「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」 (ヨハネによる福音書 第 13 章) (“Unless I wash you, you have no part with me.”)2025/11/02 23:49

6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)

6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
+++ +++ +++

イエス・キリストは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛されたという情景です。

師匠が弟子の足を洗うということは、どこの世界でも考えられない。しかし、イエスは自分の人生の最期が近づいたことを感じ、最期の晩餐の前にわざわざ、弟子の足を現れたのです。それが、イエスの弟子たちへの愛の現れです。

親が幼児を愛するように、イエスは弟子の肉体を愛されたのです。この時の記憶は、イエスの死後、弟子たちに深く記憶されることになる。単なる言葉だけの愛ではなく、肉体を持った人間として、弟子はイエスに愛されていたことを思い出す。

単に、師匠と弟子という上下関係ではなく、親子の愛情以上の関係があることをイエスは示されたのです。そのような愛情をイエスが示し、その愛情を弟子が受けることで、霊的な関係が成立したのです。

逆に、全ての宗教で、教祖が信徒の足を洗うような愛情を持っていなければ、教祖と信徒の間に霊的な関係は成立していないことになる。だからこそ、キリスト教は信じるに足る宗教だということになる。

「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書 第 7 章) (first take the plank out of your own eye)2025/11/01 13:21

3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。(マタイによる福音書 第 7 章)

3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye?
4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?
5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
+++ +++ +++

これは、人を責めるな、というイエス・キリストの教えに続いて、兄弟の眼にちりがあることを責める前に、自分の眼から大きな梁(はり)を取り除けというイエスの言葉です。

実際、人を責める理由はいくらでもある。また、人をほめる理由もいくらでもある。自分のことを考えれば、とても人を責める気にはなれないものです。自分が他人を判断する理由で、自分も責められることを忘れるなということです。

これは、人を憎む理由はいくらでもあり、また、人を愛する理由もいくらでもある、ということに通じる。要するに、憎しみを愛するか、愛を愛するかということになる。悪魔に魂を売った人間は、憎しみを愛するようになり、人を憎むことを愛する。そして、誰にでも憎まれる理由はあるので、悪魔に魂を売った人間は、必ず人を憎む理由を見つけだし、人を憎むようになる。

しかし、神様の教えに従う人は、誰にでも他人を愛する理由をみつけることができ、人を愛するようになる。

だから、人を裁いてはならない、とイエス・キリストは述べている。しかし、世の中には裁判という仕組みがある。そして、裁判官が罪人を裁くときにも、情状酌量ということが行われる。どんな罪人にも、同情すべき理由がある。それを考慮に入れた判決を行うようになっている。しかし、イエスの教えは、そもそも人を裁こうとしてはならない、ということです。従って、イエスの教えに従う社会では、司法というものの考えが人間的な判断によるものではなく、神様の教えに従って扱われる。

それでも、悪魔に魂を売った人間は、悪を好み、憎しみを愛し、愛を嫌う。このような人間を正しく扱えるような人間はいない。神様や天使から霊を与えられた人間のみが、悪魔に魂を売った人間を扱うことができる。つまり、愛を愛する人間が、憎しみを愛する人間に対抗することができる。

それでも、他人を責める前には、自分の欠点や罪を考えよ、というのが神の子、イエス・キリストの教えなのです。他人や兄弟には寛容で、自分には厳しくということです。ただし、他人や兄弟の悪を受け入れ、自分自身の悪も受け入れるようになってはいけない。その際には、神様が天使を遣わして、全員を裁かれ、滅ぼされる。つまり、人間社会が生き残るには、他人や兄弟を責めることではなく、まず自分自身を反省することです。

「宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい」(ルカによる福音書 第 14 章) (when you give a banquet, invite the poor, the crippled, the lame, the blind)2025/10/31 14:31

12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。
14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。(ルカによる福音書 第 14 章)

12 Then Jesus said to his host, “When you give a luncheon or dinner, do not invite your friends, your brothers or sisters, your relatives, or your rich neighbors; if you do, they may invite you back and so you will be repaid.
13 But when you give a banquet, invite the poor, the crippled, the lame, the blind,
14 and you will be blessed. Although they cannot repay you, you will be repaid at the resurrection of the righteous.”
+++ +++ +++

これは、イエス・キリストが、パリサイ派のかしらの家で客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって与えた言葉です。

宴会には、親しい人や、金持ちの隣人を呼ぶのではなく、貧しい人や障害に苦しんでいる人を呼べと、イエスは述べられたのです。この世で、お返しの出来ない人や貧しい人などは、招いた人に感謝し、心で感謝の気持ちを持つようになる。その気持ちは霊界に通じ、最期の審判のときには、その宴会での招待に対する褒美を得ることができると述べておられる。つまり、貧しい人などに隣人愛を実行すれば、神様はそれを善行として評価し、最期の審判のときには、報いてくれるのです。

要するに、貧しい人を愛せよということです。

『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。(使徒言行録 第 11 章) (‘Do not call anything impure that God has made clean.’)2025/10/30 12:57

7 それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。
8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。
9 すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。(使徒言行録 第 11 章)

7 Then I heard a voice telling me, ‘Get up, Peter. Kill and eat.’

8 “I replied, ‘Surely not, Lord! Nothing impure or unclean has ever entered my mouth.’

9 “The voice spoke from heaven a second time, ‘Do not call anything impure that God has made clean.’
+++ +++ +++

これは、イエスの死後、弟子のペテロが、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたのを責められたときの弁明です。

当時のユダヤ教の教えよりも、神様から直接来る教えが優先することを述べている。実際、今でも無宗教だが神様の存在を信じている人も多い。神様を信じていれば、その言葉は宗教の教えよりも優先するのは当然です。

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」(ルカによる福音書 第 16 章) (“Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much")2025/10/29 13:41

9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。(ルカによる福音書 第 16 章)

9 I tell you, use worldly wealth to gain friends for yourselves, so that when it is gone, you will be welcomed into eternal dwellings.
10 “Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much, and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much.
11 So if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches?
+++ +++ +++

これは、不正な家令が主人に解雇される前に、主人から借りのある人の負債を減額して恩を売り、自分が主人から解雇されても、恩を売った人々から助けてもらえるように画策した例をあげて、イエスが悪知恵でもいいから生きるために全力をつくす人をほめたという不思議な話です。

この世の善悪よりも、神様の定める善悪が重要であるという教えが一つ。また、細かな点を疎かにすることなく、誰がどれだけ負債があるかなども承知していることによって、友達を作り、自分の将来に備えることができるように、小さな問題でも軽く見たり無視したりすべきでないとも教えている。小さな問題を忠実に扱うことで、人々の信頼を得て、大きな問題も任せてもらえるようになる。

さらに、不正な手段で得た富ですら、その扱いには忠実であるべきであり、忠実な扱いをすることで、上司の信頼を得て、真の富も任せてもらえるようになる。つまり、不正であるか、真実のものであるかの判断能力よりも、取り扱いという義務を忠実に果たそうという気持ちが評価される。

従って、神様の指示の内容を自分で判断することなく、与えられた支持を忠実に果たすことが求められる。神様の与えられた運命には文句を言わず、その与えられた運命に忠実に取り組むことで、神様から信頼を得ることができる。

つまり、不運な時や逆境の時にも、神様を信じて真剣にその状況に取り組むことで、やがて幸運な運命を与えられることになる。状況は移り変わるが、その裏の神様の意志は変わらない。常に、神様を恐れよということになる。

この世の善悪の判断よりも、神様の善悪の判断を優先すべきだということにもなる。だから、この世の不正な手段で得た富でも、神様の望む愛と信仰のために役立てることができる。

ただし、不正な行為や悪事を推奨しているのではない。この世の善悪の向こうにある神様の気持ちを考えよということでもある。

最近の記事

<< 2025/11
01
02 03 04 05 06 07 08
09 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

このブログについて

時事問題を英語で議論しよう

救世主イエスの言葉を学ぼう!

最近のコメント

最近のトラックバック

RSS