「サタンよ、引きさがれ」 (マタイによる福音書 第 16 章) “Get behind me, Satan! )" ― 2026/04/18 16:17
22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
+++ +++ +++
イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マタイによる福音書 第 16 章)
22 Peter took him aside and began to rebuke him. “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!”
23 Jesus turned and said to Peter, “Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
24 Then Jesus said to his disciples, “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 25 For whoever wants to save their life[f] will lose it, but whoever loses their life for me will find it. 26 What good will it be for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? Or what can anyone give in exchange for their soul? 27 For the Son of Man is going to come in his Father’s glory with his angels, and then he will reward each person according to what they have done.
28 “Truly I tell you, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom.”
+++ +++ +++
イエス・キリストが、弟子の中でも最も近い位置におり、初代法王と言われるペテロに「「サタンよ、引きさがれ」と言われたことは、衝撃的な出来事です。
その理由は、イエスがこれからユダヤ教の幹部たちに逮捕され、殺害され、そして、3日後に蘇ると予言されたことに対してペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったからです。
イエスの予言は、神様の定めに従うという気持ちから発された言葉です。それを、素直に受け入れることが信者には求められている。しかし、悪魔の霊がペテロに入って、それを否定したことをイエスは見抜いたのです。
そして、イエスについてきたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」イエスに従うべきだと述べられた。十字架を背負って生きるということは、死刑に使われる十字架を常に背負って生きろということです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」というイエスの言葉は、イエスの教えが、この世の幸福のためではなく、死後の霊界につながるものだということを示している。むしろ、この世での幸福を願い、この世の生に執着する者は、かえって、この世の生や霊界での命を失うことになると警告されている。
つまり、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と述べ、この世の権力や富が、自分の命と比べれば、無に等しいことを教えられたのです。しかし、悪魔はこの世の権力や富を求める心を掻き立て、この世の物質的な成功、幸福を求めさせる。そして、それらを得るためには、悪魔に魂を売らせようとさせる。そのようにして、悪魔は人々の心を神様への愛と信仰から遠ざける。つまり。人々は悪魔の教えに従って、神様の教えよりも、悪魔の教えに従おうとする。
そのような、悪魔の罠に陥らないようにイエス・キリストは警告されたのです。
無実の罪で逮捕され、十字架上で刑死しなければ、イエス・キリストは直ちに、宗教的な成功者として、この世の称賛を受けて、今のローマ法王のように権力も問も得られることになるが、それでは、悪魔に対する戦いにはならない。悪魔に勝つには、イエス・キリストはそのように刑死し、その後に霊的な力で蘇り、その霊力を示し、悪魔の力など及ばない強力な存在だが、愛と平和のために、死を受け入れたことを示す必要があったのです。信者たちに模範を示すためです。悪魔と力で戦ってはならないという教えです。
霊界で生きるイエス・キリストは、再び、この世に姿を現して、神様の「御国の力をもって来る」と語っている。イエス・キリストの再来は約束されているのです。そして、イエス・キリストが再来するまで、「死を味わわない者が、ここに立っている」と不思議な言葉を述べておられる。
これは、イエス・キリストの十字架上の死後、死から蘇り、弟子たちの信仰心を強め、イエス・キリストの教えを強く伝えるようになるまでは、この世で生き続けるという意味であれば、初期教会の興隆を予言している意味にもなる。
実際、イエス・キリストの死後、彼の教えはパレスチナからローマ帝国内に広まり、全ヨーロッパ、そして世界中へと普及していったのです。神様やイエス・キリストの教えの普及を阻害しようした悪魔は敗北したのです。
今でも、一人の人間が神様やイエス・キリストの教えを受け入れることは、イエス・キリストが悪魔との戦いに勝ったことを意味するのです。個人の信仰心が、神様と悪魔の戦いを象徴しているのです。だから、十字架を背負って、この世の成功や幸福に惑わされずに、死後の霊界にも通じる神様の教えや、イエス・キリストの言葉に従うことが、全人類の一人一人に求められているのです。
「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」 (マルコによる福音書 第 9 章) (“Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”) ― 2026/04/17 13:42
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。(マルコによる福音書 第 9 章)
33 They came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, “What were you arguing about on the road?” 34 But they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest.
35 Sitting down, Jesus called the Twelve and said, “Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”
36 He took a little child whom he placed among them. Taking the child in his arms, he said to them, 37 “Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me.”
+++ +++ +++
人間は、優越、好悪、損得の感情に縛られて生きている。どんな、人間でも他人と比べて優越感か劣等感を抱き、人に対して好き嫌いがあり、また、必ず自分の損得を考えて他人と接する。これは、身分、貧富、強弱、賢愚、聖俗に関係なく、誰もが持つ感情です。
イエス・キリストの弟子たちも、互いに優越感を競い、誰が一番信仰心があり、誰が一番優れているかについて争っていたということです。信仰者は誰が一番、神様に評価されいるかが気になる者です。しかし、真実の信仰は自分のプライドを捨て去ることから始まるのです。
実際、人間の信仰心は表面上、外見上は他人には分からない。一番、弁舌が優れているからといって、一番信仰心が高いとはいえない。欧米では、上手な説教をする人間が高く評価されるが、説教の優れた牧師や神父が高い信仰心を持っていることにはならない。ましてや、教会で地位や肩書が高いからといいって、優れた信仰心を持っていることにはならない。
カトリックではローマ法王の地位が一番高く、信者や人類を代表して神様と接触できるとされていて、最も信仰心の高い人物とされているが、神様の眼にどのように映っているかは、人間には分からない。また、最も大きな寄付をした人間の信仰心が一番高いとされることもあるが、その人間の本当の信仰心は神様や天使、また、本人にしか分からない。
宗教団体で、最も地位の低い人間が、最も純粋で強い信仰心を持っていることも多い。だから、イエス・キリストは、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」とそのような優越心を諫めたのです。
イエスの教えでは、最も地位の高い者は、みんなの召し使いにならなければならない。日本でも、権力のある役人や政治家は「公僕」として、市民に仕えることが理想だとされている。だから、彼らは公の席ではヘリ下った言葉を使う。また、仏教界でも名僧や高僧は、謙虚さを示し、寺の下僕のような低姿勢を示すことが多い。つまり、組織のリーダーは組織の最低の人間のように皆の召し使いとならなければならない。これは、キリスト教の布教によって、世界に広まった考えです。
しかし、悪魔は人間の欲望を刺激し、優越、好悪、損得の感情で他人を差別し、自分だけは得をし、高い地位を得て、気に入らない者は排斥させようとする。悪魔の影響下のこの世では、優越、好悪、損得の感情に従って、人間同士が互いに争っている。だから、出世競争があり、章を競って互いに争い、また、利己的な利益の追求がやまない。人々を互いに競わせて、争わせ、悪魔はそれを見て喜び、神様、天使、イエス・キリストや聖母はあきれ、また、悲しんでいるのです。この世での敗者は、霊界では勝者なのです。
上辺だけの謙虚さではなく、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」というのが、神様の教えであり、イエス・キリストの教えなのです。
愛と信仰心があれば、他人をそのような感情で差別することなくなる。また、死後の霊界では、生きている間の地位や肩書、貧富の差や外見の美醜などは意味をもたない。真実の信仰心だけが、評価されるのが霊界です。
だから、この世のエリートや富裕層は霊界ではむしろ、低い地位におかれる。この世では、貧しく、軽んじられていた者が、その純粋な信仰心によって霊界では天国に近い位置に上げられることは多い。
この世の、悪魔に影響された価値観にまだ縛れていない幼児は、イエスの愛と信仰心を感じ、それを見抜き、イエス・キリストを受け入れるが、
それは、神様を受けいることなのです。
幼児の前で、エリートや富裕層がいばっても、幼児はその姿が滑稽だと感じで笑うだけです、しかし、イエス・キリストの信仰者は、彼らの背後に悪魔を見て警戒しなければならない。そして、神様の与える愛と真理が世の中を支配し、人間が受け入れることを願わなければならない。さもなければ、世の中は悪魔の手先ばかりとない、人類は自滅し、それを見て悪魔が喜ぶという、救いようのない世界になる。
その狂気や悲劇から人間を救うのが、イエス・キリストの説いた神差への愛と信仰心なのです。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。(マルコによる福音書 第 9 章)
33 They came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, “What were you arguing about on the road?” 34 But they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest.
35 Sitting down, Jesus called the Twelve and said, “Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.”
36 He took a little child whom he placed among them. Taking the child in his arms, he said to them, 37 “Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me.”
+++ +++ +++
人間は、優越、好悪、損得の感情に縛られて生きている。どんな、人間でも他人と比べて優越感か劣等感を抱き、人に対して好き嫌いがあり、また、必ず自分の損得を考えて他人と接する。これは、身分、貧富、強弱、賢愚、聖俗に関係なく、誰もが持つ感情です。
イエス・キリストの弟子たちも、互いに優越感を競い、誰が一番信仰心があり、誰が一番優れているかについて争っていたということです。信仰者は誰が一番、神様に評価されいるかが気になる者です。しかし、真実の信仰は自分のプライドを捨て去ることから始まるのです。
実際、人間の信仰心は表面上、外見上は他人には分からない。一番、弁舌が優れているからといって、一番信仰心が高いとはいえない。欧米では、上手な説教をする人間が高く評価されるが、説教の優れた牧師や神父が高い信仰心を持っていることにはならない。ましてや、教会で地位や肩書が高いからといいって、優れた信仰心を持っていることにはならない。
カトリックではローマ法王の地位が一番高く、信者や人類を代表して神様と接触できるとされていて、最も信仰心の高い人物とされているが、神様の眼にどのように映っているかは、人間には分からない。また、最も大きな寄付をした人間の信仰心が一番高いとされることもあるが、その人間の本当の信仰心は神様や天使、また、本人にしか分からない。
宗教団体で、最も地位の低い人間が、最も純粋で強い信仰心を持っていることも多い。だから、イエス・キリストは、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」とそのような優越心を諫めたのです。
イエスの教えでは、最も地位の高い者は、みんなの召し使いにならなければならない。日本でも、権力のある役人や政治家は「公僕」として、市民に仕えることが理想だとされている。だから、彼らは公の席ではヘリ下った言葉を使う。また、仏教界でも名僧や高僧は、謙虚さを示し、寺の下僕のような低姿勢を示すことが多い。つまり、組織のリーダーは組織の最低の人間のように皆の召し使いとならなければならない。これは、キリスト教の布教によって、世界に広まった考えです。
しかし、悪魔は人間の欲望を刺激し、優越、好悪、損得の感情で他人を差別し、自分だけは得をし、高い地位を得て、気に入らない者は排斥させようとする。悪魔の影響下のこの世では、優越、好悪、損得の感情に従って、人間同士が互いに争っている。だから、出世競争があり、章を競って互いに争い、また、利己的な利益の追求がやまない。人々を互いに競わせて、争わせ、悪魔はそれを見て喜び、神様、天使、イエス・キリストや聖母はあきれ、また、悲しんでいるのです。この世での敗者は、霊界では勝者なのです。
上辺だけの謙虚さではなく、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」というのが、神様の教えであり、イエス・キリストの教えなのです。
愛と信仰心があれば、他人をそのような感情で差別することなくなる。また、死後の霊界では、生きている間の地位や肩書、貧富の差や外見の美醜などは意味をもたない。真実の信仰心だけが、評価されるのが霊界です。
だから、この世のエリートや富裕層は霊界ではむしろ、低い地位におかれる。この世では、貧しく、軽んじられていた者が、その純粋な信仰心によって霊界では天国に近い位置に上げられることは多い。
この世の、悪魔に影響された価値観にまだ縛れていない幼児は、イエスの愛と信仰心を感じ、それを見抜き、イエス・キリストを受け入れるが、
それは、神様を受けいることなのです。
幼児の前で、エリートや富裕層がいばっても、幼児はその姿が滑稽だと感じで笑うだけです、しかし、イエス・キリストの信仰者は、彼らの背後に悪魔を見て警戒しなければならない。そして、神様の与える愛と真理が世の中を支配し、人間が受け入れることを願わなければならない。さもなければ、世の中は悪魔の手先ばかりとない、人類は自滅し、それを見て悪魔が喜ぶという、救いようのない世界になる。
その狂気や悲劇から人間を救うのが、イエス・キリストの説いた神差への愛と信仰心なのです。
「生ける水が川となって流れ出るであろう」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (rivers of living water will flow from within them) ― 2026/04/14 08:19
37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
37 On the last and greatest day of the festival, Jesus stood and said in a loud voice, “Let anyone who is thirsty come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as Scripture has said, rivers of living water will flow from within them.”[c] 39 By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.
40 On hearing his words, some of the people said, “Surely this man is the Prophet.”
41 Others said, “He is the Messiah.”
Still others asked, “How can the Messiah come from Galilee? 42 Does not Scripture say that the Messiah will come from David’s descendants and from Bethlehem, the town where David lived?” 43 Thus the people were divided because of Jesus.
+++ +++ +++
イエス・キリストがユダヤ人の間で行った説教の様子が聖書に書かれている。
「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と仰り、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」というのは、霊的な教えです。霊的な欲求というのは、生きている人間にとって必須の水のようなものなのです。それが、信者の身体の中から流れ出るようになると言われている。霊的な力が、信者の体から流れ出るということです。肉体が霊体になるということでもあります。
イエスの信者は、霊体となって、身体から霊的なエネルギーが流れ出るという、霊的な真実を述べておられるのです。
肉体は、物質界に属しているが、霊は霊界に属しており、肉体の超えた力を発揮する。この世の病にもならず、物質的な制約をこえて生きる。霊の水は命を与えるものなので、身体から命がほとばしるということになる。水分の満ちた植物が瑞々しく生命にあふれるように、霊的な力によって人間の生命力は強められ、物質的な体の生命力も強められるのです。肉体の強さをこえた、霊的な強さが人間を生かすのです。
これは、霊界のエネルギーを使って、神様は物質界を造られたということを示している。そして、物質である人間の身体も霊的なエネルギーによって生かされるのです。死後は、身体から霊的なエネルギーが解放され、霊界で人間の霊は生き生きと生きるのです。肉体という制約の中では、霊はその本来の力を十分に発揮することはできない。しかし、肉体的な制約を受けない形で霊を身体の中に持っている者は、霊能者としての力を発揮する。だから、そのような霊能者は、霊的エネルギーを発揮することで、宗教の教祖になったりする。神様の子のイエス・キリストも霊能者だったのです。
しかし、物質界の現象に目をくらまされ、精神的、霊的な現象が見えない、感じられない人間もいる。彼らには、光が見えず、闇の世界を生きているようなものです。愛と真理の光が見えない人間は、この世の闇を生きているようなものです。これは、人によって感受力が異なるので、愛に満ちた生活を送る人間の満足感や充足感は、感受力のない人間には感じれない。英術的な鑑賞力のない人間には、名画も名曲も理解できない。ただ、物質的な力しか理解できない人間には、物欲の織り成す世界しか理解できない。だから、霊的な宗教者は、そのような人間とは全く異なる世界を見、感じることができる。だから、いくら説明しても、理解できない人間には理解できない。人を説得することはむつかしい。その人間に、霊的な感受力が無ければ、霊的な理解はできない。
しかし、人は死ねば、この世から霊界に入る。そのときに、霊眼が開かれ、物質界とは全く異なる霊界の法則を受け入れて生きることになる。そのときに、霊的な神様の教えの意味が理解できるようになる。しかし、生きている間に、霊的な無知のために犯した過ちを人は悔い改めるようになる。例えば、悟りを得た僧侶は物質的な華麗さを求めす、乞食のように見える。霊的な能力のない人間には、その僧侶の真の姿は見えず、貧しい姿を見てバカにする。しかし、その僧侶の霊力が現れたときに、始めて彼を尊敬する。そのように、優れた霊能者が理解されないことも多い。それでも、霊的エネルギーは物質界でも働き、その真実の力を人は認めざるを得ない。このように、霊的な理解力が高まることを、覚醒という。宗教というものは強制するものではなく、相手の覚醒を待たなければならない。だから、宗教的な独裁制というものは間違っている。自由の世界でこそ、真の霊的な宗教が存在する。
要するに、自発的な動機によらねば、精神的、霊的、宗教的な成功は得られない。イエス・キリストの教えも、自由な心で学ばねば無意味なのです。光の見えない人間に、光のことを教えるのは難しい。そういう、限界を心得ておくことも重要なのです。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(ヨハネによる福音書 第 7 章)
37 On the last and greatest day of the festival, Jesus stood and said in a loud voice, “Let anyone who is thirsty come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as Scripture has said, rivers of living water will flow from within them.”[c] 39 By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.
40 On hearing his words, some of the people said, “Surely this man is the Prophet.”
41 Others said, “He is the Messiah.”
Still others asked, “How can the Messiah come from Galilee? 42 Does not Scripture say that the Messiah will come from David’s descendants and from Bethlehem, the town where David lived?” 43 Thus the people were divided because of Jesus.
+++ +++ +++
イエス・キリストがユダヤ人の間で行った説教の様子が聖書に書かれている。
「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と仰り、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」というのは、霊的な教えです。霊的な欲求というのは、生きている人間にとって必須の水のようなものなのです。それが、信者の身体の中から流れ出るようになると言われている。霊的な力が、信者の体から流れ出るということです。肉体が霊体になるということでもあります。
イエスの信者は、霊体となって、身体から霊的なエネルギーが流れ出るという、霊的な真実を述べておられるのです。
肉体は、物質界に属しているが、霊は霊界に属しており、肉体の超えた力を発揮する。この世の病にもならず、物質的な制約をこえて生きる。霊の水は命を与えるものなので、身体から命がほとばしるということになる。水分の満ちた植物が瑞々しく生命にあふれるように、霊的な力によって人間の生命力は強められ、物質的な体の生命力も強められるのです。肉体の強さをこえた、霊的な強さが人間を生かすのです。
これは、霊界のエネルギーを使って、神様は物質界を造られたということを示している。そして、物質である人間の身体も霊的なエネルギーによって生かされるのです。死後は、身体から霊的なエネルギーが解放され、霊界で人間の霊は生き生きと生きるのです。肉体という制約の中では、霊はその本来の力を十分に発揮することはできない。しかし、肉体的な制約を受けない形で霊を身体の中に持っている者は、霊能者としての力を発揮する。だから、そのような霊能者は、霊的エネルギーを発揮することで、宗教の教祖になったりする。神様の子のイエス・キリストも霊能者だったのです。
しかし、物質界の現象に目をくらまされ、精神的、霊的な現象が見えない、感じられない人間もいる。彼らには、光が見えず、闇の世界を生きているようなものです。愛と真理の光が見えない人間は、この世の闇を生きているようなものです。これは、人によって感受力が異なるので、愛に満ちた生活を送る人間の満足感や充足感は、感受力のない人間には感じれない。英術的な鑑賞力のない人間には、名画も名曲も理解できない。ただ、物質的な力しか理解できない人間には、物欲の織り成す世界しか理解できない。だから、霊的な宗教者は、そのような人間とは全く異なる世界を見、感じることができる。だから、いくら説明しても、理解できない人間には理解できない。人を説得することはむつかしい。その人間に、霊的な感受力が無ければ、霊的な理解はできない。
しかし、人は死ねば、この世から霊界に入る。そのときに、霊眼が開かれ、物質界とは全く異なる霊界の法則を受け入れて生きることになる。そのときに、霊的な神様の教えの意味が理解できるようになる。しかし、生きている間に、霊的な無知のために犯した過ちを人は悔い改めるようになる。例えば、悟りを得た僧侶は物質的な華麗さを求めす、乞食のように見える。霊的な能力のない人間には、その僧侶の真の姿は見えず、貧しい姿を見てバカにする。しかし、その僧侶の霊力が現れたときに、始めて彼を尊敬する。そのように、優れた霊能者が理解されないことも多い。それでも、霊的エネルギーは物質界でも働き、その真実の力を人は認めざるを得ない。このように、霊的な理解力が高まることを、覚醒という。宗教というものは強制するものではなく、相手の覚醒を待たなければならない。だから、宗教的な独裁制というものは間違っている。自由の世界でこそ、真の霊的な宗教が存在する。
要するに、自発的な動機によらねば、精神的、霊的、宗教的な成功は得られない。イエス・キリストの教えも、自由な心で学ばねば無意味なのです。光の見えない人間に、光のことを教えるのは難しい。そういう、限界を心得ておくことも重要なのです。
「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」 (ヨハネによる福音書 第 13 章) ("Before the rooster crows, you will disown me three times!") ― 2026/04/13 09:41
34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
36 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)
34 “A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another. 35 By this everyone will know that you are my disciples, if you love one another.”
36 Simon Peter asked him, “Lord, where are you going?”
Jesus replied, “Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later.”
37 Peter asked, “Lord, why can’t I follow you now? I will lay down my life for you.”
38 Then Jesus answered, “Will you really lay down your life for me? Very truly I tell you, before the rooster crows, you will disown me three times!"
+++ +++ +++
イエス・キリストがペテロに言われたこの言葉は、聖書の中でも有名な予言になっている。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」という予言の通りに、ペテロはイエスがローマ兵たちに捕らえられた後に、自分も逮捕されるのを恐れて、三度もイエスのことを知らないと言い、その直後に鶏が夜明けを告げたという情景が聖書に述べられている。
いかに、ローマ兵に捕らえられることが恐ろしいことだったのかが分かる。キリスト教が広まる前のヨーロッパでは、残虐な罰が平気で行われており、ローマ軍の残虐さは有名だった。ローマ兵に捕らえられることは死を意味したのです。ペテロはローマ軍と戦うために、イエスに従っていたのではなく、神様の与える恵みの中で平和に生きるために、イエスの霊能力にひかれて、イエスに従っていただけなのです。その自分が、ローマ兵に逮捕されるイエスの道連れになって苦しむことなどは、ペテロの頭にはなかったのです。
イエス・キリストは、その霊能力で、当然、天の軍勢を呼んで、ローマ軍を蹴散らすと信じていたのに、イエスは易々とローマ兵に逮捕されるという。ペテロは神様の威力すら信じられなくなったと思われる。そういう信仰の弱さを見抜いて、イエスがペテロの言動を予言したのです。
実際、ペテロなどの弟子に多くの奇跡を見せてきたイエス・キリストなら、ローマ兵などから逃れたり、一時的に姿を隠すなどできたはずです。しかし、この逮捕そのものが神様の認められた筋書きだと理解したイエスは、その運命を受けいれることにし、他方、十字架の刑にかけられて死ぬことをイエ自身が受け入れられたという信じ難い事実に直面したペテロは、自分はイエス・キリストの弟子ではないと言い逃れをして、イエスの道ずれになるのを避けたのです。神様の威力すら疑ったのです。
それだけに、十字架上の死からイエス・キリストが蘇ったのを知ったときの、ペテロの驚きと、神様の威力を疑った自分を恥じる気持ちは大きかった。ペテロの心の暗闇が一気に晴れたのです。この時の歓喜が、初期のキリスト信仰者の力強い伝道の行いに現れている。
今でも、なぜ全知全能の神様が、ご自分の子のイエスが、人間界で殺されるのを放置したのかという理由が議論されている。イエス・キリストが十字架上で殺されなくても、イエスの教えを人間界で広める方法は、他にもあったのではないかという考えです。例えば、イエス・キリストをユダヤの王やローマ帝国の皇帝とすれば、人々は黙っていても、イエス・キリストの教えに従っていただろうと考えられる。あるいは、イエスが大富豪となっていれば、ユダヤ教の祭司やローマ軍の司令官もイエスの生き方を尊敬していただろう。しかし、神様はイエス・キリストがインチキ宗教家のように、権力者によって逮捕され、刑死することを望まれた。それほど、人間界に影響を与える悪魔と戦うには、死をも恐れない強い信仰心を持つべきことを神様は、一人子のイエス・キリストを犠牲にしてまで、人々に教えようとした。
これは、悪魔の狡猾さ、凶悪さ、図太さを知らなければ、理解できないことなのです。
今の世の中でも、人々は悪魔の手の内を知ることなく、悪魔の計略に乗せられ、知らないうちに悪魔の洗脳を受け、神様に敵対する生き方をしている。悪魔は死の恐怖で人々を脅し、他方、富の誘惑で人々を惑わし、狂気の生き方を教え込んで、真理から人々の心を遠ざけている。悪魔は、自分は最後には地獄で神様に滅ぼされることを知っており、多くの人間の魂を道連れにしようとしている。悪魔は狂っており、神様の一人子を殺害するという狂気の行動を取った。もはや、悪魔が許されることはなく、悪魔には永遠の消滅が約束されたことになる。
ペテロなどの当時の弟子には、このような悪魔との戦いが命がけであることを理解出なかった。しかし、イエス・キリストが文字通り命をかけて悪魔と戦ったことを見て、彼らの信仰心は大きな衝撃によって鍛えられ、それ以降は、死をも恐れぬ信仰者となったのです。神様の教えや、神様の与えくれる霊能力で、この世で平和に幸福に生きることだけが、キリスト教の目的ではない。むしろ、悪魔との熾烈な戦いがキリスト教の本質なのです。だから、初期のキリスト教世界では、多くの殉教者が出て、死をも恐れず布教に努めたのです。そして、イエス・キリストの教えは世界に広まっていったのです。
だから、今でも、血塗られた十字架上のイエスの像がキリスト教のシンボルとなっているのは、そのような悪魔の残虐さを思い起こし、死をも超えた信仰心を持てというイエス・キリストの教えの象徴だからなのです。
キリスト教の教える天国に入るには、悪魔との熾烈な戦いを経なければならない。その一例が、ペテロによるイエス・キリストの否認なのです。悪魔はペテロに死を恐れさせ、神様の子、イエスを見殺しにするという罪を犯させたのです。そのペテロの後悔が、2千年後の今日までバチカンには残っているのです。カトリックを理解するには、この初代法王と言われるペテロの、「イエスの否認」に対する後悔を理解しなければならない。
35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
36 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)
34 “A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another. 35 By this everyone will know that you are my disciples, if you love one another.”
36 Simon Peter asked him, “Lord, where are you going?”
Jesus replied, “Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later.”
37 Peter asked, “Lord, why can’t I follow you now? I will lay down my life for you.”
38 Then Jesus answered, “Will you really lay down your life for me? Very truly I tell you, before the rooster crows, you will disown me three times!"
+++ +++ +++
イエス・キリストがペテロに言われたこの言葉は、聖書の中でも有名な予言になっている。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」という予言の通りに、ペテロはイエスがローマ兵たちに捕らえられた後に、自分も逮捕されるのを恐れて、三度もイエスのことを知らないと言い、その直後に鶏が夜明けを告げたという情景が聖書に述べられている。
いかに、ローマ兵に捕らえられることが恐ろしいことだったのかが分かる。キリスト教が広まる前のヨーロッパでは、残虐な罰が平気で行われており、ローマ軍の残虐さは有名だった。ローマ兵に捕らえられることは死を意味したのです。ペテロはローマ軍と戦うために、イエスに従っていたのではなく、神様の与える恵みの中で平和に生きるために、イエスの霊能力にひかれて、イエスに従っていただけなのです。その自分が、ローマ兵に逮捕されるイエスの道連れになって苦しむことなどは、ペテロの頭にはなかったのです。
イエス・キリストは、その霊能力で、当然、天の軍勢を呼んで、ローマ軍を蹴散らすと信じていたのに、イエスは易々とローマ兵に逮捕されるという。ペテロは神様の威力すら信じられなくなったと思われる。そういう信仰の弱さを見抜いて、イエスがペテロの言動を予言したのです。
実際、ペテロなどの弟子に多くの奇跡を見せてきたイエス・キリストなら、ローマ兵などから逃れたり、一時的に姿を隠すなどできたはずです。しかし、この逮捕そのものが神様の認められた筋書きだと理解したイエスは、その運命を受けいれることにし、他方、十字架の刑にかけられて死ぬことをイエ自身が受け入れられたという信じ難い事実に直面したペテロは、自分はイエス・キリストの弟子ではないと言い逃れをして、イエスの道ずれになるのを避けたのです。神様の威力すら疑ったのです。
それだけに、十字架上の死からイエス・キリストが蘇ったのを知ったときの、ペテロの驚きと、神様の威力を疑った自分を恥じる気持ちは大きかった。ペテロの心の暗闇が一気に晴れたのです。この時の歓喜が、初期のキリスト信仰者の力強い伝道の行いに現れている。
今でも、なぜ全知全能の神様が、ご自分の子のイエスが、人間界で殺されるのを放置したのかという理由が議論されている。イエス・キリストが十字架上で殺されなくても、イエスの教えを人間界で広める方法は、他にもあったのではないかという考えです。例えば、イエス・キリストをユダヤの王やローマ帝国の皇帝とすれば、人々は黙っていても、イエス・キリストの教えに従っていただろうと考えられる。あるいは、イエスが大富豪となっていれば、ユダヤ教の祭司やローマ軍の司令官もイエスの生き方を尊敬していただろう。しかし、神様はイエス・キリストがインチキ宗教家のように、権力者によって逮捕され、刑死することを望まれた。それほど、人間界に影響を与える悪魔と戦うには、死をも恐れない強い信仰心を持つべきことを神様は、一人子のイエス・キリストを犠牲にしてまで、人々に教えようとした。
これは、悪魔の狡猾さ、凶悪さ、図太さを知らなければ、理解できないことなのです。
今の世の中でも、人々は悪魔の手の内を知ることなく、悪魔の計略に乗せられ、知らないうちに悪魔の洗脳を受け、神様に敵対する生き方をしている。悪魔は死の恐怖で人々を脅し、他方、富の誘惑で人々を惑わし、狂気の生き方を教え込んで、真理から人々の心を遠ざけている。悪魔は、自分は最後には地獄で神様に滅ぼされることを知っており、多くの人間の魂を道連れにしようとしている。悪魔は狂っており、神様の一人子を殺害するという狂気の行動を取った。もはや、悪魔が許されることはなく、悪魔には永遠の消滅が約束されたことになる。
ペテロなどの当時の弟子には、このような悪魔との戦いが命がけであることを理解出なかった。しかし、イエス・キリストが文字通り命をかけて悪魔と戦ったことを見て、彼らの信仰心は大きな衝撃によって鍛えられ、それ以降は、死をも恐れぬ信仰者となったのです。神様の教えや、神様の与えくれる霊能力で、この世で平和に幸福に生きることだけが、キリスト教の目的ではない。むしろ、悪魔との熾烈な戦いがキリスト教の本質なのです。だから、初期のキリスト教世界では、多くの殉教者が出て、死をも恐れず布教に努めたのです。そして、イエス・キリストの教えは世界に広まっていったのです。
だから、今でも、血塗られた十字架上のイエスの像がキリスト教のシンボルとなっているのは、そのような悪魔の残虐さを思い起こし、死をも超えた信仰心を持てというイエス・キリストの教えの象徴だからなのです。
キリスト教の教える天国に入るには、悪魔との熾烈な戦いを経なければならない。その一例が、ペテロによるイエス・キリストの否認なのです。悪魔はペテロに死を恐れさせ、神様の子、イエスを見殺しにするという罪を犯させたのです。そのペテロの後悔が、2千年後の今日までバチカンには残っているのです。カトリックを理解するには、この初代法王と言われるペテロの、「イエスの否認」に対する後悔を理解しなければならない。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」 (コリントの信徒への手紙一 第 1 章) (For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.) ― 2026/04/12 13:17
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
22 Jews demand signs and Greeks look for wisdom, 23 but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, 24 but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God. 25 For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.
26 Brothers and sisters, think of what you were when you were called. Not many of you were wise by human standards; not many were influential; not many were of noble birth. 27 But God chose the foolish things of the world to shame the wise; God chose the weak things of the world to shame the strong. 28 God chose the lowly things of this world and the despised things—and the things that are not—to nullify the things that are, 29 so that no one may boast before him.
+++ +++ +++
Wkipediaによれば、「『コリントの信徒への手紙一』は『新約聖書』に収められた書簡の一つ。使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である。『コリント人への第一の手紙』ともいわれる。・・・このころ、パウロはマケドニアの信徒を訪ね、コリント(コリントス)へもまわろうとしていたと考えられる。しかし、コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とした。この話をパウロは、協力者アポロやクロエの家の人々から、またステファナらが直接もたらした書簡によって知ったのだった。当時のローマ帝国には一般市民が利用できる郵便配達システムは存在しなかったため、手紙は旅行者によってもたらされていた」とされている。
さらに、「パウロがこの手紙を書いてコリントの共同体の人々に伝えたかったことは「信仰によって一致してほしい」ということであった」とされている。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」というのは、信仰の言葉です。この世の権力、富、知恵、力を誇る者より、神様を信じるも者に、それらを上回る力が与えられるということです。
悪魔は人間を誘惑し、権力、富、知恵、力を与えるが、それは長続きせず、やがて破滅する。そのような人間の破滅を見て悪魔は喜ぶ。
しかし、神様の教えを信じる者は、この世的な権力や富は求めず、また、自分の知恵や力でなく、霊界から与えられる知恵や力に頼って生きる。神様や天使、大霊の前では謙虚な心を持って生きるのが信仰者です。それが、「神の弱さ」や「神の愚かさ」ということです。
傲慢な悪魔は、人間に権力、富、知恵、力を与えて傲慢にさせ、弱者、貧者、小さき者をバカにするが、彼らの優位は長くは続かない。神様や天使、大霊の威力がこの世にも表れて信仰者を救う。だから、信仰のある者が、この世の損得の世界では、愚かに見えても、霊界からこの世に及ぶ真理の世界では、神様の支配が働き、最後には賢明であることが証明される。
物質的な価値を最も尊重する人間には、神様の与える霊的な価値は理解できない。悪魔の洗脳を受けて自分の欲望を追求する人間には、物質的な損得しか理解できず、神様の愛と真理の示す価値が理解できない。いくら、この世で富や権力、知恵を得ても、神様の与える富、権威、真理の力には及ばない。悪魔に魂を売り、悪魔から一時的な力、富、知恵を得てもその効果は長続きせず、やがて破綻する。悪魔はそのような人間を見て喜ぶ。
しかし、霊界に通じる神様の霊的な威力に頼れば、結局は正しい効果を上げ、悪魔に従った者たちを制圧できる。
この世でいくらカネを持っても、無限の富をもつ神様には勝てない。この世の権力をいくら誇っても、神様の無限の力の前には無に等しい。また、いくらこの世で知恵を得ても、無限の知恵を持つ神様の前では無意味です。
この世の大富豪も、神様の前では超貧乏人であり、この世の大権力者も、神様のまでは幼児同様であり、この世の天才、秀才になっても神様の前では無知同然なのです。
狡猾で邪悪な悪魔も、神様や天使、大霊の前では全く無力なのです。そのことが、この世の信徒ににも表れ、物質的な欲望の満足を基準にするこの世の悪の価値の世界では、無力な信徒こそが、神様の愛と真理の世界では大きな力を持ち、この世でも、霊的な力で救われるのです。
悪魔や人間の権力、富、知恵、力は、信仰者に与えられる権威、富、知恵、力の前では、最終的に無力なのです。
つまり、この世の権力者は、真実の世界では、弱者であり、この世の富裕層は霊界では貧者であり、この世の学者や知恵者は神様の前では愚者なのです。
神様の栄光が現れれば、この世で悪魔に従う強者、富者、知恵者は、無になるのです。
だから、世の中の貧者、弱者、愚者だからといってバカにしてはならない。彼らが神様への信仰心を持てば、この世の富者、強者、知恵者よりも大きな力を神様によって与えられるのです。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
22 Jews demand signs and Greeks look for wisdom, 23 but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, 24 but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God. 25 For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.
26 Brothers and sisters, think of what you were when you were called. Not many of you were wise by human standards; not many were influential; not many were of noble birth. 27 But God chose the foolish things of the world to shame the wise; God chose the weak things of the world to shame the strong. 28 God chose the lowly things of this world and the despised things—and the things that are not—to nullify the things that are, 29 so that no one may boast before him.
+++ +++ +++
Wkipediaによれば、「『コリントの信徒への手紙一』は『新約聖書』に収められた書簡の一つ。使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である。『コリント人への第一の手紙』ともいわれる。・・・このころ、パウロはマケドニアの信徒を訪ね、コリント(コリントス)へもまわろうとしていたと考えられる。しかし、コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とした。この話をパウロは、協力者アポロやクロエの家の人々から、またステファナらが直接もたらした書簡によって知ったのだった。当時のローマ帝国には一般市民が利用できる郵便配達システムは存在しなかったため、手紙は旅行者によってもたらされていた」とされている。
さらに、「パウロがこの手紙を書いてコリントの共同体の人々に伝えたかったことは「信仰によって一致してほしい」ということであった」とされている。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」というのは、信仰の言葉です。この世の権力、富、知恵、力を誇る者より、神様を信じるも者に、それらを上回る力が与えられるということです。
悪魔は人間を誘惑し、権力、富、知恵、力を与えるが、それは長続きせず、やがて破滅する。そのような人間の破滅を見て悪魔は喜ぶ。
しかし、神様の教えを信じる者は、この世的な権力や富は求めず、また、自分の知恵や力でなく、霊界から与えられる知恵や力に頼って生きる。神様や天使、大霊の前では謙虚な心を持って生きるのが信仰者です。それが、「神の弱さ」や「神の愚かさ」ということです。
傲慢な悪魔は、人間に権力、富、知恵、力を与えて傲慢にさせ、弱者、貧者、小さき者をバカにするが、彼らの優位は長くは続かない。神様や天使、大霊の威力がこの世にも表れて信仰者を救う。だから、信仰のある者が、この世の損得の世界では、愚かに見えても、霊界からこの世に及ぶ真理の世界では、神様の支配が働き、最後には賢明であることが証明される。
物質的な価値を最も尊重する人間には、神様の与える霊的な価値は理解できない。悪魔の洗脳を受けて自分の欲望を追求する人間には、物質的な損得しか理解できず、神様の愛と真理の示す価値が理解できない。いくら、この世で富や権力、知恵を得ても、神様の与える富、権威、真理の力には及ばない。悪魔に魂を売り、悪魔から一時的な力、富、知恵を得てもその効果は長続きせず、やがて破綻する。悪魔はそのような人間を見て喜ぶ。
しかし、霊界に通じる神様の霊的な威力に頼れば、結局は正しい効果を上げ、悪魔に従った者たちを制圧できる。
この世でいくらカネを持っても、無限の富をもつ神様には勝てない。この世の権力をいくら誇っても、神様の無限の力の前には無に等しい。また、いくらこの世で知恵を得ても、無限の知恵を持つ神様の前では無意味です。
この世の大富豪も、神様の前では超貧乏人であり、この世の大権力者も、神様のまでは幼児同様であり、この世の天才、秀才になっても神様の前では無知同然なのです。
狡猾で邪悪な悪魔も、神様や天使、大霊の前では全く無力なのです。そのことが、この世の信徒ににも表れ、物質的な欲望の満足を基準にするこの世の悪の価値の世界では、無力な信徒こそが、神様の愛と真理の世界では大きな力を持ち、この世でも、霊的な力で救われるのです。
悪魔や人間の権力、富、知恵、力は、信仰者に与えられる権威、富、知恵、力の前では、最終的に無力なのです。
つまり、この世の権力者は、真実の世界では、弱者であり、この世の富裕層は霊界では貧者であり、この世の学者や知恵者は神様の前では愚者なのです。
神様の栄光が現れれば、この世で悪魔に従う強者、富者、知恵者は、無になるのです。
だから、世の中の貧者、弱者、愚者だからといってバカにしてはならない。彼らが神様への信仰心を持てば、この世の富者、強者、知恵者よりも大きな力を神様によって与えられるのです。
最近のコメント