わたしが弱い時にこそ、わたしは強い (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (For when I am weak, then I am strong.) ― 2026/09/12 09:59
2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
+++ +++ +++
Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。
「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。
そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。
キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。
しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。
この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。
ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。
生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。
18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。
今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。
それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。
信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。
3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
+++ +++ +++
Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。
「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。
そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。
キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。
しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。
この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。
ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。
生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。
18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。
今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。
それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。
信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。
太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり・・・ (ヨハネの黙示録 第 8 章) (...a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark) ― 2026/09/11 13:50
羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)
8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”
+++ +++ +++
この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。
その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。
「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。
ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。
第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。
そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。
また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。
18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。
実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。
このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。
聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。
さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。
しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。
また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。
いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。
なお、宇宙人にUFOに連れ込まれた、リンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則は、宇宙人から2030年頃に、人類は決定的な運命に見舞われて文明の崩壊に向かうと警告されている。その他、世界中で宇宙人から警告を受けたという人は多い。宇宙人とキリスト教に関係があるとする説もある。
いずれにしても、「ヨハネの黙示録」がキリスト教の新約聖書の中に含まれていいることは、聖霊の働きによると考えれば、やはり、そこに霊的な意味を見出すのが正しい。
このようなキリスト教の内容を日本人は、その霊性に基づいて研究すべきなのです。それが、日本人に与えられた歴史的課題であり、それが日本の存在意義なのです。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)
8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”
+++ +++ +++
この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。
その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。
「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。
ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。
第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。
そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。
また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。
18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。
実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。
このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。
聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。
さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。
しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。
また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。
いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。
なお、宇宙人にUFOに連れ込まれた、リンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則は、宇宙人から2030年頃に、人類は決定的な運命に見舞われて文明の崩壊に向かうと警告されている。その他、世界中で宇宙人から警告を受けたという人は多い。宇宙人とキリスト教に関係があるとする説もある。
いずれにしても、「ヨハネの黙示録」がキリスト教の新約聖書の中に含まれていいることは、聖霊の働きによると考えれば、やはり、そこに霊的な意味を見出すのが正しい。
このようなキリスト教の内容を日本人は、その霊性に基づいて研究すべきなのです。それが、日本人に与えられた歴史的課題であり、それが日本の存在意義なのです。
「女よ、あなたの病気はなおった」 (ルカによる福音書 第 13 章) (“Woman, you are set free from your infirmity.”) ― 2026/09/10 12:46
10 安息日に、ある会堂で教えておられると、
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 (ルカによる福音書 第 13 章)
10 On a Sabbath Jesus was teaching in one of the synagogues, 11 and a woman was there who had been crippled by a spirit for eighteen years. She was bent over and could not straighten up at all. 12 When Jesus saw her, he called her forward and said to her, “Woman, you are set free from your infirmity.” 13 Then he put his hands on her, and immediately she straightened up and praised God.
14 Indignant because Jesus had healed on the Sabbath, the synagogue leader said to the people, “There are six days for work. So come and be healed on those days, not on the Sabbath.”
15 The Lord answered him, “You hypocrites! Doesn’t each of you on the Sabbath untie your ox or donkey from the stall and lead it out to give it water? 16 Then should not this woman, a daughter of Abraham, whom Satan has kept bound for eighteen long years, be set free on the Sabbath day from what bound her?”
17 When he said this, all his opponents were humiliated, but the people were delighted with all the wonderful things he was doing.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが心霊治療を行った話です。
いわゆる「手かざし」で、イエスが病の女性に「手をその上に置かれ」て「あなたの病気はなおった」と言われたときに、その女性の病は癒されたのです。そして、その女性が病になったのは、「サタンに縛られていた」からだと述べられたのです。
しかし、ユダヤ教の会堂司は、「安息日には」病の治しはできない、と言って、自分たちの宗教的権威をひけらかして、病の女性を放置していた。それを、イエスは責めたのです。サタン,つまり悪魔との戦いは安息日でも、放置することはできないのです。
いかにイエスが霊的能力と権威をもっていたかを物語っているエピソードです。従って、イエスの弟子たちにも、霊的能力があり、病の癒しはできたものと思われる。イエスの教えが、人々に受け入れられたのは、この心霊治療の効果が大きい。日本でも、聖者と呼ばれる人は、心霊治療が出来ることが常識だった。ただし、天皇神道の頂点にいる天皇が心霊治療ができたという話しは、古代でもほとんどない。仏教の名僧には、心霊治療ができたと言われる空海などの霊能力者がいたが、厳しい修行が必要だったと言われる。
ただし、厳しい修行をしないでも、神様がその人の霊的状況を見て、霊能力を与えてくれる場合には、本人も説明できないままに、心霊治療ができる場合もある。普通の生活をしていた高塚光も、サラリーマン超能力者となって、心霊治療ができたのは、この場合にあてはまる。ただし、その人間の霊的状態が変われば、神様がその力を取り去る場合もある。
宗教は、霊界に通じる霊能者がいなければ成り立たない。しかし、そこにトリックや魔術と呼ばれる悪魔の力を借りて人々を惑わす者が出てくる場合もある。イエス・キリストは、そのようなニセ予言者などを警戒せよと述べておられる。イエスの時代から、インチキ霊能者はいたのです。彼らの中には、悪魔に魂を売って、悪魔から霊能力を得ている者もいる。霊能力があるからと言って、神様とつながっているとは言えない。だから、カトリックでは、霊能者を聖者と認定するのに、時間をかけて厳しく審査をする。悪魔とつながったものでも、場合によっては心霊治療ができる。
聖書の福音書は、イエス・キリストの霊的力を記したものだが、単なる言行録ではなく、神様の真理と愛の力を、イエス・キリストが表すことができたという信仰を強める書物でもある。だから、聖書には霊能力が宿っていると考えられる。仏教の仏典や神道の祝詞のような、霊能力がキリスト教の聖書にもあると考えるべきです。
そもそも、キリスト教は、言葉は神様から来たという教義から成り立っている。聖書に親しむことで、読者も霊能力が与えられるのです。従って、イエスのように心霊治療が神様から与えらえることも可能なのです。実際に、イギリス、フィリピンやブラジルなどの心霊治療家は敬虔なキリスト教信者が多い。
これは、言葉には霊能力があるという仏教や神道の考えとも一致する。また、日本の修験道などでも、呪文の力を利用している。言葉は言霊(ことだま)と呼ばれて霊能力があると考えるのが、日本人の霊性の特徴なのです。また、お経などは、意味が分からなくても、その音を聞くだけでも効果があるとされ、神道では日本語の音のそれぞれに意味があるとされる。キリスト教で聖歌が好まれるのは、やはり、霊的効果があるからです。音楽は、その心に与える効果を楽しむだけのものではなく、霊的効果を生み出すものでもあるのです。
病の女性に「あなたの病気はなおった」とイエス・キリストが言葉をかけたことにも意味がある。言葉が、霊的な力を運ぶのです。
東大医学部卒の故・塩谷信男は、願ったことを「断言」することで、宇宙の力を得ることができると述べたが、言葉の力は大きいことは、心霊研究者にはよく知られている。だから、宗教家は冗談などは好まない。悪魔が冗談に入り込むと考えるべきです。人生も冗談で生きる者はいない。人生は真剣に生きるものであり、聖霊に導かれて生きるのが正しいのです。
アメリカの医学の研究でも、言葉を使った祈りの治療効果が認められている。願いを込めた言葉と祈りには、霊的効果があり、物質界にも影響が出るのです。ただし、スポーツでファンが応援するチームの勝利を祈っても、神様がすぐに応えることはない。その勝利に、信仰の意味がなければ、そのような祈りは無意味なのです。
また、先の日米戦争では、天皇神道を信じる日本人がどんなに祈っても、キリスト教を信じるアメリカ人に勝てず、戦後は天皇家も神道的性格を隠すようになった。そして、現上皇はキリスト教系の大学の卒業生を妻に迎え、今の天皇はキリスト教国のイギリスに留学している。神道の伝統から言えば、考えられないことです。天皇家はキリスト教を認めていることになる。しかし、日本人を管理するには、神道の伝統に効果があるので、天皇家はキリスト教を公式には取り入れない。かつては、仏教を公式に取り入れたことがあるのだから、天皇家が今、キリスト教を取りれても問題はない。ただし、それでは天皇家に霊能力がないことを明白に認めることになるので、体面上もできないのです。
しかし、天皇家よりも国民の方が大事なので、日本人は世界の主流のキリスト教を学び、聖書を読んで霊能力を身に着け、心霊治療ができるようになるべきです。
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 (ルカによる福音書 第 13 章)
10 On a Sabbath Jesus was teaching in one of the synagogues, 11 and a woman was there who had been crippled by a spirit for eighteen years. She was bent over and could not straighten up at all. 12 When Jesus saw her, he called her forward and said to her, “Woman, you are set free from your infirmity.” 13 Then he put his hands on her, and immediately she straightened up and praised God.
14 Indignant because Jesus had healed on the Sabbath, the synagogue leader said to the people, “There are six days for work. So come and be healed on those days, not on the Sabbath.”
15 The Lord answered him, “You hypocrites! Doesn’t each of you on the Sabbath untie your ox or donkey from the stall and lead it out to give it water? 16 Then should not this woman, a daughter of Abraham, whom Satan has kept bound for eighteen long years, be set free on the Sabbath day from what bound her?”
17 When he said this, all his opponents were humiliated, but the people were delighted with all the wonderful things he was doing.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが心霊治療を行った話です。
いわゆる「手かざし」で、イエスが病の女性に「手をその上に置かれ」て「あなたの病気はなおった」と言われたときに、その女性の病は癒されたのです。そして、その女性が病になったのは、「サタンに縛られていた」からだと述べられたのです。
しかし、ユダヤ教の会堂司は、「安息日には」病の治しはできない、と言って、自分たちの宗教的権威をひけらかして、病の女性を放置していた。それを、イエスは責めたのです。サタン,つまり悪魔との戦いは安息日でも、放置することはできないのです。
いかにイエスが霊的能力と権威をもっていたかを物語っているエピソードです。従って、イエスの弟子たちにも、霊的能力があり、病の癒しはできたものと思われる。イエスの教えが、人々に受け入れられたのは、この心霊治療の効果が大きい。日本でも、聖者と呼ばれる人は、心霊治療が出来ることが常識だった。ただし、天皇神道の頂点にいる天皇が心霊治療ができたという話しは、古代でもほとんどない。仏教の名僧には、心霊治療ができたと言われる空海などの霊能力者がいたが、厳しい修行が必要だったと言われる。
ただし、厳しい修行をしないでも、神様がその人の霊的状況を見て、霊能力を与えてくれる場合には、本人も説明できないままに、心霊治療ができる場合もある。普通の生活をしていた高塚光も、サラリーマン超能力者となって、心霊治療ができたのは、この場合にあてはまる。ただし、その人間の霊的状態が変われば、神様がその力を取り去る場合もある。
宗教は、霊界に通じる霊能者がいなければ成り立たない。しかし、そこにトリックや魔術と呼ばれる悪魔の力を借りて人々を惑わす者が出てくる場合もある。イエス・キリストは、そのようなニセ予言者などを警戒せよと述べておられる。イエスの時代から、インチキ霊能者はいたのです。彼らの中には、悪魔に魂を売って、悪魔から霊能力を得ている者もいる。霊能力があるからと言って、神様とつながっているとは言えない。だから、カトリックでは、霊能者を聖者と認定するのに、時間をかけて厳しく審査をする。悪魔とつながったものでも、場合によっては心霊治療ができる。
聖書の福音書は、イエス・キリストの霊的力を記したものだが、単なる言行録ではなく、神様の真理と愛の力を、イエス・キリストが表すことができたという信仰を強める書物でもある。だから、聖書には霊能力が宿っていると考えられる。仏教の仏典や神道の祝詞のような、霊能力がキリスト教の聖書にもあると考えるべきです。
そもそも、キリスト教は、言葉は神様から来たという教義から成り立っている。聖書に親しむことで、読者も霊能力が与えられるのです。従って、イエスのように心霊治療が神様から与えらえることも可能なのです。実際に、イギリス、フィリピンやブラジルなどの心霊治療家は敬虔なキリスト教信者が多い。
これは、言葉には霊能力があるという仏教や神道の考えとも一致する。また、日本の修験道などでも、呪文の力を利用している。言葉は言霊(ことだま)と呼ばれて霊能力があると考えるのが、日本人の霊性の特徴なのです。また、お経などは、意味が分からなくても、その音を聞くだけでも効果があるとされ、神道では日本語の音のそれぞれに意味があるとされる。キリスト教で聖歌が好まれるのは、やはり、霊的効果があるからです。音楽は、その心に与える効果を楽しむだけのものではなく、霊的効果を生み出すものでもあるのです。
病の女性に「あなたの病気はなおった」とイエス・キリストが言葉をかけたことにも意味がある。言葉が、霊的な力を運ぶのです。
東大医学部卒の故・塩谷信男は、願ったことを「断言」することで、宇宙の力を得ることができると述べたが、言葉の力は大きいことは、心霊研究者にはよく知られている。だから、宗教家は冗談などは好まない。悪魔が冗談に入り込むと考えるべきです。人生も冗談で生きる者はいない。人生は真剣に生きるものであり、聖霊に導かれて生きるのが正しいのです。
アメリカの医学の研究でも、言葉を使った祈りの治療効果が認められている。願いを込めた言葉と祈りには、霊的効果があり、物質界にも影響が出るのです。ただし、スポーツでファンが応援するチームの勝利を祈っても、神様がすぐに応えることはない。その勝利に、信仰の意味がなければ、そのような祈りは無意味なのです。
また、先の日米戦争では、天皇神道を信じる日本人がどんなに祈っても、キリスト教を信じるアメリカ人に勝てず、戦後は天皇家も神道的性格を隠すようになった。そして、現上皇はキリスト教系の大学の卒業生を妻に迎え、今の天皇はキリスト教国のイギリスに留学している。神道の伝統から言えば、考えられないことです。天皇家はキリスト教を認めていることになる。しかし、日本人を管理するには、神道の伝統に効果があるので、天皇家はキリスト教を公式には取り入れない。かつては、仏教を公式に取り入れたことがあるのだから、天皇家が今、キリスト教を取りれても問題はない。ただし、それでは天皇家に霊能力がないことを明白に認めることになるので、体面上もできないのです。
しかし、天皇家よりも国民の方が大事なので、日本人は世界の主流のキリスト教を学び、聖書を読んで霊能力を身に着け、心霊治療ができるようになるべきです。
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」 (コリントの信徒への手紙一 第 1 章) (“I will destroy the wisdom of the wise; the intelligence of the intelligent I will frustrate.”) ― 2026/09/09 13:12
18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
18 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God. 19 For it is written:
“I will destroy the wisdom of the wise;
the intelligence of the intelligent I will frustrate.”
20 Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world? 21 For since in the wisdom of God the world through its wisdom did not know him, God was pleased through the foolishness of what was preached to save those who believe.
+++ +++ +++
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」というのは、神様の前では、謙虚であるべきことを意味している。
この世で天才や秀才と言われ、何かの賞をもらい、巨額の富を築き、成功者だと言われれば、誰でも思い上がる。それを、神様は喜ばない、という教えです。
また、イエス・キリストは、「先生と呼ばれる者には、なってはならない」と、人々より高い肩書をもつことを禁じておられる。しかし、世の中には教育者、宗許家、医者、弁護士、議員、政治家、知識人やエリートなど、先生と呼ばれる者は多い。そういう者になってはならない、ということです。これは、この世の価値観に反する。だから、このようなキリスト教の本当の教えは、この世の教会でも無視する。
実際、この世で先生と呼ばれた者は、死後は霊界で尊敬されない。多くの者は、悪魔の召し使いや奴隷になっている。それは、他の人々に優越感を持ち、神様に対する謙虚さを失ってしまったからです。
悪魔の影響下にあるこの世で、滅びゆく物質文明の中で、他人よりも自分の方が偉いと思って生きる人間は、異常であり狂っているのです。
人間は、どの道でも、修業をし、その道で進歩するほど、自分よりも優れた人間がいることに気が付く。如何に自分が未熟であるかが分かる。そして、どの道でも最高位の人の上に、神様から霊を与えられた人がいる。もはや、人間の心では評価できない人がいる。そういう人間は、未熟な人間には、つまり、普通人には、バカにしか見えない。だから、イエス・キリストも、最初、この世に現れた時は、人々から理解されなかったのだろう。正しくイエスを理解できた霊的に優れた者だけが、イエスの弟子に選ばれたのです。
つまり、本当の天才は、凡人からはバカか狂人かと思われる。しかし、時間がそうでないことを証明し、実績がものを言う。イエスも2千年たてば、世界中でその名を知らない者はない、ほどの人物になっている。
だから、本当の秀才や本当に修業を積んだ人は、人より高い称号や地位を求めない。そんな、思い上がったことをすれば、本当の天才や聖霊にバカにされ、見捨てられるからです。
逆に、この世の金持ちやエリートは、人々から称賛され、羨ましがられるのを好む。それは、悪魔を神だと思っている自分も、神の一種だと信じるようになる狂った姿なのです。それでも、心の奥底では、自分は本当の神様から見捨てられているのではないか、という不安の中に生きている。その不安から逃れるために、ますます、富や肩書やこの世の権力にしがみつき、結果として悪魔にすがる。死後の霊界では、神様から発する愛や真理の光に耐えられず、光から逃れるように闇を求める。つまり、彼らは地獄を求めるのです。
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」というのは、この世のどんな天才も富裕層も神様の前では、愚か者であり、極貧の者だということを意味する。だから、神様への祈りでは、自分の愚かさや貧しさ、無力さを素直に認めることが求められている。
この世の全ての皇帝や王、大統領や教祖、学者、スポーツなどの勝利者も、神様の前では頭を下げなければならない。ローマ法王も同様です。日本の天皇も例外ではない。
つまり、戦前の日本では、人々は天皇を皇帝という権力者とし、また天皇神道の教祖として持ち上げていたが、キリスト教の神様は、日米戦争での日本帝国の敗戦後、キリスト教国アメリカの大統領の下の占領軍事司令官のマッカーサー元帥の下に天皇を置かれたのです。ただし、今でも、神道関係者のなかには、天皇は世界一の霊能力を持っていると信じている者もいるが、歴史がそうではないことを証明している。まだ、空海や日蓮の霊能力の方が天皇家の霊能力より優れていた。
日本の歴史で、日本が発展してきたのは、天皇の霊力ではなく、日本人の優れた霊性・霊能力のお陰です。
だから、そのような霊能力の優れた人間を「新天皇」に選ぶのが、日本の生き続ける道なのです。現天皇家は「旧天皇家」として、政府による特別な保護の下に置けばよい。また、新天皇が霊能力を失えば、さらに、新たな新天皇を選べばよい。
日本人全体が、キリスト教の神様やイエス・キリストに従う者であることを、霊界の神様や大霊やこの世の人々に示すことです。今世紀の日本は、単にキリスト教国になるのではなく、神霊国になることです。
いくら、この世の天才や富裕層やエリートが集まっても、イエス・キリストには勝てないのです。ましてや、人間に命を与える神様の前では、彼らは無と同然なのです。悪魔は、この世では成功者の人間に、思い上がるように仕向けるが、死後の霊界では、彼らを召し使いや奴隷にして痛めつけるのです。悪魔は全ての人間を痛めつけたいのです。なぜなら、神様が人間を造られたからです。悪魔は神様が憎いので、人間まで憎んでいるのです。勿論、悪魔でさえ、神様に存在をゆるされたものなので、悪魔自身も自分を憎むという狂ったことになる。
従って、悪魔の狂気を去って、謙虚さを持つようにならなければ、神様もイエス・キリストも聖書も理解できない。つまり、謙虚さがあれば、悪魔の罠を避けられるのです。
19 すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
18 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God. 19 For it is written:
“I will destroy the wisdom of the wise;
the intelligence of the intelligent I will frustrate.”
20 Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world? 21 For since in the wisdom of God the world through its wisdom did not know him, God was pleased through the foolishness of what was preached to save those who believe.
+++ +++ +++
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」というのは、神様の前では、謙虚であるべきことを意味している。
この世で天才や秀才と言われ、何かの賞をもらい、巨額の富を築き、成功者だと言われれば、誰でも思い上がる。それを、神様は喜ばない、という教えです。
また、イエス・キリストは、「先生と呼ばれる者には、なってはならない」と、人々より高い肩書をもつことを禁じておられる。しかし、世の中には教育者、宗許家、医者、弁護士、議員、政治家、知識人やエリートなど、先生と呼ばれる者は多い。そういう者になってはならない、ということです。これは、この世の価値観に反する。だから、このようなキリスト教の本当の教えは、この世の教会でも無視する。
実際、この世で先生と呼ばれた者は、死後は霊界で尊敬されない。多くの者は、悪魔の召し使いや奴隷になっている。それは、他の人々に優越感を持ち、神様に対する謙虚さを失ってしまったからです。
悪魔の影響下にあるこの世で、滅びゆく物質文明の中で、他人よりも自分の方が偉いと思って生きる人間は、異常であり狂っているのです。
人間は、どの道でも、修業をし、その道で進歩するほど、自分よりも優れた人間がいることに気が付く。如何に自分が未熟であるかが分かる。そして、どの道でも最高位の人の上に、神様から霊を与えられた人がいる。もはや、人間の心では評価できない人がいる。そういう人間は、未熟な人間には、つまり、普通人には、バカにしか見えない。だから、イエス・キリストも、最初、この世に現れた時は、人々から理解されなかったのだろう。正しくイエスを理解できた霊的に優れた者だけが、イエスの弟子に選ばれたのです。
つまり、本当の天才は、凡人からはバカか狂人かと思われる。しかし、時間がそうでないことを証明し、実績がものを言う。イエスも2千年たてば、世界中でその名を知らない者はない、ほどの人物になっている。
だから、本当の秀才や本当に修業を積んだ人は、人より高い称号や地位を求めない。そんな、思い上がったことをすれば、本当の天才や聖霊にバカにされ、見捨てられるからです。
逆に、この世の金持ちやエリートは、人々から称賛され、羨ましがられるのを好む。それは、悪魔を神だと思っている自分も、神の一種だと信じるようになる狂った姿なのです。それでも、心の奥底では、自分は本当の神様から見捨てられているのではないか、という不安の中に生きている。その不安から逃れるために、ますます、富や肩書やこの世の権力にしがみつき、結果として悪魔にすがる。死後の霊界では、神様から発する愛や真理の光に耐えられず、光から逃れるように闇を求める。つまり、彼らは地獄を求めるのです。
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」というのは、この世のどんな天才も富裕層も神様の前では、愚か者であり、極貧の者だということを意味する。だから、神様への祈りでは、自分の愚かさや貧しさ、無力さを素直に認めることが求められている。
この世の全ての皇帝や王、大統領や教祖、学者、スポーツなどの勝利者も、神様の前では頭を下げなければならない。ローマ法王も同様です。日本の天皇も例外ではない。
つまり、戦前の日本では、人々は天皇を皇帝という権力者とし、また天皇神道の教祖として持ち上げていたが、キリスト教の神様は、日米戦争での日本帝国の敗戦後、キリスト教国アメリカの大統領の下の占領軍事司令官のマッカーサー元帥の下に天皇を置かれたのです。ただし、今でも、神道関係者のなかには、天皇は世界一の霊能力を持っていると信じている者もいるが、歴史がそうではないことを証明している。まだ、空海や日蓮の霊能力の方が天皇家の霊能力より優れていた。
日本の歴史で、日本が発展してきたのは、天皇の霊力ではなく、日本人の優れた霊性・霊能力のお陰です。
だから、そのような霊能力の優れた人間を「新天皇」に選ぶのが、日本の生き続ける道なのです。現天皇家は「旧天皇家」として、政府による特別な保護の下に置けばよい。また、新天皇が霊能力を失えば、さらに、新たな新天皇を選べばよい。
日本人全体が、キリスト教の神様やイエス・キリストに従う者であることを、霊界の神様や大霊やこの世の人々に示すことです。今世紀の日本は、単にキリスト教国になるのではなく、神霊国になることです。
いくら、この世の天才や富裕層やエリートが集まっても、イエス・キリストには勝てないのです。ましてや、人間に命を与える神様の前では、彼らは無と同然なのです。悪魔は、この世では成功者の人間に、思い上がるように仕向けるが、死後の霊界では、彼らを召し使いや奴隷にして痛めつけるのです。悪魔は全ての人間を痛めつけたいのです。なぜなら、神様が人間を造られたからです。悪魔は神様が憎いので、人間まで憎んでいるのです。勿論、悪魔でさえ、神様に存在をゆるされたものなので、悪魔自身も自分を憎むという狂ったことになる。
従って、悪魔の狂気を去って、謙虚さを持つようにならなければ、神様もイエス・キリストも聖書も理解できない。つまり、謙虚さがあれば、悪魔の罠を避けられるのです。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」 (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.") ― 2026/09/08 12:48
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)
7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。
しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。
法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。
特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。
また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。
そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。
むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。
つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。
しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。
「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。
「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。
また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。
このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。
ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。
要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)
7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。
しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。
法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。
特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。
また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。
そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。
むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。
つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。
しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。
「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。
「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。
また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。
このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。
ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。
要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。
最近のコメント