『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』(Man shall not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.) (マタイによる福音書 4:3~4) ― 2025/07/27 22:26
The tempter came to him and said, “If you are the Son of God, tell these stones to become bread.”
Jesus answered, “It is written: ‘Man shall not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.'”
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイによる福音書 4:3~4)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが聖霊によって荒野に導かれたときに、悪魔がやってきてイエスの欲を刺激して、神様の教えを忘れさせようとしたときの話です。新約聖書で最も有名な「人はパンだけで生きるものではない」というイエスの言葉が出されたときの情景です。
神様から霊能力を与えられているイエスは、食物でも飲み物でも自由に得ることができる。それを、自分の欲のために使えと、悪魔(試みる者)はイエスを誘惑したのです。
しかし、イエスは、飲食のために霊能力を使うことを拒絶した。その理由は、人が生きるのに必要なものは、神様の言葉だということを明らかにするためです。飢えや渇きは、神様が与えられた運命であり、それを霊能力で解決するよりも、神様の言葉を考えて生きることが大事であり、その中で飢えや渇きも自然と解決すると述べたのです。
神様の言葉を信じない者は、飢えや渇きで死んでも仕方がないという意味にも取れるが、そのような狂信ではなく、飢えや渇きにこだわる前に、神様の言葉を考えよということです。そうすれば、神様が助けてくれると信じることが重要なのです。霊能力を使えば、何でもできるが、全ては神様の思いに従わねばならない。食物ですら、神様の言葉に従って生きる中で与えられるのだということです。
そもそも、死後、霊界に入れば、もはや飢えることも、渇くこともない。この世の飲食のために、霊能力を使うことは正しい生き方ではない。神様の教えに従っていれば、神様は生きるのに必要なものは全て与えてくれる。なぜなら、神様はご自分に従う者が滅びることは、よしとされないからです。
従って、欲を満たすためにカネを出来るだけ多く得ようとするのは、信仰心のなさを示している。必要なものは、カネを得ようとしなくても、神様の言葉に従って生きていれば与えられる。
しかし、荒野で飢え死にしようとしているときに、なぜ霊能力を使わないのかと、悪魔に聞かれたときに、問題は自分の命ではなく、神様への信仰心だという意味のことを述べるのは、普通の霊能力者にはできない。
明らかに、イエス・キリストは死を恐れていないことが、この言葉から分かるのです・・・
Jesus answered, “It is written: ‘Man shall not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.'”
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイによる福音書 4:3~4)
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これは、イエス・キリストが聖霊によって荒野に導かれたときに、悪魔がやってきてイエスの欲を刺激して、神様の教えを忘れさせようとしたときの話です。新約聖書で最も有名な「人はパンだけで生きるものではない」というイエスの言葉が出されたときの情景です。
神様から霊能力を与えられているイエスは、食物でも飲み物でも自由に得ることができる。それを、自分の欲のために使えと、悪魔(試みる者)はイエスを誘惑したのです。
しかし、イエスは、飲食のために霊能力を使うことを拒絶した。その理由は、人が生きるのに必要なものは、神様の言葉だということを明らかにするためです。飢えや渇きは、神様が与えられた運命であり、それを霊能力で解決するよりも、神様の言葉を考えて生きることが大事であり、その中で飢えや渇きも自然と解決すると述べたのです。
神様の言葉を信じない者は、飢えや渇きで死んでも仕方がないという意味にも取れるが、そのような狂信ではなく、飢えや渇きにこだわる前に、神様の言葉を考えよということです。そうすれば、神様が助けてくれると信じることが重要なのです。霊能力を使えば、何でもできるが、全ては神様の思いに従わねばならない。食物ですら、神様の言葉に従って生きる中で与えられるのだということです。
そもそも、死後、霊界に入れば、もはや飢えることも、渇くこともない。この世の飲食のために、霊能力を使うことは正しい生き方ではない。神様の教えに従っていれば、神様は生きるのに必要なものは全て与えてくれる。なぜなら、神様はご自分に従う者が滅びることは、よしとされないからです。
従って、欲を満たすためにカネを出来るだけ多く得ようとするのは、信仰心のなさを示している。必要なものは、カネを得ようとしなくても、神様の言葉に従って生きていれば与えられる。
しかし、荒野で飢え死にしようとしているときに、なぜ霊能力を使わないのかと、悪魔に聞かれたときに、問題は自分の命ではなく、神様への信仰心だという意味のことを述べるのは、普通の霊能力者にはできない。
明らかに、イエス・キリストは死を恐れていないことが、この言葉から分かるのです・・・
「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(sell your possessions and give to the poor)(マタイによる福音書 19:21) ― 2025/07/14 23:43
Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(マタイによる福音書 19:21)
+++ +++ +++
イエス・キリストのもとに、金持ちの若者が来て、モーゼの十戒の教えを守っているが、さらに、永遠の命を得るにはどうすればよいか、と尋ねたときのイエスの答えです。
つまり、持ち物を売って、それで得たカネを貧しい人に与えれば、天国に宝を積むことになり、さらに、イエスに従えば、天国に入る生き方をできる、という教えです。
この世の貧乏人を助けるという善行をすれば、天国に宝を積むことになる。この世の財産と違って、天国の宝は死後の霊のために役立つ。霊格を高めるのに役立つ。
モーゼの十戒という道徳的な教えだけでは、まだ、天国に入って永遠の命を得ることはできない。天国に宝を積まなければ、天国には受け入れてもらえない。これは、霊的な話です。この世では、財産やカネがあれば、物質的には幸福になり、死後も天国に入れてもらえると考えるものだが、実際は、地獄に落とされる、という意味の教えをイエスはしている。
霊界の天国に入るには、この世の財産やカネは役に立たず、また、この世で道徳的な生き方をしているだけでは、天国に受け入れられない。霊的な信仰心を持ち、神様を愛し、自分と同じように隣人を愛さなければならない。そのような生き方をするには、まず、物質的な幸福を捨て、貧しい人々を助け、イエスの教えに従った霊的な生き方をしなければならない。だから、イエスは、道徳的な生き方をしている金持ちの若者に、持ち物を全て売り払い、その代価を貧乏人に与えてから、私に従って生きなさい、と教えたのです。
しかし、金持ちの若者は、イエスの教えを受け入れることができずに去っていった、と述べられている。このように、エリートや富裕層は、その富・財産や特権を失うことを恐れる。だから、彼らは天国に受け入れられることはない。この世の物質的な幸福に執着した者は、霊界で高く評価されず、天国に受け入れられることはできない。しかし、貧しい信仰者は天国で永遠の命を与えられる。つまり、エリートや富裕層は、この世で天国、あの世で地獄、という運命になる。逆に、貧しい信仰者は、この世で地獄、あの世で天国、という運命になる。
死後には、霊界が存在し、霊界は天国と地獄に分かれる。そして、エリートや富裕層は、霊界の天国には入れない、という単純な真理を信じることが霊的な信仰心です。
つまり、エリートや富裕層になってはならない、というのがイエス・キリストの教えです。
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(マタイによる福音書 19:21)
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イエス・キリストのもとに、金持ちの若者が来て、モーゼの十戒の教えを守っているが、さらに、永遠の命を得るにはどうすればよいか、と尋ねたときのイエスの答えです。
つまり、持ち物を売って、それで得たカネを貧しい人に与えれば、天国に宝を積むことになり、さらに、イエスに従えば、天国に入る生き方をできる、という教えです。
この世の貧乏人を助けるという善行をすれば、天国に宝を積むことになる。この世の財産と違って、天国の宝は死後の霊のために役立つ。霊格を高めるのに役立つ。
モーゼの十戒という道徳的な教えだけでは、まだ、天国に入って永遠の命を得ることはできない。天国に宝を積まなければ、天国には受け入れてもらえない。これは、霊的な話です。この世では、財産やカネがあれば、物質的には幸福になり、死後も天国に入れてもらえると考えるものだが、実際は、地獄に落とされる、という意味の教えをイエスはしている。
霊界の天国に入るには、この世の財産やカネは役に立たず、また、この世で道徳的な生き方をしているだけでは、天国に受け入れられない。霊的な信仰心を持ち、神様を愛し、自分と同じように隣人を愛さなければならない。そのような生き方をするには、まず、物質的な幸福を捨て、貧しい人々を助け、イエスの教えに従った霊的な生き方をしなければならない。だから、イエスは、道徳的な生き方をしている金持ちの若者に、持ち物を全て売り払い、その代価を貧乏人に与えてから、私に従って生きなさい、と教えたのです。
しかし、金持ちの若者は、イエスの教えを受け入れることができずに去っていった、と述べられている。このように、エリートや富裕層は、その富・財産や特権を失うことを恐れる。だから、彼らは天国に受け入れられることはない。この世の物質的な幸福に執着した者は、霊界で高く評価されず、天国に受け入れられることはできない。しかし、貧しい信仰者は天国で永遠の命を与えられる。つまり、エリートや富裕層は、この世で天国、あの世で地獄、という運命になる。逆に、貧しい信仰者は、この世で地獄、あの世で天国、という運命になる。
死後には、霊界が存在し、霊界は天国と地獄に分かれる。そして、エリートや富裕層は、霊界の天国には入れない、という単純な真理を信じることが霊的な信仰心です。
つまり、エリートや富裕層になってはならない、というのがイエス・キリストの教えです。
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」 (this happened so that the works of God might be displayed in him) (ヨハネによる福音書 9:1~3) ― 2025/07/10 23:50
As he went along, he saw a man blind from birth. His disciples asked him, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?” “Neither this man nor his parents sinned,” said Jesus, “but this happened so that the works of God might be displayed in him.
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:1~3)
+++ +++ +++
これは、親や先祖の因果が、その子に現れて、病気になるという、当時からあった迷信に対するイエス・キリストの言葉です。
今でも、霊障という言葉で、親や先祖の罪が生み出した霊的な呪いで、子供が病気になる、などという迷信を、インチキ宗教などが人に信じ込ませ、信徒を獲得しようとすることがある。
しかし、イエスはそのような霊障はなく、神様の力と威厳と栄光が現れるために、生まれつきの病気を持った人間が生まれるのだ、と説明されている。
実際、生まれつきの病気を持った子供を、霊能者や心霊治療家に治癒してもらい、奇跡的に病気が癒されたという例もある。霊能者たちは、霊的エネルギーを使って、子供の病気を癒すことができ、霊的エネルギーは神様から与えられるものであり、そのような治療は神様の霊力を表すものだとされている。
霊的エネルギーを使えたイエスは、先天性の病気も治療することができた。これが、欧米の心霊治療の出発点となっている。キリスト教の信仰者が多い、イギリス、フィリピン、ブラジルなどでも、霊的な信仰心の篤い心霊治療家が活躍している。
日本では、まだ心霊治療は健康保険の対象になっていないが、先進国のイギリスでは公的に認められており、アメリカでも霊的な治療や祈りの効果が病人に与える効果が研究されている。
実際、この物質界は、神様が霊界から霊的エネルギーを使って創造されたことを考えれば、人体という物質的な構造体にも霊的エネルギーは働く。イエスだけでなく、霊能力をもった人であれば、霊的治療ができる。むしろ、霊的治療のできることが霊能力の証拠となる。
日本では、明治の初めの長南年恵は、弘法大師への強い信仰心から、霊水を得て、病人を癒していた。また、戦前には熊本の祖先信仰の篤い松下松蔵が心霊治療で多くの人を癒しており、東大医学部の医学博士の塩谷信男がそれを目撃し、報告している。霊的問題に関心の強い塩谷自身も手かざしの治療効果を認めており、昭和天皇の香淳皇后なども私的に治療していた。
イギリスでは、戦後のハリー・エドワーズの心霊治療が有名であり、イギリス王室の人たちも治療を受けたという。エドワーズは、敬虔なクリスチャンでもあり、自分の治癒力は神様が与えてくれたものだと信じていた。
いずれにしても、強い霊的な信仰心を持った人間が霊的治療ができる場合がある。それを、イエスは、神様の威光が現れたと言われたのです。
日本語でも、病は気から、というが、気は霊的状態につながり、霊的状態が悪ければ病気になる。また、霊的状態や気を改善すれば、病は解消する。現代医学の果てには、生命に関わる霊や気の問題がある。医者も謙虚に、心霊問題や霊能力・気を研究すべきです。
また、スポーツ選手でも、さまざまな病気になるが、そのファンの中に霊能者がいれば、霊的な治癒力を送り、選手の病気を癒すこともある。例えば、野球の大谷や水泳の池江なども、そのようにして身体の不調が治ったと思われる。
さらに、高齢者の認知症についても、霊的な信仰心の強い人間は、軽症ですむ。また、自然死で苦しまずにこの世を去ることもできる。
医療の究極の課題は、イエス・キリストの霊的治療を実現することです。
(ただし、現代医療の効果を否定するものではありません。)
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:1~3)
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これは、親や先祖の因果が、その子に現れて、病気になるという、当時からあった迷信に対するイエス・キリストの言葉です。
今でも、霊障という言葉で、親や先祖の罪が生み出した霊的な呪いで、子供が病気になる、などという迷信を、インチキ宗教などが人に信じ込ませ、信徒を獲得しようとすることがある。
しかし、イエスはそのような霊障はなく、神様の力と威厳と栄光が現れるために、生まれつきの病気を持った人間が生まれるのだ、と説明されている。
実際、生まれつきの病気を持った子供を、霊能者や心霊治療家に治癒してもらい、奇跡的に病気が癒されたという例もある。霊能者たちは、霊的エネルギーを使って、子供の病気を癒すことができ、霊的エネルギーは神様から与えられるものであり、そのような治療は神様の霊力を表すものだとされている。
霊的エネルギーを使えたイエスは、先天性の病気も治療することができた。これが、欧米の心霊治療の出発点となっている。キリスト教の信仰者が多い、イギリス、フィリピン、ブラジルなどでも、霊的な信仰心の篤い心霊治療家が活躍している。
日本では、まだ心霊治療は健康保険の対象になっていないが、先進国のイギリスでは公的に認められており、アメリカでも霊的な治療や祈りの効果が病人に与える効果が研究されている。
実際、この物質界は、神様が霊界から霊的エネルギーを使って創造されたことを考えれば、人体という物質的な構造体にも霊的エネルギーは働く。イエスだけでなく、霊能力をもった人であれば、霊的治療ができる。むしろ、霊的治療のできることが霊能力の証拠となる。
日本では、明治の初めの長南年恵は、弘法大師への強い信仰心から、霊水を得て、病人を癒していた。また、戦前には熊本の祖先信仰の篤い松下松蔵が心霊治療で多くの人を癒しており、東大医学部の医学博士の塩谷信男がそれを目撃し、報告している。霊的問題に関心の強い塩谷自身も手かざしの治療効果を認めており、昭和天皇の香淳皇后なども私的に治療していた。
イギリスでは、戦後のハリー・エドワーズの心霊治療が有名であり、イギリス王室の人たちも治療を受けたという。エドワーズは、敬虔なクリスチャンでもあり、自分の治癒力は神様が与えてくれたものだと信じていた。
いずれにしても、強い霊的な信仰心を持った人間が霊的治療ができる場合がある。それを、イエスは、神様の威光が現れたと言われたのです。
日本語でも、病は気から、というが、気は霊的状態につながり、霊的状態が悪ければ病気になる。また、霊的状態や気を改善すれば、病は解消する。現代医学の果てには、生命に関わる霊や気の問題がある。医者も謙虚に、心霊問題や霊能力・気を研究すべきです。
また、スポーツ選手でも、さまざまな病気になるが、そのファンの中に霊能者がいれば、霊的な治癒力を送り、選手の病気を癒すこともある。例えば、野球の大谷や水泳の池江なども、そのようにして身体の不調が治ったと思われる。
さらに、高齢者の認知症についても、霊的な信仰心の強い人間は、軽症ですむ。また、自然死で苦しまずにこの世を去ることもできる。
医療の究極の課題は、イエス・キリストの霊的治療を実現することです。
(ただし、現代医療の効果を否定するものではありません。)
「神の国は一粒のからし種のようなものである」(the kingdom of God is like a mustard seed)(ルカによる福音書 13:18~19) ― 2025/07/09 13:45
Then Jesus asked, “What is the kingdom of God like? What shall I compare it to? It is like a mustard seed, which a man took and planted in his garden. It grew and became a tree, and the birds perched in its branches.”
そこでイエスは言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。それは、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。(ルカによる福音書 13:18~19)
+++ +++ +++
からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度です。
聖書や西洋文学では、最小の単位、最も弱い者、貧しい者をあらわすとされている。2千年前のイエスの時代にも、小粒の種として知られていたので、イエス・キリストはそのたとえ話に用いている。
どんな巨木でも、植物の多くは一粒の種から成長する。指先に乗るような種が、やがて大きく育つのは、自然の驚異です。その種の中には、DNAや遺伝子がある。地上の全生物は共通のDNA構造を持っており、そのDNA分子の機能に従って成長する。だから、地球自体が生物体だという考えもできる。全ての生物は、DNA構造を通してつながっていると考えられる。
ただし、霊的なDNAというものは、まだ見つかっていない。肉体が滅び、肉体のDNAが停止しても、霊的なDNAは生き続け、肉体の死後は、霊は霊界に入る。これが、何十万年の人類の精神史が伝える結論です。肉体の他に、心、精神、霊があるのが人間だということに、古代から人間は気づいていた。それが、さまざまな宗教の基盤になっている。
心を使わない宗教というものはない。しかし、科学では心自体を解明できない。科学者がその心を使って研究し、結局、肉体の中に心を発見できなかったので、心は存在しない、などと狂ったことを考える傾向にある。心を使いながら、心は存在しないと宣言するのが、科学者の限界です。しかし、真実を知っているイエスは、肉体より霊が重要であるとして、霊について多くを語っている。そのような教えの1つが、この言葉です。
からし種のような小さな霊的な信仰心でもあれば、やがて、その信仰心が育って、その人間の人生を形作るようになり、霊的な能力も発揮できるようになり、多くの人に好影響を与え、空を飛ぶ鳥が豊かな木に舞い降りるように、さまざまな霊や人がその人に助けを求めるようになる。このような信仰心のある人が作るのが神の国なのです。
日本語でも、「山椒の実は小さくても、ぴりりと辛い」といって、小さいからといって侮ってはならないと教えている。武術でも、芸術でも名人、達人と呼ばれる人間には小柄な人間が多い、というのもよく知られている。体格が良い人間は、暴力で人を従わせるという安易な考えをもちやすいが、小柄な人間ほど術を磨き、腕を高める工夫をするので、大柄な暴力崇拝者を制することも多い。日本の文化は、そのような伝統の上に立っている。ただし、西洋などでは、体格の大きなことが称賛される傾向にある。だから、ナイフや拳銃のような手軽な武器がよく使用され、小柄な人間をなめることは危険だという考えもある。霊能力は、体格とは関係ない。山をも動かす霊能力があれば、人間の体格など無意味です。
同じように、どんなに大きな植物でも、出発点は小粒の種です。また、偉大な霊能力をもった人間の心も、幼い時に学んだ信仰の教えが出発点になることもある。心の中の純粋な信仰心は、外見からは見えないが、大きな働きを持つDNAや遺伝子のように、いずれは発現して、社会の中で大きな働きをさせるようになる。また、長い歴史の中でも朽ち果てることのない業績をもたらす。
偉大なことも、出発点は小さなことが多い。だから、子供の教育とは、そのような、からし種のような才能を伸ばさせることでなければならない。教会でも、始めは目立たない小さな信者であった人物が、やがて、教会の運命を変えるような働きをすることも多い。
信仰や善行のからし種は、見えない所で成長を続けるものです。
そこでイエスは言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。それは、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。(ルカによる福音書 13:18~19)
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からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度です。
聖書や西洋文学では、最小の単位、最も弱い者、貧しい者をあらわすとされている。2千年前のイエスの時代にも、小粒の種として知られていたので、イエス・キリストはそのたとえ話に用いている。
どんな巨木でも、植物の多くは一粒の種から成長する。指先に乗るような種が、やがて大きく育つのは、自然の驚異です。その種の中には、DNAや遺伝子がある。地上の全生物は共通のDNA構造を持っており、そのDNA分子の機能に従って成長する。だから、地球自体が生物体だという考えもできる。全ての生物は、DNA構造を通してつながっていると考えられる。
ただし、霊的なDNAというものは、まだ見つかっていない。肉体が滅び、肉体のDNAが停止しても、霊的なDNAは生き続け、肉体の死後は、霊は霊界に入る。これが、何十万年の人類の精神史が伝える結論です。肉体の他に、心、精神、霊があるのが人間だということに、古代から人間は気づいていた。それが、さまざまな宗教の基盤になっている。
心を使わない宗教というものはない。しかし、科学では心自体を解明できない。科学者がその心を使って研究し、結局、肉体の中に心を発見できなかったので、心は存在しない、などと狂ったことを考える傾向にある。心を使いながら、心は存在しないと宣言するのが、科学者の限界です。しかし、真実を知っているイエスは、肉体より霊が重要であるとして、霊について多くを語っている。そのような教えの1つが、この言葉です。
からし種のような小さな霊的な信仰心でもあれば、やがて、その信仰心が育って、その人間の人生を形作るようになり、霊的な能力も発揮できるようになり、多くの人に好影響を与え、空を飛ぶ鳥が豊かな木に舞い降りるように、さまざまな霊や人がその人に助けを求めるようになる。このような信仰心のある人が作るのが神の国なのです。
日本語でも、「山椒の実は小さくても、ぴりりと辛い」といって、小さいからといって侮ってはならないと教えている。武術でも、芸術でも名人、達人と呼ばれる人間には小柄な人間が多い、というのもよく知られている。体格が良い人間は、暴力で人を従わせるという安易な考えをもちやすいが、小柄な人間ほど術を磨き、腕を高める工夫をするので、大柄な暴力崇拝者を制することも多い。日本の文化は、そのような伝統の上に立っている。ただし、西洋などでは、体格の大きなことが称賛される傾向にある。だから、ナイフや拳銃のような手軽な武器がよく使用され、小柄な人間をなめることは危険だという考えもある。霊能力は、体格とは関係ない。山をも動かす霊能力があれば、人間の体格など無意味です。
同じように、どんなに大きな植物でも、出発点は小粒の種です。また、偉大な霊能力をもった人間の心も、幼い時に学んだ信仰の教えが出発点になることもある。心の中の純粋な信仰心は、外見からは見えないが、大きな働きを持つDNAや遺伝子のように、いずれは発現して、社会の中で大きな働きをさせるようになる。また、長い歴史の中でも朽ち果てることのない業績をもたらす。
偉大なことも、出発点は小さなことが多い。だから、子供の教育とは、そのような、からし種のような才能を伸ばさせることでなければならない。教会でも、始めは目立たない小さな信者であった人物が、やがて、教会の運命を変えるような働きをすることも多い。
信仰や善行のからし種は、見えない所で成長を続けるものです。
「口から出るものが人を汚すのである」(what comes out of their mouth, that is what defiles them) (マタイによる福音書 15:11) ― 2025/07/09 00:02
What goes into someone’s mouth does not defile them, but what comes out of their mouth, that is what defiles them.”
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。(マタイによる福音書 15:11)
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストがユダヤ教の敵対者の律法学者などを前にして、人々に語った教えです。人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で、自分自身が汚れると教えている。
当時のユダヤ教には多くの戒律があり、食べ物についてもさまざまな制限があった。しかし、そのような戒律は無意味であり、人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で自分の魂を汚すことになる、とイエスは述べている。
当時のユダヤ教は、人々を支配するための宗教となっており、食べ物に至るまで規制をし、許されないものを食べると、汚れるといって人々の生活に干渉していた。しかし、イエスは、人間の魂は食べ物によって汚れることはない。むしろ、魂を汚すのは他人に対する悪意のある言葉だと述べたのです。つまり、イエスの悪口を言う律法学者などは、その悪口で自分自身を汚しているのだと、暗に責めておられる。
どの宗教でも戒律や規則があり、その信徒はそれに縛られる。そのような戒律を守らない者は、地獄に落ちるといって信徒を脅す宗教団体もある。インチキ宗教では、そのような恐怖心を信徒に植え付け、信徒を支配しようとする。多くのお布施を出さないと、地獄に落ちる、不幸になる、罰があたるなどと言って、信徒からカネを巻き上げるのがインチキ宗教団体の常套手段です。
霊的な宗教では、物質的なことは二の次とされる。基本は、魂の救いであり、それを損なう物質的な要素は敬遠すべきだと教えるのが普通です。だから、物質的影響の少ない清貧生活が、霊的宗教では推奨される。
逆に、物質的な要素にこだわり、物質的に豊かな生活をする者は、霊的に貧しい人間になる。現代の商業主義も、人々の魂を貧しくしており、いくら物を手に入れても、心、精神、魂は少しも豊かにならない。物質的な感覚、審美観、物を見る目は肥えるが、霊的な成長には役に立たない。霊的な神聖さを感じる心はマヒして、外見的な豊かさしか理解できなくなる。いわゆる俗物として、カネで換算した価値しか理解できない人間になる。なかには、立派な教会を立てれば、神様に喜ばれるなどと考える牧師もいる。
食べ物にいたるまで、物質的なことは霊には影響しない。人間の善悪の判断に基づく行為や言葉が、霊に影響を与え、その人間の霊格にも影響を与える。だから、物質的に貧しい生活にこだわるな、ということです。何を食べようが、どんなに貧しい食事であろうが、霊の救いには関係ない。
むしろ、質素な食事が霊的な修業には必要なのです。そして、愛のある言葉が霊を清めるのです。
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。(マタイによる福音書 15:11)
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これは、イエス・キリストがユダヤ教の敵対者の律法学者などを前にして、人々に語った教えです。人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で、自分自身が汚れると教えている。
当時のユダヤ教には多くの戒律があり、食べ物についてもさまざまな制限があった。しかし、そのような戒律は無意味であり、人は何を食べても汚れることはないが、人が話す悪意のある言葉で自分の魂を汚すことになる、とイエスは述べている。
当時のユダヤ教は、人々を支配するための宗教となっており、食べ物に至るまで規制をし、許されないものを食べると、汚れるといって人々の生活に干渉していた。しかし、イエスは、人間の魂は食べ物によって汚れることはない。むしろ、魂を汚すのは他人に対する悪意のある言葉だと述べたのです。つまり、イエスの悪口を言う律法学者などは、その悪口で自分自身を汚しているのだと、暗に責めておられる。
どの宗教でも戒律や規則があり、その信徒はそれに縛られる。そのような戒律を守らない者は、地獄に落ちるといって信徒を脅す宗教団体もある。インチキ宗教では、そのような恐怖心を信徒に植え付け、信徒を支配しようとする。多くのお布施を出さないと、地獄に落ちる、不幸になる、罰があたるなどと言って、信徒からカネを巻き上げるのがインチキ宗教団体の常套手段です。
霊的な宗教では、物質的なことは二の次とされる。基本は、魂の救いであり、それを損なう物質的な要素は敬遠すべきだと教えるのが普通です。だから、物質的影響の少ない清貧生活が、霊的宗教では推奨される。
逆に、物質的な要素にこだわり、物質的に豊かな生活をする者は、霊的に貧しい人間になる。現代の商業主義も、人々の魂を貧しくしており、いくら物を手に入れても、心、精神、魂は少しも豊かにならない。物質的な感覚、審美観、物を見る目は肥えるが、霊的な成長には役に立たない。霊的な神聖さを感じる心はマヒして、外見的な豊かさしか理解できなくなる。いわゆる俗物として、カネで換算した価値しか理解できない人間になる。なかには、立派な教会を立てれば、神様に喜ばれるなどと考える牧師もいる。
食べ物にいたるまで、物質的なことは霊には影響しない。人間の善悪の判断に基づく行為や言葉が、霊に影響を与え、その人間の霊格にも影響を与える。だから、物質的に貧しい生活にこだわるな、ということです。何を食べようが、どんなに貧しい食事であろうが、霊の救いには関係ない。
むしろ、質素な食事が霊的な修業には必要なのです。そして、愛のある言葉が霊を清めるのです。
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