「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」2025/05/01 13:59

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。(マタイによる福音書 17:5)

While he was still speaking, a bright cloud covered them, and a voice from the cloud said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”

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これは、神様がイエス・キリストを自分の子だと認める場面です。だから、イエスは神様の子だとされている。

しかし、世の中には、神様は自分の心の中にいる、神様と自分は一体だ、自分は神様の一部だなどと言う教祖や、人間の心の中に神様はいるなどとする教えがある。これは、誤解をもたらす表現です。神様は、ご自分が作られた人間の中にいる必要はないし、有限の人間の心が無限以上の神様を入れることはできない。むしろ、人間の心に入り込むのは悪魔です。このような教えは悪魔の教えに近い。

人間の心(魂)は、神様とつながることは出来るが、人間の心の中に神様がいるわけではない。神様のおられる神界、天界と人間の生きている、この世とは大きく隔たっている。

それでも、神様は、御自分が作られた人間を救うために、ご自分の子のイエス・キリストを、人間の中に送られた。それほど、神様は人間を愛しておられるということです。その神様の愛を実現するのが、イエスの任務です。だから、イエスの教えは愛の宗教だと言われる。その愛に反感を覚え、反抗するのが悪魔です。神様は善であり、悪魔は悪だというのが基本です。

もし、悪魔が霊界もこの世も支配していれば、世界には、建前だけでも善は存在せず、悪が称賛され、悪が常識となり、闇の世界となります。

ただし、善の神様が作られた霊界やこの世では、霊や人間は本能的に善の価値を認め、悪を嫌うものです。しかし、悪魔は霊界にもこの世にも入り込み、人間の欲望を掻き立て、あるいは、生活の必要だとしてカネや富を求めさせ、悪魔にその魂を売らせるのです。

神様は、全知全能かつ全善だとされている。だから、生死と善は神様が関わる問題であり、まともな宗教は、生死と善悪を扱うものです。死を恐れるように、悪を恐れるのが人間なのです。

この世で、善を追求し実現することが人間には求められており、その教えに従った善人は霊界でも上位に挙げられ、神の国や天国に近づく。

さらに、貧富の問題がある。隣人愛のある人間は、自分より貧しい人間を無視して、金持ちになることはできない。神様は、隣人を自分のように愛せ、と命じておられる。この教えに従うことが善であり、隣人より金持ちになることは、信仰者にはできない。従って、信仰者は誰よりも貧しくなければならない。世界に自分より貧しい人間がいなくなったときに、始めてカネを求めることが許される。少なくとも、それが、本当の隣人愛だということは、それが出来なくても、理解していなければならない。

つまり、「生死」、「善悪」、「貧富」の問題が、本当の宗教の対象だということになる。

今のキリスト教は、この点で不十分であり、他の宗教では、こういう問題意識すら曖昧です。だから、霊的なキリスト教、イエス・キリストの本来のキリスト教が必要なのです。

本当のキリスト教は、貧しさを称賛する宗教なのです。

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