「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.) ― 2025/07/03 21:22
Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストの弟子たちへの説教です。
人は、まず当然のことのように自分を愛する。自分が一番可愛い、自分をほめてやりたい、自分にほうびを与えたい。これは、自然な感情です。その次には、自分の家族、親族、そして恩人となる。しかし、自分の友のために、自分の命を捨てるような人間は、滅多にいない。しかし、イエスは、神様への愛や、自分への愛よりも、友のために自分の命を捨てることほど大きな愛はないと仰っている。
そして、イエスは自分の言葉を実行する者は、自分の友だと言っておられる。神の子、イエスの友だということは、神様の友にもなる。神様というのは、はるかな高みにおられ、低く卑しい位置の人間には仰ぎ見るだけの存在だったのが、イエスを通して友になる。
神の子、イエスや、神様のために、自分の命を捨てることができれば、神様の友にもなれる。神様は、全知全能かつ全善のお方です。神様は悪魔から人間を守って下さるお方です。この世の不幸の源の悪魔から守ってもらえれば、人間には怖いものはない。超能力や霊能力で、この世の不幸を克服する以上の威力を得ることができる。これほど有難い教えはない。
世の中には、神は自分の心の中にいる、と考えるものもいるが、これは危険な考えです。無限の神様が、有限の人間の中にいるというのは、矛盾している。人間は、その心を通して神様とつながることが出来るというのが正しい。有限は、無限の一部となる。しかし、有限はイコール無限ではない。人間は、神ではない。
この意味で、イエスが神の子だというのは、意味が深い。イエスは、自分は神様だとは言っていない。
このような神学的議論の前に、この世でも、人が友のために命を捨てるというのは、滅多にできることではない。まず、友を作るということが難しい。逆に、世の中には偽りの友や、裏切りの友、友の仮面をかぶった悪魔、危険な友、心の中では人をバカにする友、その場限りの便宜上の友、勘違いの友などが多い。真の霊的な信仰心のない人間は、人の友にはなれない。
それでも、魂のレベルで相手を敬愛することができれば、真の友となる。この世だけの付き合いではなく、霊界での関係にかかわる、友情と言うものは。
霊界ということは、死後の世界ということです。真の友情とは、この世の利害関係を超えて、死後の世界にまで関わるものです。だから、友のために、この世の命を捨てることに意味がある。霊は、この世では死なないが、友情はあの世でも生き続ける。イエスは、霊的な世界を見据えて語っている。
ただし、友情というものは強制されるものではない。相手の魂との共鳴です。それでも、自然な情だけでなく、この世と霊界に関わる客観的な判断がついて回る。恋は盲目だが、友情は盲目ではない。この世の損得という意味ではなく、霊的な正邪の判断も付いて回る。悪魔の手下になったような人間と友になるものはいない。
神の子、イエスとつながるような人間を友にすれば、自分の命などは問題ではなくなる。なぜなら、死後の霊界で神様やイエス・キリストに救われるのが確実になるからです。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)
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これは、イエス・キリストの弟子たちへの説教です。
人は、まず当然のことのように自分を愛する。自分が一番可愛い、自分をほめてやりたい、自分にほうびを与えたい。これは、自然な感情です。その次には、自分の家族、親族、そして恩人となる。しかし、自分の友のために、自分の命を捨てるような人間は、滅多にいない。しかし、イエスは、神様への愛や、自分への愛よりも、友のために自分の命を捨てることほど大きな愛はないと仰っている。
そして、イエスは自分の言葉を実行する者は、自分の友だと言っておられる。神の子、イエスの友だということは、神様の友にもなる。神様というのは、はるかな高みにおられ、低く卑しい位置の人間には仰ぎ見るだけの存在だったのが、イエスを通して友になる。
神の子、イエスや、神様のために、自分の命を捨てることができれば、神様の友にもなれる。神様は、全知全能かつ全善のお方です。神様は悪魔から人間を守って下さるお方です。この世の不幸の源の悪魔から守ってもらえれば、人間には怖いものはない。超能力や霊能力で、この世の不幸を克服する以上の威力を得ることができる。これほど有難い教えはない。
世の中には、神は自分の心の中にいる、と考えるものもいるが、これは危険な考えです。無限の神様が、有限の人間の中にいるというのは、矛盾している。人間は、その心を通して神様とつながることが出来るというのが正しい。有限は、無限の一部となる。しかし、有限はイコール無限ではない。人間は、神ではない。
この意味で、イエスが神の子だというのは、意味が深い。イエスは、自分は神様だとは言っていない。
このような神学的議論の前に、この世でも、人が友のために命を捨てるというのは、滅多にできることではない。まず、友を作るということが難しい。逆に、世の中には偽りの友や、裏切りの友、友の仮面をかぶった悪魔、危険な友、心の中では人をバカにする友、その場限りの便宜上の友、勘違いの友などが多い。真の霊的な信仰心のない人間は、人の友にはなれない。
それでも、魂のレベルで相手を敬愛することができれば、真の友となる。この世だけの付き合いではなく、霊界での関係にかかわる、友情と言うものは。
霊界ということは、死後の世界ということです。真の友情とは、この世の利害関係を超えて、死後の世界にまで関わるものです。だから、友のために、この世の命を捨てることに意味がある。霊は、この世では死なないが、友情はあの世でも生き続ける。イエスは、霊的な世界を見据えて語っている。
ただし、友情というものは強制されるものではない。相手の魂との共鳴です。それでも、自然な情だけでなく、この世と霊界に関わる客観的な判断がついて回る。恋は盲目だが、友情は盲目ではない。この世の損得という意味ではなく、霊的な正邪の判断も付いて回る。悪魔の手下になったような人間と友になるものはいない。
神の子、イエスとつながるような人間を友にすれば、自分の命などは問題ではなくなる。なぜなら、死後の霊界で神様やイエス・キリストに救われるのが確実になるからです。
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