「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。」2025/06/20 22:04

「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書 14:13~14)

And I will do whatever you ask in my name, so that the Father may be glorified in the Son. You may ask me for anything in my name, and I will do it.
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これは、イエス・キリストが、いずれ自分はこの世を去ると弟子たちに宣言したときに、イエスの弟子たちに与えた重要な言葉です。

何でも願い事はかなえてやると宣言したのです。ただし、イエス・キリストの名において、願い事をしなければならない。また、それは弟子たちのためではなく、神様がその子であるイエスを通して、神様の全能性を表し、栄光を人々や霊たちから受けるためでなければならない。

つまり、願い事をする弟子たちのためではなく、神様とイエスの栄光を現すために、それに相応しい願い事であればかなえてやる、ということです。

例えば、悪魔のように、自分も神になりたい、などという願いは叶えられない。また、世界一の金持ちになりたい、などというイエスの教えに反するような願いも受け入れられない。ただし、病気が治って神様への祈りが自由にできるようになりたい、という信仰心のある願い事は聞き入れられる。

また、日本人一般のように、年始年末だけ神社や仏閣に参詣して、利己的な願い事をするようでは、願いは叶えられない。神仏の方に問題があるのではなく、人々の方に問題があるから願い事は叶わないのです。

まず第一に、弟子たちはイエスの霊能力を知っているので、イエスには自分たちの願いを実現してくれる力のあることを知っていた。そのうえで、イエスは願い事を叶えるのは神様であり、自分はそれを取り次ぐだけだと述べている。イエスも、利己的な不適切な願い事を神様に伝えるわけにはいかない。願い事を実現してやることで、全知全能の神様の力が現れ、この世の人々や霊界の霊たちが、神様に栄光を帰すようにならなければならない。要するに、願い事をする人間のためではなく、また、イエスのためでもなく、神様のために人々の願い事が実現するのです。

そもそも、神様が霊界と物質界を造られたのは、誰のためでもなく、ご自分の力を証明するためだったと考えられる。当然、神様から存在を与えられた霊界の霊や、物質界の人間は、神様に感謝し、神様をほめたたえなければならない。そのうえで、神様が霊や人間の願い事を取り上げることになる。要するに、勘違いをするな、ということです。ただし、神様を崇拝し、神の子のイエスを信じる者は、願い事が聞き入れられる。

これは、厳しくも、有難い教えです。

また、願い事が神様、イエス様に受け入れられても、どのように実現するかは誰にも分からない。家族を幸福にするには、カネが必要だと思って神様にカネを得ることを願っても、カネは悪魔の化身だと知っている神様は、カネではなくその本人の人間関係を改善し、周囲の者から援助を受けることができるようにして、その家族を幸福にする。

さらに、願う本人が、今までさんざん悪魔の教えに従って生きていたのに、それを棚に上げて、より力の強い神様やイエス様に願い事をしても、まず、その信仰心が本物になるまで様子を見られる。だから、多くの試練を与えて、信仰心を試し、鍛えた後で、利己的な願いでなければ、聞き入れられる。悪魔より、神様やイエス様の方が上だと気が付いて、本当の信仰心を持つのを回心するという。この回心がなければ、何を願っても空回りするだけです。

そのような、正しい願い事のできる人間は、1億人に一人くらいしかいない。だから、普通は神様への願い事は叶わない。日本の神仏を通して、唯一、絶対の神様に願い事をしても、まず、聞き入れられることはない。

それなら、真剣に願った後で、願い事は忘れて、自分の力で全力で問題に取り組むべき、と言う教えが出てくる。あるいは、願ったことは既に霊界ではかなったと考えて、この世で実現するのを持つべきだという教えも出てくる。また、願いは完了形の言葉で行い、既に実現したものとして生きていくべきだという教えも出てくる。要するに、神様への信仰心が、自分の願い事より大事だという事です。

無限の力を持つ神様の意図は、有限の力しかないない人間には分からない。人間となって、霊能力が制限されているイエスにも、無条件に願い事を叶えてやる力はない。それでも、神様やイエス様への信仰心を失わないのが、人間の取るべき態度なのです。

人間の目には、不幸のどん底にいても、神様やイエスの栄光を感じて生きることができれば、本人の魂は救われていることになる。

戦争や災害で多くの人が死ぬが、信仰心はそういうこの世から霊界まで有効なのです。何があっても、感謝の気持ちを失わないのが、本当の信仰心です。そういう人間の願い事は、ストレートに叶うことが多い。

いずれにしても、この世で願い事は叶わなくても、死後の霊界では、願いは全て実現することを信じていれば、何も問題はない。だから、この世では無欲でよい、ということになる。神様の栄光を毎日、感じて生きているのなら、それで十分なのです。これが、本当の信者です。

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