ、危機を煽るものだと批判してきた。実際、21世紀になって自然災害が加速し、第三次世界大戦が近づいているのに、人々はこの世のことばかりに目を向けている。
20世紀以降の全ての問題は、人々の霊的な眠りに原因がある。イエスのいうように、目覚めて神様の教えに立ち返り、悪魔の広める拝金主義を拒絶し、神様への霊的な信仰を深め、隣人愛を実践すれば全ての問題は解決する。
さもなければ、神様から恵みを得られなくなる。神の国から締めだされ、死後も天国には受け入れてもらえない。霊界の闇の中に締め出される。最後は、地獄で悪魔の支配を受けることになる。
だから、思慮深い乙女のように、常に霊的な準備をし、霊的に目覚めていよ、とイエス・キリストは述べておられる。実際、霊的な信仰者は、現代の物質文明を嫌悪し、破滅が近いことを感じている。日本人も早く、聖書を読む習慣をつけるべきです。
「落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」 ― 2025/06/11 12:58
Other seed fell among thorns, which grew up and choked the plants. Still other seed fell on good soil, where it produced a crop—a hundred, sixty or thirty times what was sown. Whoever has ears, let them hear.”
「ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は、よく聞け。」(マルコによる福音書 4:7~9)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、人々と信仰の関係を弟子に説明したとき、植物の種にたとえて、人々の信仰の芽生えについて語ったときの言葉です。
(なお、種 (seed) は、英語では集合名刺として使われるときは、不可算名詞となり、seedsという複数形にはならない。)
信仰心が不毛の土地のような心に与えられても、心の欲望などが信仰心の成長を妨げるという警告です。しかし、良い心に例えられる豊かな土地に信仰の種がまかれると、種子はよく育って実をつけ、さらに何十倍もの信仰の種をもたらすということです。
即ち、悪魔の誘惑にも負けず、素直に神様を認める心の持ち主に、神様の教えが伝えられると、その教えが何十倍にも拡大して他の人々に伝えられる。これは、現在でもネット拡散という言葉で、情報の拡大が生じることと同じです。
2千年前には、ネットはなかったが、人から人に口コミで情報が伝わり、イエスの教えが広まっていったことを示してます。
重要なのは、人間には2種類の心がある、ということです。良い土地にたとえられる心の持ち主なら、イエスの教えを聞いて、それに従い、さらに、何十人もの周囲の人にイエスの教えを伝えることになる。悪い土地にたとえられる心の持ち主なら、イエスの教えは根付かない。さまざまな欲望や雑念、不安、悪だくみに心が占められ、正しい信仰心が育つことはない。あるいは、最初はイエスの教えに感激しても、やがて、雑草に例えられる欲念が生じて、心はイエスの教えを忘れれる。
あるいは、ちょっとした試練に会えば、イエスの教えを捨てて、悪魔に魂を売るようになる。いくらイエスの教えに従っても、金持ちにはなれない、と気づくと、直ぐにイエスの教えを軽蔑する者もいる。だから、キリスト教では忍耐の大事さを教える。
実際に、誰もがイエスの教えを受け入れ、守るわけではない。ここに、伝道の難しさがある。イエスの教えを拒絶する者は、欲を満たすにはカネが必要だ、カネを得るには悪魔に魂を売らなければならない、と信じて意識的に、又は、無意識的に悪魔に魂を売る。しかし、本人は正しいことをしていると信じているのだから、それをやめさせることはできない。そして、イエスの教えに従って、悪魔や拝金主義を拒絶するものを排斥し、攻撃する。さらに、悪魔を神だと信じる者も出てくる。そして、自分たちと同じように悪魔の教えを信じ、拝金主義にならない者を悪人だとして攻撃する。地獄の正義とは、神様に従う者を攻撃することだから、狂った世界になる。だから、現在の拝金主義の世の中は狂っている。ここに、この世での信仰の難しさがある。
しかし、イエス・キリストの教えや神様の教えを素直に受け入れる者は、悪魔に魂を売ることはない。神様の与えてくれるもので満足し、欲望に引き回されることはない。また、神様の教えと比べて、いかに悪魔の教えが狂っているかも理解できる。欲望のために心の目がふさがれた者は、狡猾な悪魔の悪だくみを見抜けないが、神様への純粋な信仰心を持った者は、悪魔の卑劣で狡猾な罠を見ぬくことができる。
そのような良い土地にたとえられる心を、人は持つように心がけねばならない。そのような心の持ち主が、イエスの教えに接した時に、自分の信仰心を何十倍にも拡大するような働きができる。また、歴史的にキリスト教は、そのような良い心を持った信者によって伝えられ、拡大してきたのです。
日本の新宗教は、そのように拡大することは稀です。荒野に信仰の種をまいても、栄養もなく、日照りや、悪天候の土地では、信仰の木は育たない。また、そもそも正しい信仰の種ではなく、毒草の種だったり、放射能を浴びている種だったり、遺伝子異常の種でれば、まともに育つこともない。だから、この世には無意味、無効果、又は、邪悪な宗教がはびころうとするが、長くは続かない。
宗教を選ぶなら、2千年近い実績のあるキリスト教が無難です。仏教も神道も邪教ではないが、それから派生したさまざまな宗派も歴史的な試練に耐えていることが必要です。
いずれにしても、心の問題、精神的問題は、心の基盤の霊の問題となる。しかし、人間には霊が見えないし、霊の善悪も分からない。それでも、心の正しい人間は良い霊を持っている。究極的には、全ての宗教的問題は、霊の問題になる。やはり、死後、霊界に入って霊格を高めることが必要です。そういう意味で、死は魂を高めるチャンスだと言える。死を恐れるべきではない。
それでも、この世で霊格を30倍、60倍、100倍に高めることができれば、死後は天国に近づく。
「ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は、よく聞け。」(マルコによる福音書 4:7~9)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、人々と信仰の関係を弟子に説明したとき、植物の種にたとえて、人々の信仰の芽生えについて語ったときの言葉です。
(なお、種 (seed) は、英語では集合名刺として使われるときは、不可算名詞となり、seedsという複数形にはならない。)
信仰心が不毛の土地のような心に与えられても、心の欲望などが信仰心の成長を妨げるという警告です。しかし、良い心に例えられる豊かな土地に信仰の種がまかれると、種子はよく育って実をつけ、さらに何十倍もの信仰の種をもたらすということです。
即ち、悪魔の誘惑にも負けず、素直に神様を認める心の持ち主に、神様の教えが伝えられると、その教えが何十倍にも拡大して他の人々に伝えられる。これは、現在でもネット拡散という言葉で、情報の拡大が生じることと同じです。
2千年前には、ネットはなかったが、人から人に口コミで情報が伝わり、イエスの教えが広まっていったことを示してます。
重要なのは、人間には2種類の心がある、ということです。良い土地にたとえられる心の持ち主なら、イエスの教えを聞いて、それに従い、さらに、何十人もの周囲の人にイエスの教えを伝えることになる。悪い土地にたとえられる心の持ち主なら、イエスの教えは根付かない。さまざまな欲望や雑念、不安、悪だくみに心が占められ、正しい信仰心が育つことはない。あるいは、最初はイエスの教えに感激しても、やがて、雑草に例えられる欲念が生じて、心はイエスの教えを忘れれる。
あるいは、ちょっとした試練に会えば、イエスの教えを捨てて、悪魔に魂を売るようになる。いくらイエスの教えに従っても、金持ちにはなれない、と気づくと、直ぐにイエスの教えを軽蔑する者もいる。だから、キリスト教では忍耐の大事さを教える。
実際に、誰もがイエスの教えを受け入れ、守るわけではない。ここに、伝道の難しさがある。イエスの教えを拒絶する者は、欲を満たすにはカネが必要だ、カネを得るには悪魔に魂を売らなければならない、と信じて意識的に、又は、無意識的に悪魔に魂を売る。しかし、本人は正しいことをしていると信じているのだから、それをやめさせることはできない。そして、イエスの教えに従って、悪魔や拝金主義を拒絶するものを排斥し、攻撃する。さらに、悪魔を神だと信じる者も出てくる。そして、自分たちと同じように悪魔の教えを信じ、拝金主義にならない者を悪人だとして攻撃する。地獄の正義とは、神様に従う者を攻撃することだから、狂った世界になる。だから、現在の拝金主義の世の中は狂っている。ここに、この世での信仰の難しさがある。
しかし、イエス・キリストの教えや神様の教えを素直に受け入れる者は、悪魔に魂を売ることはない。神様の与えてくれるもので満足し、欲望に引き回されることはない。また、神様の教えと比べて、いかに悪魔の教えが狂っているかも理解できる。欲望のために心の目がふさがれた者は、狡猾な悪魔の悪だくみを見抜けないが、神様への純粋な信仰心を持った者は、悪魔の卑劣で狡猾な罠を見ぬくことができる。
そのような良い土地にたとえられる心を、人は持つように心がけねばならない。そのような心の持ち主が、イエスの教えに接した時に、自分の信仰心を何十倍にも拡大するような働きができる。また、歴史的にキリスト教は、そのような良い心を持った信者によって伝えられ、拡大してきたのです。
日本の新宗教は、そのように拡大することは稀です。荒野に信仰の種をまいても、栄養もなく、日照りや、悪天候の土地では、信仰の木は育たない。また、そもそも正しい信仰の種ではなく、毒草の種だったり、放射能を浴びている種だったり、遺伝子異常の種でれば、まともに育つこともない。だから、この世には無意味、無効果、又は、邪悪な宗教がはびころうとするが、長くは続かない。
宗教を選ぶなら、2千年近い実績のあるキリスト教が無難です。仏教も神道も邪教ではないが、それから派生したさまざまな宗派も歴史的な試練に耐えていることが必要です。
いずれにしても、心の問題、精神的問題は、心の基盤の霊の問題となる。しかし、人間には霊が見えないし、霊の善悪も分からない。それでも、心の正しい人間は良い霊を持っている。究極的には、全ての宗教的問題は、霊の問題になる。やはり、死後、霊界に入って霊格を高めることが必要です。そういう意味で、死は魂を高めるチャンスだと言える。死を恐れるべきではない。
それでも、この世で霊格を30倍、60倍、100倍に高めることができれば、死後は天国に近づく。
「信ずる者には、どんな事でもできる。」 ― 2025/06/12 22:38
“‘If you can’?” said Jesus. “Everything is possible for one who believes.”
イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。(マルコによる福音書 9:23)
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これは、息子に悪霊が取り付いて、その子を殺そうとしているのに悩んだ父親が、イエス・キリストに助けを求めたときの、イエスの言葉です。もし、できれば息子を悪霊から救ってくれという、親の願いにイエスは、信仰心があれば悪霊を追い出すことができると述べたのです。
要するに、神様への信仰心があれば、人はこの世で願ったことはかなうという、イエスの教えです。
人間に悪霊が取り付いて、その命を取ろうとする、ということは2千年前の人々には信じられていた。悪霊には勝てない、という思いが強かった。この世には、さまざまな霊が働いているのは常識だった。しかし、神様への強い信仰心があれば、悪霊にも勝てるということをイエスは教えたのです。
現在では、霊の存在を信じない人も多いし、霊を考えるなどということは、迷信だと考えるのが普通です。しかし、現代科学でも人の心や意識などの実態は分かっていない。精神医学も精神に作用する薬物や精神状態の解明だけしかできない。精神の発生メカニズムなどは分かっていない。精神現象の研究しかできていない。科学的研究を行っても、心自体は説明できない。心や精神は科学的手法ではなく、霊的理解に基づく直観的な悟りを通して把握できるものです。科学以前の問題です。
そして、心を生み出す霊の存在を認めれば、この世の向こうに霊界が存在することが分かる。物質文明がまだ発展していない時代には、多くの人が直観によって霊の存在を信じていた。それだけ、人の心は外界ではなく心の中に向いていた。言葉には表せなくても、悟りのレベルに達した人も多かった。心は霊から発しており、霊が生命の源だということは多くの人が感じていた。霊を認めない科学では、このレベルに達しない。
しかし、霊には善霊だけでなく、悪霊もいる。神の霊もあれば、悪魔の霊もある。そして、善霊につながっていれば、人は安全だが、悪霊に支配されると苦しめられる。人間の精神文化は、このような心の問題を直視することから生まれ、善霊を求めて宗教という活動などが生まれた。人の心を支配する霊的存在というものは、物質文明が発展する以前は、当然のこととして認められていた。だから、古典文学などは、その意識がないと理解できない。
聖書も古典文学作品と考えれば、霊的な存在を認めなければ理解できない。現代科学や技術が発展する以前の、人々がもっと心の問題を重視していた時代の話しなのです。
また、科学的に物質世界を研究しても、最後には科学的手法では理解できない現象にぶつかる。宇宙の発生や人間精神の発生などは、霊的な理解がないと解明できない。また、科学的には説明できない現象も存在する。物質文明は万能ではない。
そこで、心霊主義や宗教が重視されるようになる。霊的な問題が、この世で満たされない生活、精神、心の問題に関わっていることに気が付く人も出ている。しかし、物質的幸福を達成するには、科学・技術に基づく現代物質文明では、カネが必要だという拝金主義が主流になる。宗教活動や精神活動は、むしろ軽んじられれている。精神的問題もカネで解決しようとする。だから、根本的な解決はできない。
しかし、この世は霊界から生じ、この世でも霊的な力が働くということを知っていたイエスは、神様への信仰心によって、誰でも霊的な力を得て、この世の問題を解決できることが分かっていた。人に取り付く悪魔ですら、そのような信仰心で退けることができる。これが、イエス・キリストの教えなのです。実際、人が願うのは幸福ですが、霊的な力がなければ、本当の幸福は得られない。そして、霊能力によって、幸福が得られば、人は全てがかなったとして満足する。
この世の不幸は、大部分が悪魔によって引き起こされたものです。現代物質文明になれた現代人には理解できないが、霊的な修業や霊的信仰心によって、悪魔に打ち勝ち、不幸な状態から解放される。それを信じるのが、本来のキリスト教です。
イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。(マルコによる福音書 9:23)
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これは、息子に悪霊が取り付いて、その子を殺そうとしているのに悩んだ父親が、イエス・キリストに助けを求めたときの、イエスの言葉です。もし、できれば息子を悪霊から救ってくれという、親の願いにイエスは、信仰心があれば悪霊を追い出すことができると述べたのです。
要するに、神様への信仰心があれば、人はこの世で願ったことはかなうという、イエスの教えです。
人間に悪霊が取り付いて、その命を取ろうとする、ということは2千年前の人々には信じられていた。悪霊には勝てない、という思いが強かった。この世には、さまざまな霊が働いているのは常識だった。しかし、神様への強い信仰心があれば、悪霊にも勝てるということをイエスは教えたのです。
現在では、霊の存在を信じない人も多いし、霊を考えるなどということは、迷信だと考えるのが普通です。しかし、現代科学でも人の心や意識などの実態は分かっていない。精神医学も精神に作用する薬物や精神状態の解明だけしかできない。精神の発生メカニズムなどは分かっていない。精神現象の研究しかできていない。科学的研究を行っても、心自体は説明できない。心や精神は科学的手法ではなく、霊的理解に基づく直観的な悟りを通して把握できるものです。科学以前の問題です。
そして、心を生み出す霊の存在を認めれば、この世の向こうに霊界が存在することが分かる。物質文明がまだ発展していない時代には、多くの人が直観によって霊の存在を信じていた。それだけ、人の心は外界ではなく心の中に向いていた。言葉には表せなくても、悟りのレベルに達した人も多かった。心は霊から発しており、霊が生命の源だということは多くの人が感じていた。霊を認めない科学では、このレベルに達しない。
しかし、霊には善霊だけでなく、悪霊もいる。神の霊もあれば、悪魔の霊もある。そして、善霊につながっていれば、人は安全だが、悪霊に支配されると苦しめられる。人間の精神文化は、このような心の問題を直視することから生まれ、善霊を求めて宗教という活動などが生まれた。人の心を支配する霊的存在というものは、物質文明が発展する以前は、当然のこととして認められていた。だから、古典文学などは、その意識がないと理解できない。
聖書も古典文学作品と考えれば、霊的な存在を認めなければ理解できない。現代科学や技術が発展する以前の、人々がもっと心の問題を重視していた時代の話しなのです。
また、科学的に物質世界を研究しても、最後には科学的手法では理解できない現象にぶつかる。宇宙の発生や人間精神の発生などは、霊的な理解がないと解明できない。また、科学的には説明できない現象も存在する。物質文明は万能ではない。
そこで、心霊主義や宗教が重視されるようになる。霊的な問題が、この世で満たされない生活、精神、心の問題に関わっていることに気が付く人も出ている。しかし、物質的幸福を達成するには、科学・技術に基づく現代物質文明では、カネが必要だという拝金主義が主流になる。宗教活動や精神活動は、むしろ軽んじられれている。精神的問題もカネで解決しようとする。だから、根本的な解決はできない。
しかし、この世は霊界から生じ、この世でも霊的な力が働くということを知っていたイエスは、神様への信仰心によって、誰でも霊的な力を得て、この世の問題を解決できることが分かっていた。人に取り付く悪魔ですら、そのような信仰心で退けることができる。これが、イエス・キリストの教えなのです。実際、人が願うのは幸福ですが、霊的な力がなければ、本当の幸福は得られない。そして、霊能力によって、幸福が得られば、人は全てがかなったとして満足する。
この世の不幸は、大部分が悪魔によって引き起こされたものです。現代物質文明になれた現代人には理解できないが、霊的な修業や霊的信仰心によって、悪魔に打ち勝ち、不幸な状態から解放される。それを信じるのが、本来のキリスト教です。
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