「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」 (マタイによる福音書 第 20 章) (“So the last will be first, and the first will be last.”) ― 2026/02/08 11:33
10 「ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 第 20 章)
10 So when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius.
11 When they received it, they began to grumble against the landowner.
12 ‘These who were hired last worked only one hour,’ they said, ‘and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.’
13 “But he answered one of them, ‘I am not being unfair to you, friend. Didn’t you agree to work for a denarius?
14 Take your pay and go. I want to give the one who was hired last the same as I gave you.
15 Don’t I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?’
16 “So the last will be first, and the first will be last.”
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである」と教えた時の説教です。
この「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という不思議な教えは印象的です。しかし、実際にそのような現象が、この世の生活においても生じるのです。
例えば、スポーツや勉学などで、最初に取り組んだ者がやがて序列が最後になり、遅れて取り組んだ者がトップの成績を上げることも多い。
信仰の世界でも、誰よりも早く理解を深めた者が、やがて、悟りにおいては、一番最後のものになることもある。最初から最後まで、トップで突っ走る者は少ない。環境や状況は常に変わり、人の状態も常に変わるからです。
実際に、世の中では金持ちが落ちぶれて貧乏になったり、ホームレスのような人間が成功することもある。世の中の移り変わりは早い。
この世の全ては、霊界からの影響を受け、霊界の状況は、この世では目に見えない因子や条件に支配され、それらが働く時には、この世の人間の眼には不思議に見える。
仏教でも所業無常という。この世の出来事に信を置いてはならない、ということになる。
つまり、真実の信仰があれば、それがいつかは必ず働く。奇跡に見えることも、正しい方向に努力していれば、やがて、いつかは実現する。
だから、遅れている他人をバカにしてはいけない。この世で一番遅れていた人間が、死後の霊界では最も優れている者として、一番高く評価されることもある。逆に、この世で一番進歩していると絶賛された人間が、霊界では最も遅れていることが明らかになる場合もある。
この世の価値基準は悪魔の影響を受けているが、霊界では神様のご威光が直接に現れるからです。
だから、虚偽を好む者は、偽りの世界の地獄に行き、真実を好む者は、天国の近くに達することができる。
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 第 20 章)
10 So when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius.
11 When they received it, they began to grumble against the landowner.
12 ‘These who were hired last worked only one hour,’ they said, ‘and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.’
13 “But he answered one of them, ‘I am not being unfair to you, friend. Didn’t you agree to work for a denarius?
14 Take your pay and go. I want to give the one who was hired last the same as I gave you.
15 Don’t I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?’
16 “So the last will be first, and the first will be last.”
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これは、イエス・キリストが「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである」と教えた時の説教です。
この「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という不思議な教えは印象的です。しかし、実際にそのような現象が、この世の生活においても生じるのです。
例えば、スポーツや勉学などで、最初に取り組んだ者がやがて序列が最後になり、遅れて取り組んだ者がトップの成績を上げることも多い。
信仰の世界でも、誰よりも早く理解を深めた者が、やがて、悟りにおいては、一番最後のものになることもある。最初から最後まで、トップで突っ走る者は少ない。環境や状況は常に変わり、人の状態も常に変わるからです。
実際に、世の中では金持ちが落ちぶれて貧乏になったり、ホームレスのような人間が成功することもある。世の中の移り変わりは早い。
この世の全ては、霊界からの影響を受け、霊界の状況は、この世では目に見えない因子や条件に支配され、それらが働く時には、この世の人間の眼には不思議に見える。
仏教でも所業無常という。この世の出来事に信を置いてはならない、ということになる。
つまり、真実の信仰があれば、それがいつかは必ず働く。奇跡に見えることも、正しい方向に努力していれば、やがて、いつかは実現する。
だから、遅れている他人をバカにしてはいけない。この世で一番遅れていた人間が、死後の霊界では最も優れている者として、一番高く評価されることもある。逆に、この世で一番進歩していると絶賛された人間が、霊界では最も遅れていることが明らかになる場合もある。
この世の価値基準は悪魔の影響を受けているが、霊界では神様のご威光が直接に現れるからです。
だから、虚偽を好む者は、偽りの世界の地獄に行き、真実を好む者は、天国の近くに達することができる。
「それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」 (マルコによる福音書 第 11 章) (But you have made it ‘a den of robbers.’) ― 2026/02/07 10:21
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(マルコによる福音書 第 11 章)
15 On reaching Jerusalem, Jesus entered the temple courts and began driving out those who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves,
16 and would not allow anyone to carry merchandise through the temple courts.
17 And as he taught them, he said, “Is it not written: ‘My house will be called a house of prayer for all nations’[c]? But you have made it ‘a den of robbers.’”
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、エルサレムの神殿に人生の最後に入られた時に、神殿の中庭で犠牲の生き物などを売り買いしていた人々に憤り、彼らの商売の机などを乱暴に押し倒して商売をやめさせたときの情景です。
犠牲の生き物とは、神に捧げられる鳥や小動物を、礼拝者が買い取って、自由にしてやり、功徳を施すために使用されるものです。そのような偽善の宗教儀式を行うものを、イエス・キリストは許されなかった。これは、イエスが感情的になって暴力を振るった唯一の例です。
神様を敬う場所である神殿で、犠牲の生き物を売ってカネのやり取りをするのは、神様への冒涜だとイエスは考えて、そのような商売をやめさせようとして、実力を行使された。これには、弟子たちも驚いたので、聖書では特に記述されている。
エルサレムの神殿は、人々が神様に祈りを捧げる神聖な場所です。そこで、神様が嫌われるカネを使って商売をすることは許されない。神聖な場所を汚すことになる。イエスには、それが我慢できなかった。目の前で、そのような神様への冒涜が行われているのに、何もしないわけにはいかない。それが、イエスに激しい怒りの心を呼び起こし、実力行使に出たのです。
イエスはご自分が、ローマ兵たちに逮捕されるときにも、暴力的な対応をされなかったのに、神殿の商売人には、実力を使われた。如何に、イエスの怒りが激しかったのかがよく分かる。イエスの人間的な一面が現れている。
或いは、弟子たちには、イエスが激しく動作したのが、暴力を振るったように見えたとも言える。イエス・キリストは、ご自分の死が迫っていることが分かっていたので、気が高ぶっていたとも考えられる。とにかく、出来るだけ早く、神様への冒涜をやめさせなければならない。
また、最も敬うべき神様を汚すような商売人たちへの怒りが収まらなかったと思われる。イエス・キリストは弟子たちを使って、商売人たちを攻撃させたのではなく、自ら彼らを制圧された。その行為の全責任は、ご自分にあることを示されている。
今の世の中でも、聖書を冒涜するような行為を人々はしているが、それに怒りを示す神父や牧師はほとんどいない。自分の親をバカにされた時には誰でも怒るが、その怒りよりも激しい怒りを、神様を冒涜する者には感じるのは当然なのです。
これは、神様への信仰の純粋さと、強さがなければ、理解できない情景です。この意味で、これは、深い信仰をもった人間としてのイエス・キリストを現わしている。目の前で神様への冒涜行為が行われていれば、それを見逃してはならない、という教えです。
いずれにしても、イエス・キリストの怒りの強さの前に、神殿の警備兵なども呆然としていたのです。これは、神様の名誉を守ったイエス・キリストの行為であり、悪魔に取りつかれた商売人たちが、神殿内に入り込んでいることへのイエス・キリストの怒りの現れなのです。
例えば、日本の国権の最高機関である国会が、外国スパイたちによって汚されているのが分かれば、日本人なら、選挙の投票行為で彼らを落選させなければならない。日本の国権以上に、神様の権威は高いのです。日本の憲法以上の権威があるのが、神様なのです。
国が攻撃されれば、国民は武器を取って戦うように、神様の権威を汚す者には、信徒は全力で戦わなければならない。
16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(マルコによる福音書 第 11 章)
15 On reaching Jerusalem, Jesus entered the temple courts and began driving out those who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves,
16 and would not allow anyone to carry merchandise through the temple courts.
17 And as he taught them, he said, “Is it not written: ‘My house will be called a house of prayer for all nations’[c]? But you have made it ‘a den of robbers.’”
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これは、イエス・キリストが、エルサレムの神殿に人生の最後に入られた時に、神殿の中庭で犠牲の生き物などを売り買いしていた人々に憤り、彼らの商売の机などを乱暴に押し倒して商売をやめさせたときの情景です。
犠牲の生き物とは、神に捧げられる鳥や小動物を、礼拝者が買い取って、自由にしてやり、功徳を施すために使用されるものです。そのような偽善の宗教儀式を行うものを、イエス・キリストは許されなかった。これは、イエスが感情的になって暴力を振るった唯一の例です。
神様を敬う場所である神殿で、犠牲の生き物を売ってカネのやり取りをするのは、神様への冒涜だとイエスは考えて、そのような商売をやめさせようとして、実力を行使された。これには、弟子たちも驚いたので、聖書では特に記述されている。
エルサレムの神殿は、人々が神様に祈りを捧げる神聖な場所です。そこで、神様が嫌われるカネを使って商売をすることは許されない。神聖な場所を汚すことになる。イエスには、それが我慢できなかった。目の前で、そのような神様への冒涜が行われているのに、何もしないわけにはいかない。それが、イエスに激しい怒りの心を呼び起こし、実力行使に出たのです。
イエスはご自分が、ローマ兵たちに逮捕されるときにも、暴力的な対応をされなかったのに、神殿の商売人には、実力を使われた。如何に、イエスの怒りが激しかったのかがよく分かる。イエスの人間的な一面が現れている。
或いは、弟子たちには、イエスが激しく動作したのが、暴力を振るったように見えたとも言える。イエス・キリストは、ご自分の死が迫っていることが分かっていたので、気が高ぶっていたとも考えられる。とにかく、出来るだけ早く、神様への冒涜をやめさせなければならない。
また、最も敬うべき神様を汚すような商売人たちへの怒りが収まらなかったと思われる。イエス・キリストは弟子たちを使って、商売人たちを攻撃させたのではなく、自ら彼らを制圧された。その行為の全責任は、ご自分にあることを示されている。
今の世の中でも、聖書を冒涜するような行為を人々はしているが、それに怒りを示す神父や牧師はほとんどいない。自分の親をバカにされた時には誰でも怒るが、その怒りよりも激しい怒りを、神様を冒涜する者には感じるのは当然なのです。
これは、神様への信仰の純粋さと、強さがなければ、理解できない情景です。この意味で、これは、深い信仰をもった人間としてのイエス・キリストを現わしている。目の前で神様への冒涜行為が行われていれば、それを見逃してはならない、という教えです。
いずれにしても、イエス・キリストの怒りの強さの前に、神殿の警備兵なども呆然としていたのです。これは、神様の名誉を守ったイエス・キリストの行為であり、悪魔に取りつかれた商売人たちが、神殿内に入り込んでいることへのイエス・キリストの怒りの現れなのです。
例えば、日本の国権の最高機関である国会が、外国スパイたちによって汚されているのが分かれば、日本人なら、選挙の投票行為で彼らを落選させなければならない。日本の国権以上に、神様の権威は高いのです。日本の憲法以上の権威があるのが、神様なのです。
国が攻撃されれば、国民は武器を取って戦うように、神様の権威を汚す者には、信徒は全力で戦わなければならない。
われらは神によって勇ましく働きます (詩篇 第108章) (With God we will gain the victory,) ― 2026/02/06 11:59
12 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいからです。
13 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。(詩篇 第108章)
12 Give us aid against the enemy,
for human help is worthless.
13 With God we will gain the victory,
and he will trample down our enemies.
+++ +++ +++
「あだ」とは、敵の意味です。高市首相の「働いて、働いて、働いて参ります」と言う言葉に通じる「われらは神によって勇ましく働きます」と言う言葉が、この旧約聖書の詩篇に記されている。また、「働く」ということは、広い意味での勝利すること (victory) につながる。
この「詩篇」という文書は、旧約聖書に収められた150篇の神(ヤハウェ)への賛美の詩を意味する。これらは、「賛歌」「民の嘆きの歌」「個人の嘆きの歌」「個人の感謝の歌」に分類される。
何事につけ、人間の行為には神様への信仰心の裏付けが必要です。「働く」場合にも、「神によって(With God)」ということが大事なのです。
高市首相も、自分の幸福のために働くのではなく、「国民のために」、「神様と共に」働いてほしいものです。
他方、中道連合や公明党、立憲民主党などは、「中国のために」、「中国工作員」とともに働いており、日本民族を裏切る政治をしている。高市首相の命を脅かした中国の領事の言葉を、日本国民は忘れてはならない。
ユダヤ民族も、その民族を助ける神(ヤハウェ)を崇めていた。しかし、イエス・キリストの時代になって、ユダヤ民族の神から人類全体の神様へと信仰の段階がさらに高められた。
日本人も日本神話や古事記/日本書紀の神々や、日蓮宗や浄土真宗などの日本仏教の始祖/教祖や菩薩や如来などではなく、人類全体の神様を崇めなければ、世界を主導できない。世界は、唯一の絶対の神様を崇めるのが主流なのです。
現代日本人も、神道や仏教を肯定しながらも、イエス・キリストの崇める唯一の絶対の神様への信仰を強め、深めるべきです。ただし、公認のキリスト教徒にならなければならない、ということではない。霊的なキリスト教徒になれ、ということです。
この世の宗教ではなく、霊的な宗教心が必要なのです。
13 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。(詩篇 第108章)
12 Give us aid against the enemy,
for human help is worthless.
13 With God we will gain the victory,
and he will trample down our enemies.
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「あだ」とは、敵の意味です。高市首相の「働いて、働いて、働いて参ります」と言う言葉に通じる「われらは神によって勇ましく働きます」と言う言葉が、この旧約聖書の詩篇に記されている。また、「働く」ということは、広い意味での勝利すること (victory) につながる。
この「詩篇」という文書は、旧約聖書に収められた150篇の神(ヤハウェ)への賛美の詩を意味する。これらは、「賛歌」「民の嘆きの歌」「個人の嘆きの歌」「個人の感謝の歌」に分類される。
何事につけ、人間の行為には神様への信仰心の裏付けが必要です。「働く」場合にも、「神によって(With God)」ということが大事なのです。
高市首相も、自分の幸福のために働くのではなく、「国民のために」、「神様と共に」働いてほしいものです。
他方、中道連合や公明党、立憲民主党などは、「中国のために」、「中国工作員」とともに働いており、日本民族を裏切る政治をしている。高市首相の命を脅かした中国の領事の言葉を、日本国民は忘れてはならない。
ユダヤ民族も、その民族を助ける神(ヤハウェ)を崇めていた。しかし、イエス・キリストの時代になって、ユダヤ民族の神から人類全体の神様へと信仰の段階がさらに高められた。
日本人も日本神話や古事記/日本書紀の神々や、日蓮宗や浄土真宗などの日本仏教の始祖/教祖や菩薩や如来などではなく、人類全体の神様を崇めなければ、世界を主導できない。世界は、唯一の絶対の神様を崇めるのが主流なのです。
現代日本人も、神道や仏教を肯定しながらも、イエス・キリストの崇める唯一の絶対の神様への信仰を強め、深めるべきです。ただし、公認のキリスト教徒にならなければならない、ということではない。霊的なキリスト教徒になれ、ということです。
この世の宗教ではなく、霊的な宗教心が必要なのです。
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」 (ヨハネによる福音書 第 9 章) (“For judgment I have come into this world") ― 2026/02/05 11:39
39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書 第 9 章)
39 Jesus said,[a] “For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind.”
40 Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, “What? Are we blind too?”
41 Jesus said, “If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains.
+++ +++ +++
イエス・キリストが盲人を癒して、目が見えるようにされた時の教えです。
イエスは単に病人を癒すために、この世に来られたのではなく、人々を裁くために、この世に来られたと明言されている。罪人をさばくのは、神様の権威を持っておられる者にしかできない。即ち、イエスは神様の権威を持っておられることを明言されたのです。
しかし、目の見えない盲人であれば、この世のことが分からず、罪を犯すことがない。ところが、なまじ目が見えれば、欲にかられて、悪魔の誘惑を受けて人は罪を犯すものだと述べておられる。
これは、貧しければ、贅沢を知らず罪を犯さないが、富裕層であれば、より多くの物的な富に囲まれて、さらに欲を刺激されて罪を犯すことを意味する。また、病人であれば、活動することは出来ず、罪を犯すこともないが、健康な人は、より多く活動し、より多くの誘惑に出会い、より多くの罪を犯すことを意味する。
また、イエスは真理を知らせ、世の中の真実が見えなかった人の心を開き、世の中の実相が見えるようにされる。逆に、世の中を知っていると思っていた人は、霊的な真理を知らされ、この世で当然だと思っていたことや常識が真実ではないことを知らされて混乱し、ものが見えなくなる。
人間の裁きは、悪魔にどれだけ対抗したかを知ることにある。悪魔に洗脳された人間には、霊的な真実が見えず、ものが見えなくなる。悪魔の教えに従って生きている人間は、悪魔の教えが真実だと考えて、世の中を知っていると考えるが、そのことが霊的な真実を理解していないことを意味する。
例えば、弱者や貧しき者を軽蔑するのが悪魔に従う者の態度であり、弱者や貧しき者を愛される神様は彼らに真実をみえるようにされている。強者や富裕層には見えない真理を、弱者や貧しき者は、イエス・キリストの言葉を聞いて知ることができるようになる。
眼が見えず、音も聞こえなかったヘレン・ケラーが、霊界を経験したスエーデンボルグの霊界の教えを知って、この世で生きていくことができたという事実は、まさに、イエス・キリストの言葉を証明している。
真実を人に教え、人の罪を明らかにするのが、イエス・キリストの使命だった。悪魔に洗脳された人間は、世の中を間違って解釈し、世の中を知っていると思うことが罪であり、それを裁くためにイエスはこの世に来たのです。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書 第 9 章)
39 Jesus said,[a] “For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind.”
40 Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, “What? Are we blind too?”
41 Jesus said, “If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains.
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イエス・キリストが盲人を癒して、目が見えるようにされた時の教えです。
イエスは単に病人を癒すために、この世に来られたのではなく、人々を裁くために、この世に来られたと明言されている。罪人をさばくのは、神様の権威を持っておられる者にしかできない。即ち、イエスは神様の権威を持っておられることを明言されたのです。
しかし、目の見えない盲人であれば、この世のことが分からず、罪を犯すことがない。ところが、なまじ目が見えれば、欲にかられて、悪魔の誘惑を受けて人は罪を犯すものだと述べておられる。
これは、貧しければ、贅沢を知らず罪を犯さないが、富裕層であれば、より多くの物的な富に囲まれて、さらに欲を刺激されて罪を犯すことを意味する。また、病人であれば、活動することは出来ず、罪を犯すこともないが、健康な人は、より多く活動し、より多くの誘惑に出会い、より多くの罪を犯すことを意味する。
また、イエスは真理を知らせ、世の中の真実が見えなかった人の心を開き、世の中の実相が見えるようにされる。逆に、世の中を知っていると思っていた人は、霊的な真理を知らされ、この世で当然だと思っていたことや常識が真実ではないことを知らされて混乱し、ものが見えなくなる。
人間の裁きは、悪魔にどれだけ対抗したかを知ることにある。悪魔に洗脳された人間には、霊的な真実が見えず、ものが見えなくなる。悪魔の教えに従って生きている人間は、悪魔の教えが真実だと考えて、世の中を知っていると考えるが、そのことが霊的な真実を理解していないことを意味する。
例えば、弱者や貧しき者を軽蔑するのが悪魔に従う者の態度であり、弱者や貧しき者を愛される神様は彼らに真実をみえるようにされている。強者や富裕層には見えない真理を、弱者や貧しき者は、イエス・キリストの言葉を聞いて知ることができるようになる。
眼が見えず、音も聞こえなかったヘレン・ケラーが、霊界を経験したスエーデンボルグの霊界の教えを知って、この世で生きていくことができたという事実は、まさに、イエス・キリストの言葉を証明している。
真実を人に教え、人の罪を明らかにするのが、イエス・キリストの使命だった。悪魔に洗脳された人間は、世の中を間違って解釈し、世の中を知っていると思うことが罪であり、それを裁くためにイエスはこの世に来たのです。
あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいる (ヨハネによる福音書 第 17 章) (Father, just as you are in me and I am in you) ― 2026/02/04 11:24
20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネによる福音書 第 17 章)
20 “My prayer is not for them alone. I pray also for those who will believe in me through their message,
21 that all of them may be one, Father, just as you are in me and I am in you. May they also be in us so that the world may believe that you have sent me.
22 I have given them the glory that you gave me, that they may be one as we are one—
23 I in them and you in me—so that they may be brought to complete unity. Then the world will know that you sent me and have loved them even as you have loved me.
+++ +++ +++
イエス・キリストが天の神様に祈りを捧げた言葉です。
イエスは神様を「父よ」と呼び、神様とイエスの関係を明らかにされています。また、ご自分の中に神様がおられ、また、神様の中に自分がいることを明らかにされ、両者が一体であることを明言されました。そして、イエスと神様は1つのものであることを明らかにされたのです。即ち、神様とイエスは一体なのです。そして、弟子たちも互いに一体となることを望んでおられる。
これは、神様が自分の中にいると宣言する世の中の教祖や霊能者の言葉を思い出させるが、無限の神様が有限の人間の中に入るわけはないので、そのような言葉は間違っている。しかし、「神様には人間には出来ないことも出来る」とされており、無限の神様が有限の人間であるイエスの中に入ることができる。
これは、また、霊的な言葉であり、霊界では大小や長短の区別は無意味なので、霊界の最高の段階にまで上がれるイエス・キリストには、神様と一体であるという状態が可能なのです。
つまり、イエス・キリストが神様だという判断も誤りではない。ただし、それは高い信仰レベルで語られる言葉です。この世の普通の判断では、イエスは神様の子であるという認識も間違いではない。
ただし、イエス・キリストの立場からすれば、神様とご自分は同格であるということになり、人間はイエス・キリストを「主」と呼ぶのが正しいし、イエスも神様を「御父」や「主」と呼んでおられる。
イエス・キリストの立場や、我々人間の位置によって、神様の呼称は変わっておかしくない。
その際、重要なことは、「神様は全知全能かつ全善である」という聖書の言葉です。無限の神様が有限の人間となることも可能であり、時間的にも空間的にも一切束縛を持たない神様が、限られた時代の限られた場所で生きる人間のイエス・キリストになることも可能なのです。それは、最高の信仰レベルで理解できることなのです。
仏教の教えも、信徒の理解力のレベルによって、その意味や解釈が異なって来る。キリスト教でも、イエス・キリストの真の教えでも、各人間の霊的な理解力によって、その意味や理解が変わって来る。
そのことを承知しないで、他人の信仰の内容を批判するのは無知であり、無礼であり、無意味なことです。
イエス・キリストの言葉は、最終的には霊的に理解しなければならない。高い位置に上るほど、より多くのことが理解できるようになる。
それでも、最優秀な者にも、初心者にも、それなりに理解できるのが聖なる書物の聖書の言葉なのです。
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネによる福音書 第 17 章)
20 “My prayer is not for them alone. I pray also for those who will believe in me through their message,
21 that all of them may be one, Father, just as you are in me and I am in you. May they also be in us so that the world may believe that you have sent me.
22 I have given them the glory that you gave me, that they may be one as we are one—
23 I in them and you in me—so that they may be brought to complete unity. Then the world will know that you sent me and have loved them even as you have loved me.
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イエス・キリストが天の神様に祈りを捧げた言葉です。
イエスは神様を「父よ」と呼び、神様とイエスの関係を明らかにされています。また、ご自分の中に神様がおられ、また、神様の中に自分がいることを明らかにされ、両者が一体であることを明言されました。そして、イエスと神様は1つのものであることを明らかにされたのです。即ち、神様とイエスは一体なのです。そして、弟子たちも互いに一体となることを望んでおられる。
これは、神様が自分の中にいると宣言する世の中の教祖や霊能者の言葉を思い出させるが、無限の神様が有限の人間の中に入るわけはないので、そのような言葉は間違っている。しかし、「神様には人間には出来ないことも出来る」とされており、無限の神様が有限の人間であるイエスの中に入ることができる。
これは、また、霊的な言葉であり、霊界では大小や長短の区別は無意味なので、霊界の最高の段階にまで上がれるイエス・キリストには、神様と一体であるという状態が可能なのです。
つまり、イエス・キリストが神様だという判断も誤りではない。ただし、それは高い信仰レベルで語られる言葉です。この世の普通の判断では、イエスは神様の子であるという認識も間違いではない。
ただし、イエス・キリストの立場からすれば、神様とご自分は同格であるということになり、人間はイエス・キリストを「主」と呼ぶのが正しいし、イエスも神様を「御父」や「主」と呼んでおられる。
イエス・キリストの立場や、我々人間の位置によって、神様の呼称は変わっておかしくない。
その際、重要なことは、「神様は全知全能かつ全善である」という聖書の言葉です。無限の神様が有限の人間となることも可能であり、時間的にも空間的にも一切束縛を持たない神様が、限られた時代の限られた場所で生きる人間のイエス・キリストになることも可能なのです。それは、最高の信仰レベルで理解できることなのです。
仏教の教えも、信徒の理解力のレベルによって、その意味や解釈が異なって来る。キリスト教でも、イエス・キリストの真の教えでも、各人間の霊的な理解力によって、その意味や理解が変わって来る。
そのことを承知しないで、他人の信仰の内容を批判するのは無知であり、無礼であり、無意味なことです。
イエス・キリストの言葉は、最終的には霊的に理解しなければならない。高い位置に上るほど、より多くのことが理解できるようになる。
それでも、最優秀な者にも、初心者にも、それなりに理解できるのが聖なる書物の聖書の言葉なのです。
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