「あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マルコによる福音書 第 14 章) (“And you will see the Son of Man sitting at the right hand of the Mighty One and coming on the clouds of heaven.”)2025/09/19 22:53

60 そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。

61 しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。
62 イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。(マルコによる福音書 第 14 章)

60 Then the high priest stood up before them and asked Jesus, “Are you not going to answer? What is this testimony that these men are bringing against you?”

61 But Jesus remained silent and gave no answer. Again the high priest asked him, “Are you the Messiah, the Son of the Blessed One?”

62 “I am,” said Jesus. “And you will see the Son of Man sitting at the right hand of the Mighty One and coming on the clouds of heaven.”

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これは、イエス・キリストが冤罪でユダヤ教の幹部やローマ軍に逮捕され、尋問されたときの受け答えです。ここで、イエスは明確に、自分はキリストであると明言したわけです。キリストとは「救世主」という意味であり、キリスト教という名前はここから来ています。

そして、イエスは、この事件が終わり、イエスが処分された後に、人々はイエスが霊界やこの世でも神様の傍に座し、この世に「天の雲」に乗って来るのを見ると宣言している。

だから、信者は世の終わりが来て、イエスが天国から再びこの世に姿を現すこと、つまり、イエスの再臨を信じている。そのときイエスは、最初の時のように貧しい人間としてではなく、神様の威光を持って現れる。そして、信者を神様の力で救う、というのがキリスト教の教えです。

しかし、そのときに「天の雲」に乗って来るという言葉が何を意味しているのかが問題です。これは、誰にも見える形でこの世にやってくるという意味だと考えられる。また。イエス自身も、東の空から、西の空にまで誰にも見える形で再臨するという意味のことを別の所で述べている。

ところが、これはUFOのような宇宙船に乗って来るということを意味しているのではないか、という説がある。旧約聖書の中のエゼキエル書にエゼキエルが、バビロンのケバル川のほとりで正体不明の奇妙な生きものを見たと記されており、その叙述がUFOを思わせる姿で書かれている。ただし、これは神の戦車である「メルカバー」を見たのだとされている。また、15世紀の聖母マリアと洗礼者ヨハネを描いた、作者不詳の絵の中の背景には、UFOと思われる物体が描かれている。この絵は、「UFOの聖母」として知られている。


また、1917年のファティマの太陽の奇跡という有名な事件があったが、これも、聖母マリアの霊がUFOと共に出現したという説もある。ファティマの奇跡はヴァチカンも認めており、そのときの聖母マリアの第三の予言は今も謎だとされている。

このように、イエスや聖母マリアとUFO、宇宙人とを結びつける説もあり、また、1950年代には、アメリカのアダムスキーという有名なUFO遭遇者が、彼自身、聖書のヨハネの生まれ変わりであり、金星に生まれ変わっているイエスと会ったという説もある。UFOや宇宙人の遭遇者の中には、宗教的に優れた思想を持つようになる人物も多い。

日本の、「奇跡のりんご」栽培家の木村秋則の証言から、UFOや宇宙人が存在するのは明らかだが、彼らとイエス・キリストを結びつけるのは、飛躍が大きすぎると考える人は、まだ多い。しかし、宇宙人も人間に宗教的な生き方を勧めるものもいる。実際に、木村秋則に会った宇宙人は、「人間が心を入れ替えなければ、地球は破滅する」と警告している。

実際、広大な宇宙を光速を超えて飛び回る宇宙人は、霊的能力を持っていると考えられ、霊的存在であるイエス・キリストと何らかの関係があってもおかしくない。「イエス=宇宙人」説は、簡単には受け入れられないが、キリスト教も宇宙的スケールで考えるべきかも知れない。

「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネによる福音書 第 5 章) (“My Father is always at his work to this very day, and I too am working.”)2025/09/17 14:49

15 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。
16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。(ヨハネによる福音書 第 5 章)

15 The man went away and told the Jewish leaders that it was Jesus who had made him well.
16 So, because Jesus was doing these things on the Sabbath, the Jewish leaders began to persecute him.
17 In his defense Jesus said to them, “My Father is always at his work to this very day, and I too am working.”
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これは、安息日に病人を癒したイエス・キリストをユダヤ人たちが責めたときに、イエスが述べた教えです。

ユダヤ教では、安息日には仕事をしてはならないと教えていた。しかし、イエスはその安息日に病人を癒している。それを責められた時に、イエスは「神様は毎日、働いているので、自分も毎日働くのだ」と答えたのです。

これは、勿論、霊的な意味です。また、イエスは神様のことを「わたしの父」と明確に呼んでいる。子が父を見習うのは自然なことです。

神様はこの大宇宙を創造されて以来、常時、霊能力を働かしておられる、という意味です。この世は、そのようにして霊的エネルギーで成り立っているのです。

人間には労働からの休みを取ることは必要ですが、宇宙や大自然の動きは瞬時も止まりません。それは、霊的エネルギーが常時、この世で働いているからです。人間は、そのような神様の働きの恩恵をこうむっている。人間のように、神様が休みを取り、霊的エネルギーの管理を怠れば、この大宇宙の運行もおかしくなり、地球の自然も狂ってしまう。だから、休みのない神様の働きに感謝せよということです。

この大宇宙は科学的な自然の法則に従って動いているというのが、今の世の中の常識です。しかし、なぜ、そのような法則があるのかは、科学では説明できない。なぜ、引力が働くのか、電気が存在するのかは、科学では説明できない。この物質界は、霊界からの霊的エネルギーから生まれたというのが、宗教的な解釈です。つまり、聖書に書かれているように、この世は神様の言葉や想念で、霊的エネルギーが動いて出来上がっているのです。

その霊的エネルギーに関わるイエス・キリストも、常時働くことは自然なのです。イエス・キリストは、単なる人間ではなく、神様の働きをまねるべき存在なのです。神様の作られた自然の法則は、不眠不休で働いている。神様に霊的につながる者も、休むことはないのです。

これは、人間の理解を超えた教えですが、人間の作ったこの世の取り決めなどより、神様の用いる霊的エネルギーやその働きが優先するのは当然です。従って、これは人間に、神様の前での謙虚さの必要性を教えた教えなのです。

「あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」(マタイによる福音書 第 25 章) (You have been faithful with a few things; I will put you in charge of many things.)2025/09/16 22:34

19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。(マタイによる福音書 第 25 章)

19 “After a long time the master of those servants returned and settled accounts with them.
20 The man who had received five bags of gold brought the other five. ‘Master,’ he said, ‘you entrusted me with five bags of gold. See, I have gained five more.’
21 “His master replied, ‘Well done, good and faithful servant! You have been faithful with a few things; I will put you in charge of many things. Come and share your master’s happiness!’

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これは、主人が召使にカネの管理をまかせたときのイエス・キリストのたとえ話です。この主人は、預かったカネで商売をしてそのカネを増やした召し使いをほめたという話しです。

ただし、他の召し使いは、厳しい主人を恐れて、預かったカネを埋めて隠しておき、主人にそのカネを、そのまま返したのだが、主人は、埋めて隠すくらいなら銀行に預けておけば利子を得られただろうにと言って、その召し使いを責めた。

そして、イエスは「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と教訓を与えた。


つまり、神様から与えられた恵みや、幸運、才能などは、自分だけのものにせず、それを活用して人のために役立てよ、ということです。恵みや、幸運、才能などを自分のものにだけしているものは、その恵みなどを神様に取り上げられるという教えです。


これは、信仰心によって宗教的理解を深めても、その内容を自分だけものにしていてはいけない、ということです。修行者なども修業によって霊能力を得ることがあるが、それを自分のものだけにしていてはいけない。霊能力で人々を助けなければ、その霊能力は神様に取り上げられる。

要するに、生きるとは坂を上るようなものです。上るのをやめれば、ずり落ちていく。しかし、上がる努力をしていれば、神様が助けてくれるのです。それは、少しの努力でも良い。小さな一歩を進めれば、やがて一山も二山も登れるチャンスを与えてもらえるのです。

例えば、一人のホームレスを救えば、一つの国を管理する地位が与えられるようなものです。小さくても、正しい方向に進み、神様の御心にかなっていれば、やがて大きな仕事が与えられるのです。

イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。 (ヨハネによる福音書 第 19 章) (Taking Jesus’ body, the two of them wrapped it, with the spices, in strips of linen. This was in accordance with Jewish burial customs.)2025/09/14 22:00

38 そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
39 また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
40 彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。(ヨハネによる福音書 第 19 章)

38 Later, Joseph of Arimathea asked Pilate for the body of Jesus. Now Joseph was a disciple of Jesus, but secretly because he feared the Jewish leaders. With Pilate’s permission, he came and took the body away. 39 He was accompanied by Nicodemus, the man who earlier had visited Jesus at night. Nicodemus brought a mixture of myrrh and aloes, about seventy-five pounds. 40 Taking Jesus’ body, the two of them wrapped it, with the spices, in strips of linen. This was in accordance with Jewish burial customs.

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「トリノの聖骸布」というイエス・キリストの死体をくるんだ布が、イタリアのトリノの教会に展示されている。それは、2千年前の亜麻布だといわれている杉綾織の布で、本体は、縦4.41m、横1.13mの大きさでイエスの顔や全体像が映っている。ただし、どのようにしてイエスの姿がこの聖骸布に移ったのかは科学的に解明されていない。

「香料を入れて亜麻布で巻いた 」というこの聖書の記述がその根拠になっている。ただし、1988年の欧米の大学による放射性炭素年代測定では、この布自体の織布期は1260年から1390年の間だと推定された。ただし、この測定にはさまざまな問題があり、まだ決着はしていない。

1898年にイタリアの弁護士・アマチュア写真家セコンド・ピアが、初めて聖骸布の写真を撮影した。本物の布の表面は不鮮明だが、その写真のネガにはイエスの姿が明瞭に映っていた。1983年にサヴォイ家からローマ教皇に所有権が引き渡され、以降はトリノ大司教によって管理されている。カトリックでは、聖なる布として扱われている。

この聖骸布の来歴は、イエスの処刑後、イエスを信じていた王のいるエデッサ(現在のトルコ)に運ばれ、その後、布は東ローマ帝国のコンスタンティノープルに移るが、その後、十字軍によってコンスタンティノープルが略奪され、十字軍に参加していたフランス人によってフランスに持ち込まれた。その後、長らく失われたとされていた聖骸布が次に登場したはフランスのリレーという町で、1353年のことである。1453年にサヴォイア家の所有となってシャンベリーに移されてから、1983年まで、サヴォイア家が聖骸布を守り続けていたが、トリノがサヴォイア家の首都となった1578年以来、トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。

ヨーロッパでは、さまざまな聖遺物と呼ばれるイエスを記念する遺物が多いが、この聖骸布は別格の存在感を持っている。

いずれにしても、霊的な能力を持っていたイエス・キリストが肉体の命を失っても、肉体は霊体に変換したと思われる。その際に、墓の中で体を包んでいた布に、肉体が霊体に変化する際のエネルギーが痕跡を残したものと思われる。科学では解明できない宗教的神秘です。

カトリックは、このように霊的問題にオープンです。だから、悪魔祓いなども教会として行っている。宗教とは、霊的問題なのです。

「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカによる福音書 第16章) (You cannot serve both God and money.)2025/09/12 22:23

13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。(ルカによる福音書 第16章)


13 “No one can serve two masters. Either you will hate the one and love the other, or you will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and money.”

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神を選ぶか富を選ぶか、どちらかだ、というのがイエス・キリストの教えの核心です。要するに、信仰心を持って生きるか、カネを愛して生きるかということです。

悪魔の影響下のこの世では、人間的な問題は全てカネで解決できるという思想が主流です。これが、物欲を中心とした世の中の流れを支配している。しかし、イエスはこの世の問題は全て信仰と愛で解決せよという教えです。

あくまで、この世は霊界の下にあり、霊界からこの世ヘは霊的なエネルギーが流れ込んでおり、霊的なエネルギーを使えれば、この世の問題も解決できる。そして、霊的エネルギーを使うには、神様への信仰心が必要です。また、神様は善なる存在であり、神と隣人への愛がなければ、霊的エネルギーは使えない。

反対に、物欲に駆られ、物質的な解決を霊的な解決より優先すれば、悪魔の誘惑に従って、カネを求める生活になる。物質文明の世の中では、科学・技術がもたらす快適性、快楽性、快感性を人は求めて、物質的な豊かさに必要なカネと富を求めるようになり、霊的な教えを軽んじるようになる。つまり、神より富を求める生き方をするようになるのが、この世の人々の生き方です。

しかし、科学をどこまで極めても、物質世界は霊界から霊的エネルギーでもたらされるものなので、人間は霊的な充足感は得られない。どんなに、物質的に豊かな生活をしても、人は精神的/霊的な満足は得られない。

さらに、この世での死後の後、人の心、精神、霊はこの世を去って霊界に入る。そこで、人の魂は霊界がこの世に優先する世界であり、本当の世界は物質界ではなく、霊界だということに気づく。

ただし、霊界には聖霊や天使だけではなく、悪魔や悪霊がいる。悪魔や悪霊もこの世に浸透する。悪魔や悪霊をこの世に呼び込んでいるのは人間の欲望です。カネや富を求める人間の心が、悪魔や悪霊をこの世に呼び込んでいる。それに対抗するには、神様への信仰と愛をもつことです。神様への信仰と愛によって、悪魔や悪霊を退散させることができる。

神様を愛し、カネや富と結びついた悪魔を憎むことで、人はこの世で真実の幸福感を得ることができる。具体的には、清貧生活をし、聖書を学ぶことで人は、この世の不幸や悲劇、さまざまな問題を解決できるのです。


そのようにして霊的なエネルギーが使えれば、心霊治療もでき、奇跡を起こして自然災害も克服でき、超科学的な文明を打ち立てることができる。

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