「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」 (ヨハネによる福音書 第 10 章) (The good shepherd lays down his life for the sheep.) ― 2026/10/01 00:08
11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)
11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
+++ +++ +++
AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。
なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。
さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com) 迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。
実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。
多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。
これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。
つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。
それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。
世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。
しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。
仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。
信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。
「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。
また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)
11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
+++ +++ +++
AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。
なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。
さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com) 迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。
実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。
多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。
これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。
つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。
それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。
世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。
しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。
仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。
信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。
「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。
また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。
あなたの宝のある所には、心もある (マタイによる福音書 第 6 章) (where your treasure is, there your heart will be also) ― 2026/10/01 13:33
19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイによる福音書 第 6 章)
19 “Do not store up for yourselves treasures on earth, where moths and vermin destroy, and where thieves break in and steal.
20 But store up for yourselves treasures in heaven, where moths and vermin do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
21 For where your treasure is, there your heart will be also.
+++ +++ +++
このイエス・キリストの言葉、「あなたの宝のある所には、心もある」は、印象深い教えです。
また、「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」という教えは、この世ではなく、死後の霊界の天国に自分の宝をたくわえよ、という教えです。
神様や、イエス・キリストの教え、聖霊や大霊の教えに従って生きる人の心は、既にこの世を離れており、その人の心は、この世ではなく、霊界の天国にあることになる。その人の心は、もはやこの世の損得、上下関係、好き嫌いの考えを去って、神様の判断、基準がその人の価値観を決めている。その人の心が霊界の天国にあれば、もはや、この世の何物によっても脅かされることはない。
そういう人は、この世で喪失感や孤独、絶望、恐怖、失意、混乱などには襲われない。悪魔ですら、もはやその人を誘惑できないし、攻撃すらもできないのです。自分の宝が、悪魔も手が出せない天国にあれば、安心して神様の教えに従って、生きていくことができる。
これが、人間にとって最良のベストの生き方なのです。
この世では、人は自分の宝、たいていは、その人の命や財産、富をもたらすさまざまな秘密、人間関係、特権や地位、肩書にこだわる。そして、それらを守るために、悪魔と手を握ってすら、自分の宝を守ろうとする。社会で全員がそのような生き方をしていれば、社会全体が地獄になる。
しかし、自分の宝が天国で神様や天使に守られていることを知っている者は、悪魔の誘惑や計略、脅しには耳を貸さない。まさに、大船に乗ってこの世の激流を渡っているのです。
仏教では、全ての欲望と執着を離れよと教える。最後に人間が執着するものは、自分の命です。自分の命を守ろうとして、人はあらゆる悪を必要悪だとして正当化する。だから、もはや個人の命のない世界が、仏教では最高の境地だとされている。
しかし、そうすると神様すら存在しない世界が最高の世界だということになる。そこには、悪魔は存在しないが、人間の心も存在せず、神様を讃える天使もおらず、神様すら存在しない。要するに、全ての存在するものを否定することになる。
神様は「私はあって、ある者である」とご自分のことを人間に知らされた。つまり、全て存在するものは、神様が存在するから存在することになる。だから、神様が存在しようと意志されたから天国や霊界が生じ、その下に物質界や人間界が存在するのです。人間は、その神様の意思の中で存在が許されたものであり、最初からその存在は、神様に依存しているのです。
だから、神様のいる天国に、人間にとっての一番大事な宝、つまり、自分の命を置いておくのが当然であり、最も安全な生き方だということになる。
このイエスの教えは、「神とは何か」や「人間の価値判断の源は何か」いう問題や、「人間を脅かすものとは何か」などという。根本的な問題と関係する。
つまり、全ての問題は、神様が直接支配されている霊界の天国にいれば解消する。世の中でさまざまなことで悩んでいても、天国と言う自宅に帰れば、全ての問題が解決するようなものです。その自宅に神様がおられるからだ、というのがイエス・キリストの教えなのです。
ただし、どんな教えを聞いても、心の底で、或は、魂の中で万物の創造主、支配者、所有者の神様のご威光を認めない人間は、それが理解できず、自己中心の考えに陥り、やがては、悪魔と手を組んで、間違った、或いは、狂った生き方をするようになる。
そうならないように、イエス・キリストは、まず、霊界とこの世の真理を人間の教えておられるのです。
「自分の宝は天国に積み、天国のことを常に考えよ」という教えです。この意味で、そのような人間は、この世の存在というより、霊界の天国の住人だということになる。そして、そういう人間は、この世でも無意識で霊能力が使えるようになる。
ただし、そのような霊格は、人格がそうであるように、無限の段階があり、無限の態様がある。霊界からこの世を監視している天使たちにとって、この世は見飽きることはないのだろう。それが、人間は人生を楽しむべきだという教えにもつながるが、そのような世界を離れてこそ、神様に近づけるのだという教えもある。
結局、人間は自分の宝を抱えて、神様の恵みの中で平安に生きるのが、幸福だということになる。その最低条件が、神様やイエス・キリスト様への信仰心を持つことなのです。
神様やイエス・キリストの言葉は、人間なら直観で分かるようにできている。よく考えて見れば、イエス・キリストの教えは、全く当然のことなのです。宝は安全な所に積むべきなのです。
20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイによる福音書 第 6 章)
19 “Do not store up for yourselves treasures on earth, where moths and vermin destroy, and where thieves break in and steal.
20 But store up for yourselves treasures in heaven, where moths and vermin do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
21 For where your treasure is, there your heart will be also.
+++ +++ +++
このイエス・キリストの言葉、「あなたの宝のある所には、心もある」は、印象深い教えです。
また、「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」という教えは、この世ではなく、死後の霊界の天国に自分の宝をたくわえよ、という教えです。
神様や、イエス・キリストの教え、聖霊や大霊の教えに従って生きる人の心は、既にこの世を離れており、その人の心は、この世ではなく、霊界の天国にあることになる。その人の心は、もはやこの世の損得、上下関係、好き嫌いの考えを去って、神様の判断、基準がその人の価値観を決めている。その人の心が霊界の天国にあれば、もはや、この世の何物によっても脅かされることはない。
そういう人は、この世で喪失感や孤独、絶望、恐怖、失意、混乱などには襲われない。悪魔ですら、もはやその人を誘惑できないし、攻撃すらもできないのです。自分の宝が、悪魔も手が出せない天国にあれば、安心して神様の教えに従って、生きていくことができる。
これが、人間にとって最良のベストの生き方なのです。
この世では、人は自分の宝、たいていは、その人の命や財産、富をもたらすさまざまな秘密、人間関係、特権や地位、肩書にこだわる。そして、それらを守るために、悪魔と手を握ってすら、自分の宝を守ろうとする。社会で全員がそのような生き方をしていれば、社会全体が地獄になる。
しかし、自分の宝が天国で神様や天使に守られていることを知っている者は、悪魔の誘惑や計略、脅しには耳を貸さない。まさに、大船に乗ってこの世の激流を渡っているのです。
仏教では、全ての欲望と執着を離れよと教える。最後に人間が執着するものは、自分の命です。自分の命を守ろうとして、人はあらゆる悪を必要悪だとして正当化する。だから、もはや個人の命のない世界が、仏教では最高の境地だとされている。
しかし、そうすると神様すら存在しない世界が最高の世界だということになる。そこには、悪魔は存在しないが、人間の心も存在せず、神様を讃える天使もおらず、神様すら存在しない。要するに、全ての存在するものを否定することになる。
神様は「私はあって、ある者である」とご自分のことを人間に知らされた。つまり、全て存在するものは、神様が存在するから存在することになる。だから、神様が存在しようと意志されたから天国や霊界が生じ、その下に物質界や人間界が存在するのです。人間は、その神様の意思の中で存在が許されたものであり、最初からその存在は、神様に依存しているのです。
だから、神様のいる天国に、人間にとっての一番大事な宝、つまり、自分の命を置いておくのが当然であり、最も安全な生き方だということになる。
このイエスの教えは、「神とは何か」や「人間の価値判断の源は何か」いう問題や、「人間を脅かすものとは何か」などという。根本的な問題と関係する。
つまり、全ての問題は、神様が直接支配されている霊界の天国にいれば解消する。世の中でさまざまなことで悩んでいても、天国と言う自宅に帰れば、全ての問題が解決するようなものです。その自宅に神様がおられるからだ、というのがイエス・キリストの教えなのです。
ただし、どんな教えを聞いても、心の底で、或は、魂の中で万物の創造主、支配者、所有者の神様のご威光を認めない人間は、それが理解できず、自己中心の考えに陥り、やがては、悪魔と手を組んで、間違った、或いは、狂った生き方をするようになる。
そうならないように、イエス・キリストは、まず、霊界とこの世の真理を人間の教えておられるのです。
「自分の宝は天国に積み、天国のことを常に考えよ」という教えです。この意味で、そのような人間は、この世の存在というより、霊界の天国の住人だということになる。そして、そういう人間は、この世でも無意識で霊能力が使えるようになる。
ただし、そのような霊格は、人格がそうであるように、無限の段階があり、無限の態様がある。霊界からこの世を監視している天使たちにとって、この世は見飽きることはないのだろう。それが、人間は人生を楽しむべきだという教えにもつながるが、そのような世界を離れてこそ、神様に近づけるのだという教えもある。
結局、人間は自分の宝を抱えて、神様の恵みの中で平安に生きるのが、幸福だということになる。その最低条件が、神様やイエス・キリスト様への信仰心を持つことなのです。
神様やイエス・キリストの言葉は、人間なら直観で分かるようにできている。よく考えて見れば、イエス・キリストの教えは、全く当然のことなのです。宝は安全な所に積むべきなのです。
最近のコメント