「あなたがたは、地の塩である」(マタイによる福音書 第 5 章) (“You are the salt of the earth.")2025/11/20 13:02

13 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」(マタイによる福音書 第 5 章)

13 “You are the salt of the earth. But if the salt loses its saltiness, how can it be made salty again? It is no longer good for anything, except to be thrown out and trampled underfoot.”
+++ +++ +++

これは、山上の垂訓と呼ばれるイエス・キリストが山の上から人々に与えた教えの1つです。

「塩」は、日本でも清めのために用いられる。相撲でも土俵を清めるのに力士は塩をまく。また、日本の伝統でも、玄関口を清めるのに塩をまくことがある。イエス・キリストの時代のパレスチナでも塩は清めのために使われていた。塩には水と同じように霊的な意味がある。

神様の信仰者は、そのような霊的な清め効果を出すという教えです。悪魔の影響下で、欲に汚れた社会を信仰者の存在は清めるということです。

エリートや富裕層の背後には悪魔がいる。その悪魔の誘いによって富や地位を求めれば、信仰者もこの世の「塩」ではなくなり、破滅したエリートや富裕層のように世の中から投げ捨てられる。

だから、信仰者は清貧生活をしなければならない。悪魔と結びついて魂の汚れたエリートや富裕層は、この世の汚物のようなものであり、それを清めるのが、貧しくても霊格の高い信仰者なのです。

日本でも、伝統的に優れた僧侶などは例外なく清貧生活をしている。貧しい清貧生活が、魂を清めるのです。物欲から離れた清貧生活が、どの宗教でも信仰者を清めるのです。

物質的繁栄より、霊的な精神の高さが世の中を清めるのです。

「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。」 (ヨハネによる福音書 第 9 章) (“For judgment I have come into this world")2025/11/14 21:50

39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書 第 9 章)

39 Jesus said,[a] “For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind.”

40 Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, “What? Are we blind too?”

41 Jesus said, “If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains.
+++ +++ +++

これは、イエス・キリストが生れつきの盲人を癒し、視力を与えた時の言葉です。

その元盲人は、「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」とユダヤ教の幹部に述べた。

しかし、ユダヤ教の幹部たちは、その元盲人に怒って、部屋から追い出した。その元盲人に会ったイスは、「あなたは人の子を信じるか」と問い、元盲人は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」と言ったので、イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると元盲人は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。

そして、イエスは、ユダヤ教の幹部たちに、「もし、あなたたちが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』 と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と述べられたのです。

この世の真実が見えなければ、何をしても罪にはならないが、この世が見える以上は、真実も見えなければならない。盲人なら、真実が見えなくても罪にはならないが、見える人間だと主張する以上は、罪に問われる。

この世は、悪魔の影響下にあり、その影響で悪をなす人が多い。その悪が見える以上、その悪と戦わない人間は罪人になる。見えるということは、理解することになり、理解は善悪の判断が伴い、その判断に従って行動することが求められる。

この世のエリ-トや富裕層になり、この世の悪を多く見てきた人々は、それだけに神様の教えに従って悪と戦うことを求められており、悪と戦わない人間は罪人だということになる。

イエス・キリストは、人間を悪から救うだけではなく、悪を受け入れ、悪をなす人間も裁くのです。イエスは無条件に人を救うわけではない。

「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」 (ルカによる福音書 第 16 章) (You cannot serve both God and money)2025/11/10 23:11

13 「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
14 欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。
15 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」(ルカによる福音書 第 16 章)

13 “No one can serve two masters. Either you will hate the one and love the other, or you will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and money.”

14 The Pharisees, who loved money, heard all this and were sneering at Jesus.
15 He said to them, “You are the ones who justify yourselves in the eyes of others, but God knows your hearts. What people value highly is detestable in God’s sight.
+++ +++ +++

これは、非常に重要なイエス・キリストの教えです。

人間は、この世で皆、悪魔に洗脳され、カネを求める。世の中が、悪魔の影響下にあって、拝金主義になるように洗脳されている。しかし、神様の教えを信じ、神様を信じる者は悪魔を嫌う。信仰者は拝金主義にはならない。実際、神様は信仰者に生活に必要なものは全て与えられる。カネなど求めなくても、生活ができるように神様は信仰者の面倒を見てくれるものです。

また、「この世の金も銀も神様のものである」という言葉が聖書にもある。つまり、この世の富は全て、神様が人々に与えられたものだという考え方が正しい。悪魔に魂を売って、カネで欲望を満たそうとする者が、拝金主義になり、カネを求める。

しかし、神様は人々の心の中を知っており、人々は欲望を達成するために、神様の教えを憎み、悪魔に魂を売っていることをご存知なのです。表面上は、信仰深い生活を演じながら、心底では欲望を満たすためにカネを求め、そのために密かに悪をなす宗教者の行いも神様はご存知です。

今でも、社会的にはエリートや富裕層として高い地位を得て尊敬されていても、裏では社会を裏切る悪行をなすものは多い。悪魔の影響下の社会で尊ばれる地位にある者は、神様の前では天使たちに嫌われ、富を誇る者は、神様の前では、その正体が暴かれ、地獄に落とされる。

だから、信仰者は清貧生活をして、誰にも羨ましがられることのない貧しい物質生活をするものです。富や地位で他人に羨ましがられる生活をする人間は、霊界では天国に入れない。

まさに、全善の神様を選ぶか、凶悪な悪魔を選ぶかが人間に問われている。悪魔を選べば、一時的にはカネや地位を与えられるが、最後には地獄に導かれる。神様を選べば、貧しくても必要なものは与えられ、心の疾しさのない人生を送り、死後は霊界から天国に引き上げてもらえるのです。

「神様か悪魔か」というのは、イエス・キリストの説教の中心的なポイントです。

「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (Stop judging by mere appearances, but instead judge correctly.)2025/11/08 14:33

21 イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。
22 モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
23 もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。
24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。(ヨハネによる福音書 第 7 章)

21 Jesus said to them, “I did one miracle, and you are all amazed.
22 Yet, because Moses gave you circumcision (though actually it did not come from Moses, but from the patriarchs), you circumcise a boy on the Sabbath.
23 Now if a boy can be circumcised on the Sabbath so that the law of Moses may not be broken, why are you angry with me for healing a man’s whole body on the Sabbath?
24 Stop judging by mere appearances, but instead judge correctly.”
+++ +++ +++

ユダヤ人の仮庵の祭でイエス・キリストが群衆に教えた言葉です。安息日についてモーセの律法を形式的に守るのでなく、安息日に人の全身を丈夫にすることを責めるような、律法の精神に反するようなことをしてはいけない、と述べている。

イエスの時代に、ユダヤ教の教えが形骸化しているのを見て、イエスは、宗教は人のためにあるのだというこよを強調したのです。

外見だけは、信仰心があるようなふりをする人間に対して、宗教は人間の幸福のためにあるのだと延べられたのです。

今でも、信仰心があるようなふりをする宗教家はいくらでもいる。外見に捕われずに正しい判断をせよということです。つまり、悪魔に魂を売った人間は、宗教界にも入り込む。そのような人間は上辺だけは、信仰心があるようなふりをするが、その本心は悪魔の教えに従っており、人々を破滅させようとしている。

あくまで、愛と信仰心に従い、道徳と常識に従って、人を判断せよということです。

「なんのために出てきたのか。預言者を見るためか」 (マタイによる福音書 第 11 章) (what did you go out to see? A prophet?)2025/11/06 20:21

7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
8 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
9 では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。(マタイによる福音書 第 11 章)

7 As John’s disciples were leaving, Jesus began to speak to the crowd about John: “What did you go out into the wilderness to see? A reed swayed by the wind?
8 If not, what did you go out to see? A man dressed in fine clothes? No, those who wear fine clothes are in kings’ palaces.
9 Then what did you go out to see? A prophet? Yes, I tell you, and more than a prophet.

+++ +++ +++

ここで述べられた洗礼者ヨハネはイエスのいとこであり、イエスの先駆者として、ユルダン川でイエスに洗礼を授けた人物です。

このヨハネは、当時の領主ヘロデ・アンティパスが兄の妻のヘロディアと再婚したが、それを非難したため捕らえられ、ヘロディアの娘サロメが母ヘロディアの言葉に従い、ヘロデ王の前で踊った褒美として、洗礼者ヨハネの首を要求したという経緯がある。

つまり、イエスが、その洗礼者ヨハネを預言者以上の者だと称賛した情景です。

神の教えに従って、ヨハネが領主ヘロデとヘロディアの結びつきを人々の間で責めたので、ヘロデはヨハネを逮捕し、ヘロディアは娘のサロメを使って、煙たいヨハネの首をヘロデに切らせようとしたのです。

ここには、悪魔が働いている。ヘロデにも、ヘロディアにも、サロメにも悪魔が入り込んでいる。最も悪質なのはヘロディアです。彼女は、ヘロデと再婚して富と権力を手にしたので、その欲望から娘のサロメを使って、新しい夫のヘロデにヨハネの首を切らせたのです。

そのような、富と権力を持った者の腐敗と堕落を知っているイエスは、自分の命も顧みすに、神の教えに基づいて彼らに抗議したヨハネの勇気を誉めたのです。

結局、イエス・キリストもヨハネも当時のユダヤ教の幹部、ユダヤ人の支配者、権力者などに殺されることになるが、二人とも神の言葉を守るためには、この世の命など惜しくはなかったのです。キリスト教は、そのような命がけの行為から生まれたものです。

今でも、悪魔の影響下にある世界では、信仰者、善人などは、悪魔から攻撃を受ける。つまり、牧師、神父などは、本来はこの世で命をかけて悪魔と戦う仕事なのです。

人々も、心の底では神の言葉を求め、神の言葉を受けた預言者を求めている。それは、当然のことだが、その預言者以上の者が。ヨハネだとイエスは述べている。これは、イエス・キリストとヨハネが霊的に深く結びついていたことが分かるし、彼らはこの世での死など意に介さなかったと思われる。この世での死後、人の魂は霊界で霊となって永遠に生きることができることを彼らは知っていたのです。

イエス・キリストとヨハネは、キリスト教社会のヨーロッパでは、多くの聖画で二人一緒に描かれている。

最近の記事

<< 2025/11
01
02 03 04 05 06 07 08
09 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

このブログについて

時事問題を英語で議論しよう

救世主イエスの言葉を学ぼう!

最近のコメント

最近のトラックバック

RSS