「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」 (マルコによる福音書 第 2 章) (They pour new wine into new wineskins.) ― 2026/09/01 11:54

18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
19 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
21 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。 (マルコによる福音書 第 2 章)

18 Now John’s disciples and the Pharisees were fasting. Some people came and asked Jesus, “How is it that John’s disciples and the disciples of the Pharisees are fasting, but yours are not?”

19 Jesus answered, “How can the guests of the bridegroom fast while he is with them? They cannot, so long as they have him with them. 20 But the time will come when the bridegroom will be taken from them, and on that day they will fast.

21 “No one sews a patch of unshrunk cloth on an old garment. Otherwise, the new piece will pull away from the old, making the tear worse. 22 And no one pours new wine into old wineskins. Otherwise, the wine will burst the skins, and both the wine and the wineskins will be ruined. No, they pour new wine into new wineskins.”
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「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れよ」と、いう良く知られたイエス・キリストの言葉の出展です。

また、この言葉の前に、ご自分を「婚礼の花婿」に譬えておられる。そして、「花婿が奪い去られる日が来る」とご自分の将来を予言しておられる。この悲劇的な予言から、人々の心を変えようとして、「ぶどう酒の革袋」のたとえ話をしたとも考えられる。イエスのこの世の出現が、「新しいぶどう酒」として、人々に宗教的な革新を与えるものだということを意味したのです。そして、「新しい革袋」が意味することは、人々が新たな心をもって、イエスの教えを聞けということなのです。

ユダヤ教の古い考え方で、イエスの言葉を受け入れようとしても、その心からイエスの教えは、あふれ出てしまう、ということなのです、

新しい時代が来た時、古い時代の常識に囚われていては、新しい時代を混乱なく生きてゆくことはできない。まず、心構えを変えなければいけない。

日本の歴史では、大きく世の中が変わったのは、幕末から明治維新にかけての時と、第二次大戦の日米戦争の敗戦の時です。

明治維新のときは、徳川幕府による鎖国の幕藩体制から日本の開国の時代へと変換が行われ、欧米の文明が日本に受け入れられるようになった。この時、徳川幕府はキリスト教を禁止し、仏教を利用して社会の管理を行っていたが、明治政府はキリスト教を社会に受け入れるようになった。ただし、社会自体は旧体制のままであり、明治政府は仏教の代わりに天皇神道を社会の管理に採用した。徳川時代のような、「切支丹禁制」はなくなったが、本当の宗教の自由が促進されたわけではなく、天皇をかついだ薩摩・長州などの侍にとって都合の良い天皇崇拝を国民に求めることになった。

しかし、20世紀の日米戦争で、天皇神道を国民に強要していた日本は、キリスト教国のアメリカに敗戦して、アメリカのキリスト教精神に基づく新憲法を、日本政府が受け入れたことで、日本社会で真の宗教の自由が実現し、仏教の教えもキリスト教の教えも、日本社会で自由に謳歌できるようになった。この憲法のお陰で、戦後の日本の平和と繁栄が保証され、現在まで日本社会は世界でも例を見ないほどの長期の平和と繁栄を享受している。

徳川時代(江戸時代)も、戦国時代のあと、250年以上の平和と経済的安定を実現したが、欧米の科学力を導入した明治政府のもとで、日本社会は大発展し、第二次大戦前には、「国際連盟」の常任理事国になることができた。しかし、この成功に思い上がった日本政府は、伝統的なアジアの覇者である中国との戦争に突き進み、その結果、欧米との摩擦を生み、日本はアジアの覇権国だった中国、及び、世界を植民地支配している欧米の双方と武力衝突することになる。また、第二次大戦の末期には、これもアジア侵略を狙うロシア人のソビエト連邦に裏切られて、日本は歴史上初の外国軍隊による日本占領を経験する。戦後の日本に必要なのは、新たな時代に相応しい社会の革袋、つまり新憲法だったのです。

だから、この新憲法を日本に与えた米軍の総司令官のマッカーサー元帥が、戦後日本の恩人であり、英雄だということになる。しかし、日本はキリスト教精神に基づく新憲法は受け入れたが、天皇を国民の象徴として生き残らせ、天皇は人間宣言をして、天皇神道は表舞台から影を潜めた。ただし、その伝統的な影響力はまだ日本社会に残っており、事実上の国家元首として天皇は日本社会の最上位に存在している。(ただし、法的には天皇には政治力はなく、首相が日本の元首代行の地位にある。日本の主権者は天皇ではなく、国民なのです。)

さらに、世界的に見れば、人類の物質文明がその腐敗と堕落によって行き詰まり、異常気象などの危機を地球に招き、現在の物質文明が終焉しようとしている。ユダヤ人の始祖のアブラハムからイエス・キリストの誕生までが2千年、イエスの死から現在の21世紀までが2千年であり、人類は新たな時代を迎えようとしている、

そのためには、新たな精神を人類は持たなければならない。日本の幕末に、アメリカの黒船が現れて新時代の到来を日本社会に告げたように、21世紀にUFOが公然と現れてもおかしくない。人類は、UFOの出現に耐える社会を持たなければならない。新しい時代は、宇宙時代でもあるのです。新文明は宇宙人(UFO)の存在の許容から始まるのです、

その意味で、矢追純一や韮沢潤一郎のUFO解説は参考になるが、彼らはキリスト教を研究しておらず、新時代がUFOによってもたらされたとしても、宗教的な対応はできない。つまり、万物の創造主の神様と新時代を結びつけることはできない。

そのような物質文明後の新時代が宇宙人によってもたされたとしても、キリスト教精神を学んでいれば、霊界で宇宙人の霊と会ったと主張する18世紀(科学者のニュートンと同世代)の霊能者のスウェーデンボルグは、敬虔なキリスト教徒であったことを知り、キリスト教が宇宙にも拡大できることが理解できる。

21世紀からの新時代には、宇宙人の存在も取り入れた霊的な文明を発展させる必要があり、そのためにも、霊的なキリスト教の研究が必要なのです。

日本人も、まず聖書に親しみ、現憲法の基盤となったキリスト教を研究すべきなのです。

「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」 (マタイによる福音書 第 10 章) (You are worth more than many sparrows.) ― 2026/09/03 11:33

26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 (マタイによる福音書 第 10 章)

26 “So do not be afraid of them, for there is nothing concealed that will not be disclosed, or hidden that will not be made known. 27 What I tell you in the dark, speak in the daylight; what is whispered in your ear, proclaim from the roofs. 28 Do not be afraid of those who kill the body but cannot kill the soul. Rather, be afraid of the One who can destroy both soul and body in hell. 29 Are not two sparrows sold for a penny? Yet not one of them will fall to the ground outside your Father’s care.[b] 30 And even the very hairs of your head are all numbered. 31 So don’t be afraid; you are worth more than many sparrows.

32 “Whoever acknowledges me before others, I will also acknowledge before my Father in heaven. 33 But whoever disowns me before others, I will disown before my Father in heaven.

34 “Do not suppose that I have come to bring peace to the earth. I did not come to bring peace, but a sword.
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これは、イエス・キリストの有名な説教です。

「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」というのは、霊的な言葉であり、人間は肉体は死んでも魂は死なないことを意味しているが、その上さらに、「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と、神様がその死なないはずの人間の魂ですら、滅ぼすことができると、霊界の秘密を明らかにされている。

もちろん、悪魔の霊も滅ぼす力は神様にはある。ただし、悪魔が神様を亡ぼすことなでできないし、神様を傷つけようとすることすら悪魔には許されていない。神様が存在しなくなれば、悪魔も存在できなくなる。それでも、なおかつ神様に逆らのが狂った悪魔なのです。

つまり、霊界の霊的な存在である悪魔にとっても、これは恐ろしい言葉です。神様は悪魔を亡ぼすこともできることも意味されているからです。しかし、悪魔は、どうせ神様に滅ぼされるなら、亡ぶまで少しでも神様の栄光を傷つけてやろうと決心する。これは、悪魔の狂った心の現れです。悪魔は、確信犯的に狂って、どこまでも神様に逆らうことを決心している。正常な人間には、考えられない狂気です。

だから、悪魔に魂を売った人間は矯正できない。彼らは、悪魔の心を反映して、死ぬまで神様の愛と真理に逆らう。どこまでも、彼らは狂っており、どこまでも悪を愛し、どこまでも神様に従う人間を攻撃する。彼らは心の底から、狂気の闇を愛しているのです。

しかし、悪魔やその手先となった悪霊に取り付かれた人間は、人の肉体は殺せても、その魂は殺せない。だから、彼らに肉体を殺されても、人間の魂は霊界で生き続けるのです。このことは、神様に従う善人を励ます言葉です。

また、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と述べて、神様は雀ですら守っておられるが、雀よりも人間は価値があり(神様の教えを知ることができるから)、当然、神様は人間を雀よりも多く守って下さると信徒に保証しておられる。

ただし、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた」と述べて、イエス・キリストの教えは悪魔との偽りの平和ではなく、悪魔との戦いのためであり、弟子や信徒には勇気を持って悪魔と戦えと激励されておられるのです。

これが、キリスト教信者の精神のバックボーンとなり、心の強さの秘密なのです。「自分たちは、最悪でも魂は霊界に入ることができる」と信じることで、肉体の死を恐れなくなった神様の信徒は、命をかけて悪と戦う正義の戦士になれるのです。

それでも、悪魔は神様に従う人間を攻撃する。善人は世の中の悪人に攻撃される。悪魔に魂を売った悪人は、本能的に善良な人を攻撃する。そういう悪人も、最後には悪魔に裏切られ、攻撃される。自分の手先ですら、最後には裏切って苦しめて喜ぶのが悪魔なのです。神様に従っていようが、悪魔に従っていようが、悪魔は神様が造られた人間を苦しめたいのです。狂った悪魔には、味方にした人間ですら攻撃の対象なのです。だから、人間は悪魔と取引ができたり、平和を維持できると思ってはならない。これが、「つるぎ」を持って生きよというイエスの教えの意味なのです。

つまり、人間は物質文明の成功に溺れて、「飲み、食い、歌い」などして、浮かれて生きていてはいけない。物質文明の成功によって安全、安心、快適性、快楽性を手に入れても、人間の心が神様から離れれば、神様の庇護がなくなり、悪魔によって文明が亡ぼされることになる。悪魔は、人間を苦しめて、神様を呪わせ、自分と同じように惨めな気持ちにさせて、地獄に引きずり込み、最後は、悪魔が神様に亡ぼされる時に、道ずれにして、自分と一緒に亡びるようにさせたいのです。そこまで、悪魔は狂っている。

しかし、狡猾な悪魔は大霊や天使のまねをすることができ、また、未熟な人間に自分を神だと思わせ、あるいは、ニゼ・キリストを演じて人々を惑わす。要するに、悪魔にとって人間を騙すことなど、赤子の手をひねるようなものなのです。

だから、イエス・キリストは「つるぎを投げ込む」ために来て、人間に悪魔と戦う力を与えられるのです。

それでも、悪魔はイエスの弟子のユダを使って、イエスの人間としての情けに訴えてイエスの懐に入り込ませ、イエスが人間としてユダの裏切りを受けなければならない状態を作り出し、イエスを死に追い込んだのです。例えば、イエスがユダの裏切りを受け入れなければ、ローマ軍がユダの家族を殺すという状況を作れば、イエスはユダの裏切りを受け入れなければならなくなり、十字架上で刑死することになる。つまり、ユダはイエスのために命を捨てることができても、ユダの家族の命を守るためには、イエスを犠牲にしなければならなくなったのかも知れない。それが、ユダが、ユダヤ教の祭司から銀貨30枚をもらってイエスを裏切った事件の真相かもしれない。ユダは、そのようにカネで問題を解決しなければならくなったのだろう。まさに、カネは悪魔の化身なのです。

しかし、イエス・キリストは、人間は僅かなカネで買われる雀などより価値があり、雀ですら神様に守られているのに、人間を神様が守らないはずはないと、教えられたのです。

このような真理の教えは、「現れてこないものはない」というのがイエス・キリストの教えなのです。それを信じる心をもつのが、イエス・キリストの信者なのです。

「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている (エフィソの信徒への手紙 第 6 章) (“Honor your father and mother”—which is the first commandment with a promise— ) ― 2026/09/03 11:34

子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
2 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
4 父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。
5 僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
6 人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
7 人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
9 主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。
10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 (エフィソの信徒への手紙 第 6 章)

6 Children, obey your parents in the Lord, for this is right. 2 “Honor your father and mother”—which is the first commandment with a promise— 3 “so that it may go well with you and that you may enjoy long life on the earth.”

4 Fathers, do not exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.

5 Slaves, obey your earthly masters with respect and fear, and with sincerity of heart, just as you would obey Christ. 6 Obey them not only to win their favor when their eye is on you, but as slaves of Christ, doing the will of God from your heart. 7 Serve wholeheartedly, as if you were serving the Lord, not people, 8 because you know that the Lord will reward each one for whatever good they do, whether they are slave or free.

9 And masters, treat your slaves in the same way. Do not threaten them, since you know that he who is both their Master and yours is in heaven, and there is no favoritism with him.
10 Finally, be strong in the Lord and in his mighty power. 11 Put on the full armor of God, so that you can take your stand against the devil’s schemes.
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Wikipediaによれば、「『エフェソの信徒への手紙』は、新約聖書中の一書。伝承では紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエフェソ(エフェソス)のキリスト者共同体にあてて書いたものであるという・・・『エフェソ書』は(あるいは小アジアの複数の教会に送られた可能性もあるが)パウロの教えのまとめ的なものである。主なテーマはキリストに従うものの共同体をつくることが父なる神の意志に沿うものだということである」とされている。

まず、親を持つ人間に対して、「子よ「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」」と、親を敬うべきことを述べている。

また、人の主人に仕える召し使いや奴隷に対して、「だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう」と述べて、この世の主人に真摯に仕えることを述べている。

子の立場にいる者や、人に仕える立場にいる者に対して、親や主人に忠実に仕えることを推奨している。ただし、「主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらない」と、霊的な主であるイエス・キリストや神様が公平なお方であることを強調している。

これは、親や主人には逆らってはならない、という日本の伝統的な教えと同じです。そうすれば、人間的なトラブルはなくなり、円満な人間関係が築ける。この教えで、キリスト教徒は大人しい、善良な人間だということになる。日本でも、親や主人に忠実な人間は好かれる。ただし、これはこの世の権威を目上の人や権力者に認めることではなく、あくまで、霊的な主人は天にいる神様やイエス・キリストであることを強調している。

そして、天の神様や主であるイエス・キリストは、人を公平に扱うと信じることが、キリスト教徒であることを意味する。

また、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と、敵は悪魔であることを明確にしている。

つまり、平和で道徳的な生活を送りながらも、悪魔の攻撃に備えよということです。

ただし、悪魔が親や、この世の主人の中に入る場合もある。しかし、「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と、あくまで天の主人であるイエス・キリストに頼って、その偉大な力を得て強く生きろと言っておられる。子や召し使いとして、親やこの世の主人と戦うのではなく、あくまで天の主であるイエス・キリストの力によって対抗せよということです。

この世の権力や権威と、信仰の主である神様やイエス・キリストとの関係のどちらを選ぶかは、しばしば深刻な問題になる。その場合も、親やこの世の主人には逆らうことなく、信仰を選んで、悪魔との戦に備えよというのが、キリスト教の教えになる。

だから、神道や仏教重視の親と論争するのではなく、また、社会のそのような風潮と争うのではなく、平和的に相手の気持ちを尊重しながら生きろということです。

そのためには、天の主であるイエス・キリストへの強い信仰心が必要になる、この強い信仰心で、悪魔の攻撃に備えることができるようになる。

キリスト教は、単に信仰の問題ではなく、道徳的で平和で、祖先を尊重する生き方でもあるのです。

とにかく、悪魔は人間同士を争わせて不幸にし、互いに苦しめ合って破滅させるのが目的なのです。頼りになるのは、公平な天の神様やイエス・キリストなのです。

「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」 (マルコによる福音書 第 10 章) (“Children, how hard it is to enter the kingdom of God!”) ― 2026/09/04 11:21

17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 (マルコによる福音書 第 10 章)

17 As Jesus started on his way, a man ran up to him and fell on his knees before him. “Good teacher,” he asked, “what must I do to inherit eternal life?”

18 “Why do you call me good?” Jesus answered. “No one is good—except God alone. 19 You know the commandments: ‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, you shall not defraud, honor your father and mother.’”

20 “Teacher,” he declared, “all these I have kept since I was a boy.”

21 Jesus looked at him and loved him. “One thing you lack,” he said. “Go, sell everything you have and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”

22 At this the man’s face fell. He went away sad, because he had great wealth.

23 Jesus looked around and said to his disciples, “How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!”

24 The disciples were amazed at his words. But Jesus said again, “Children, how hard it is to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
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これも、福音書(聖書)で有名なイエス・キリストの言葉です。

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という教えは、キリスト教徒なら誰でも知っている。富裕層は、原則として天国に入れない、という意味です。

富裕層は、この世で富の力によって天国のような物質的生活をおくることができるが、死後の霊界では、この世の物質的な富は役に立たないし、意味もないのです。死後は、人の魂とその心は、思ったことは全て叶うので、カネなど必要はないのです。だから、富の力で他人に対する優越感を味わうこともできない。

また、死後は、魂は真理を教えられて、この世の秀才もバカも差がない。なお、美醜も差がない。そして、この世の価値観は無意味なものとなる。

ただし、善悪の判断、愛と憎しみの違い、真と偽の区別は明白になり、神様から発する愛と真理と善の光に耐えられず、愛よりも憎しみを愛し、真理よりも偽りを愛し、善よりも悪を愛する者は、神様の光を避けるように暗闇を求める。そこが地獄になる。つまり、地獄は悪人が霊界で作り出すものなのです。そして、地獄の支配者が悪魔であり、悪人は悪魔の手先とされ、互いに争いに暮れる。悪魔は、自分の手先も互いに争わせて喜ぶ狂った霊なのです。

これに反して、神様の発する愛と善と真理の光を求める者は、霊界の天国へと昇って行き、神様の世界である神界に近づこうとする。やがて、神界の一部となって、永遠の命と幸福を得る。

ただし、人間の心や霊の中に神様がいるわけでもないし、人間が神様になれるわけでもない。ただ、神様の栄光を知ることができるだけです。人間の中にあるのは、神様を求める心だけであり、それは神様、そのものではない。しかし、イエス・キリストは神様の子であり、神様の遺伝子をもっておられる。イエスは、ただの人間ではない。それでも、人間としてこの世を生きられたのです。

悪魔は、この世で自分は神であると、人間をだまし、その化身であるカネや富を崇拝させる。「カネで全てが解決できる」と人間に信じさせるのが、悪魔のやり口なのです。

それに対して、イエス・キリストの教えを信じ、「カネではなく、愛と霊能力で問題を解決する」のが神様やイエス・キリストの信者なのです。この世でも、必要なら神様が奇跡を起こして、人間を救って下さるのです。これを信じるのがイエス・キリストの信者なのです。

この世で、金持ちは幸福で、貧乏人は地獄のような生活をおくるが、あの世の霊界では、それが逆になる。つまり、この世の価値観とあの世の霊界での価値観は逆転する。霊界では、愛と信仰と善と真理だけが意味を持つ。

だから、この聖書の話のように、金持ちの青年は、真理を聞いて「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」のです。

福音書では、「貧乏人は喜べ、天国では満たされる」と書かれている。

このように、物質的な貧富の差は、あの世では、無意味だということです。ただし、他人や他の霊に対する支配欲や優越感を求める心は残り、むきだしの霊的な暴力で互いに争う。それが、地獄なのです。

キリスト教の聖書は。このようにこの世の富を否定しており、他の宗教には見られない「貧民賛歌」を謳っており、昔から「貧者の宗教」と呼ばれている。この世では、富裕層は貧乏人をあざ笑い黙殺するが、この世的な物質的幸福、成功、優越感を求める者は、死後の霊界の天国には入れないのです。

あの世の地獄には、この世の金持ちや成功者が満ち溢れており、悪魔にもっと気に入られようと、互いに争っている。それは、狂った残酷な恐ろしい世界なのです。彼らが神と崇める悪魔自体が狂っている。

しかし、地獄にさす天の光を受け入れる者は、回心し、やがて、一歩ずつ救われる。それが、無限の段階だとしても、人の霊は天国に向かわなければならない、

このような霊界の真理を教えられれば、この世の人間は、ほとんどの者は、物質的な富を捨てて、精神的に謙虚な生活を送る。だから、本当の霊能者は清貧の生活を心がけている。ローマ法王も霊能者なら、貧しい生活をしているはずです。日本の天皇も、霊能者なら貧乏人の生活をしているはずです。

日本人も、物質文明のもたらす富を捨てて、霊的な文明を目指すべきなのです。

それを、イエス・キリストは「天国に富を蓄えよ」と言っておられるのです。

「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」 (ルカによる福音書 第 16 章) ("You cannot serve both God and money.”) ― 2026/09/05 11:34

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。
4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
12 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。 (ルカによる福音書 第 16 章)

16 Jesus told his disciples: “There was a rich man whose manager was accused of wasting his possessions. 2 So he called him in and asked him, ‘What is this I hear about you? Give an account of your management, because you cannot be manager any longer.’
3 “The manager said to himself, ‘What shall I do now? My master is taking away my job. I’m not strong enough to dig, and I’m ashamed to beg— 4 I know what I’ll do so that, when I lose my job here, people will welcome me into their houses.’
5 “So he called in each one of his master’s debtors. He asked the first, ‘How much do you owe my master?’
6 “‘Nine hundred gallons[a] of olive oil,’ he replied.

“The manager told him, ‘Take your bill, sit down quickly, and make it four hundred and fifty.’
7 “Then he asked the second, ‘And how much do you owe?’
“‘A thousand bushels[b] of wheat,’ he replied.
“He told him, ‘Take your bill and make it eight hundred.’
8 “The master commended the dishonest manager because he had acted shrewdly. For the people of this world are more shrewd in dealing with their own kind than are the people of the light. 9 I tell you, use worldly wealth to gain friends for yourselves, so that when it is gone, you will be welcomed into eternal dwellings.
10 “Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much, and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much. 11 So if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches? 12 And if you have not been trustworthy with someone else’s property, who will give you property of your own?
13 “No one can serve two masters. Either you will hate the one and love the other, or you will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and money.”

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このイエス・キリストの言葉、「神と富とに兼ね仕えることはできない」という教えは、聖書の中でも、決定的なイエスの教えです。

これは、この世のカネや富が、神様にさからう悪魔の化身だということを意味しているのです。この世でカネや富を求めて欲望を満たそうとしてはいけない、ということです。

この世の欲望を満たそうとすると、人間はカネや富を求める。そして、そのためには悪魔に魂を売ってでもカネや富を得ようとすることになる。つまり、神様の敵となってカネや富を求める。だから、拝金主義になるな、ということです。

逆に神様への信仰心のある人間は、必要なものは神様が与えてくれると、神様への信頼を失うことはない。イエスは、イエスの名によって神様にお願いすれば、願いは叶うと教えておられる。その祈りが、神様の教えに適っているものであれば確かに実現する。ただし、神様の教えに反していれば実現しない。

多くの場合、人間は神様の教えとは関係のない自分への欲望のために神様に願い事をしようとするので、その願いは叶えられないのです。つまり、願い事をするときは、その願いがどのように社会に役立つものかを考えなければならない。

また、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」と述べて、何ごとにも真剣に取り組むべきことを述べておられる。全ては、神様の許可により存在しているからです。どんな小さなことでも、神様につながるものなのです。そして、悪魔は細部に宿るという諺のように、小さなものごとにこそ、神様への信仰心がためされるのです。

さらに、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」と述べて、たとえ自分のためであっても、隣人への配慮を忘れずに、出来るだけ多くの人を自分の幸運にかかわらせることを勧めている。

そのような、配慮のある人間は、たとえ不正なことをしていても、神様は「利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」と述べて、この世にこだわり、神様への信仰心がなくても、天国のことばかり考えて現実を忘れる信者より利口だと述べている。つまり、神様の信者より、その場、その時代に適した効果的で効率的な方法が分かる不信者もいるということです。つまり、人間社会では、この世に注意を払う人間は、この世を忘れる信仰心だけの人間より有用な場合があるということです。

つまり、この世のことは単純な信仰心だけでは、解決しないことが多い。それでも、問題をカネで解決しようとしてはいけない。それは、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則があるからです。

あくまで、その時代の知恵であっても、この世を円滑に生きるために、仲間を増やして自分も助かる場合には、不正者のやり口でも許容されるということです。とにかく、他人に悪意のない願いであれば、神様は許して下さることがある。だから、人を責めてはならない、とイエス・キリストは教えておられるのです。

それでも、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則を忘れてはならない、状況によっては、柔軟に対応しなければならないが、あくまで、この世のカネや富は悪魔とつながるものであることを忘れるなということです。

まさに、例外のない規則はないという運用は必要だが、原則的な規則は破棄されるわけではない。

そして、神様への捧げものでも、金持ちが義務的に大金を捧げるより、貧乏人の心のこもった喜捨が好ましいのです。

実際、大金の寄付を集めるヴァチカン銀行などは、怪しい噂に包まれている。しかし、貧しい人からの寄付で成り立つ寒村の教会は多くの村民の支えとなって、人々を救っていることが多い。そこに、奇跡が働くのです。まさに、発明家で心霊研究家の故政木和三が言っていたように、無欲であれば、奇跡は起こるのです。

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