「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 (マタイによる福音書 第 19 章) (it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God”) ― 2026/09/18 12:58
16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 (マタイによる福音書 第 19 章)
16 Just then a man came up to Jesus and asked, “Teacher, what good thing must I do to get eternal life?”
17 “Why do you ask me about what is good?” Jesus replied. “There is only One who is good. If you want to enter life, keep the commandments.”
18 “Which ones?” he inquired.
Jesus replied, “‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, 19 honor your father and mother,’[c] and ‘love your neighbor as yourself.’[d]”
20 “All these I have kept,” the young man said. “What do I still lack?”
21 Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
22 When the young man heard this, he went away sad, because he had great wealth.
23 Then Jesus said to his disciples, “Truly I tell you, it is hard for someone who is rich to enter the kingdom of heaven. 24 Again I tell you, it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
25 When the disciples heard this, they were greatly astonished and asked, “Who then can be saved?”
+++ +++ +++
これは、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という良く知られたイエス・キリストの言葉の出典です。
この言葉は、明確に、富に対するイエスの警戒を表しています。悪魔の影響下のこの世では、カネや富を多く持って、自分の欲望を満たすことで幸福を得られると考える人は多い。つまり、拝金主義がはびこっている。それを否定したのがイエスの教えなのです。
金持ちになれば、この世で幸福になれる。富はこの世に天国をもたらす、と考えるのが、この世の常識です。それが、神様の教えに反しているとイエス・キリストは教えているのです。つまり、清貧生活の称賛です。
また、イエスは救いを求める青年に対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と述べたが、その青年は金持ちだったので、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った」と聖書は述べている。この世に生きる人は、普通、富やカネを捨てられない。従って、「天に宝を持つ」ことはできない、というのがイエスの教えなのです。これは、本当は革命的な教えなのです。つまり、「カネより神様」を求めるべきだというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世の富を捨てて生きるには、強い信仰心を持って、神様の言葉を追求しなければならない。だから、イエスは「人は神と富に兼ね仕えることはできない。神を選ぶか、富を選ぶか、どちらかだ」と述べて、人間は神様を選ばなければならないことを明確に述べておられる。世界の宗教で、このようにこの世の富を否定した宗教は他にない。キリスト教が一番、信用できるのは、この点にかかっている。
実際、この世で生きながら死後の霊界を見てきた18世紀の神秘家のスウェーデンボルグや現代の臨死体験者によれば、霊界ではカネは無用です。霊界では、想念が全てをもたらすので、念じれば全ての富を得られる。しかし、全ての霊が富のもたらすものを得ることができるので、霊界では貧富の差がなくなる。
霊界では、他の霊に対する優越感を求める心と支配欲がけが剥き出しになる。隣人愛のない心がむき出しになる。この世での、富を求める心の本質が明らかになる。つまり、悪魔の支配を求める心がむき出しになり、そのような魂は霊界の天国には受け入れられない。
つまり、この世で富の力で幸福にった人間は、霊界の天国には入れない。この世で、富の力で成功した人間、有名になった人間は、全てあの世で天国には入れない。だから、ラクダが針の穴を通るより、金持ちが天国に入るのは難しいとイエス・キリストは教えておられるのです。
彼らは、このような神様の愛と信仰と善の光に耐えられず、霊界の闇に移動する。そこは悪魔が支配する地獄です。この世のエリートや富裕層は、霊界の地獄で、皆、悪魔の奴隷になる。だから、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストから許されたスエーデンボルグは、地獄で、生きている間は富裕層やエリートであった多くの人間の霊を見ている。また、この世で宗教家や聖職者であった人間にも会っている。
逆に、生きている間に、素直に神様の教えに従って生きた貧しい人は、「宝を天国に積んだ」ことになり、霊界で満足を得られ、魂は救われる。この意味で、キリスト教は貧者の宗教であり、清貧生活を讃えるものなのです。このような主張をする宗教は他にはない。
日本の仏教でも、悟りを得るには、欲を捨てて精神生活をし、厳しい修行に耐えなければならないと教えている。しかし、真実の悟りとは、この世は悪魔の影響下にあり、悪魔の化身がカネであり、拝金主義は悪魔教だということです。富を持てば、持つだけ、人の心は神様の教えから遠ざかる。それを理解するのが悟りなのです。
さらに、富を愛するよりも、悪を愛する心を持つ人間がいる。愛よりも憎しみを愛する人間もいる。これは、狂った人間の魂であり、それだけ、悪魔に魂を売った人間の姿です。富やカネは彼らにとって、神様に対する憎しみを表す小道具なのです。このように、人間が本来持つ自然な宗教心を憎むのが悪魔であり、或いは、その追随者や召し使い、手下、奴隷なのです。
だから、本質的に富やカネで幸福にはなれないのです。悪魔は、神様が生んだ人間を苦しめて喜ぶ。だから、カネを与えてこの世で幸福にした人間も、霊界では苦しめて喜ぶ。悪魔は神様に勝てないことを知っているからこそ、神様が造られた人間を苦しめて喜ぶ。それは、悪魔に魂を売って、生きている間に幸福になった人間も、死後は、悪魔に苦しめられることを意味する。悪魔は、自分に従う者も、そうでない者も、人間である限り、死後の霊界では苦しめようとする。
だから、神様の子のイエス・キリストは、人間に物質的な幸福を求めて、悪魔に魂を売るなと教えておられるのです。
また、聖母マリアは、余りに多くの人間の魂が地獄に行くのを悲しんで、この世に霊体で現れて、人間に警告を発してられる。これが、今も世界各地で見られる聖母マリアの出現なのです。
聖書は、このように、神様と悪魔の関係を理解しなければ、理解できない。単なる、道徳を書いた書物ではない、
全知全能にして、全善なる神様は、人間が悪魔の罠から逃れて、清貧生活を送り、愛と真理と善を愛することを命じておられるのです。これを信じるのが、霊的な「真実のキリスト教」なのです。
17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 (マタイによる福音書 第 19 章)
16 Just then a man came up to Jesus and asked, “Teacher, what good thing must I do to get eternal life?”
17 “Why do you ask me about what is good?” Jesus replied. “There is only One who is good. If you want to enter life, keep the commandments.”
18 “Which ones?” he inquired.
Jesus replied, “‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, 19 honor your father and mother,’[c] and ‘love your neighbor as yourself.’[d]”
20 “All these I have kept,” the young man said. “What do I still lack?”
21 Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
22 When the young man heard this, he went away sad, because he had great wealth.
23 Then Jesus said to his disciples, “Truly I tell you, it is hard for someone who is rich to enter the kingdom of heaven. 24 Again I tell you, it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
25 When the disciples heard this, they were greatly astonished and asked, “Who then can be saved?”
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これは、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という良く知られたイエス・キリストの言葉の出典です。
この言葉は、明確に、富に対するイエスの警戒を表しています。悪魔の影響下のこの世では、カネや富を多く持って、自分の欲望を満たすことで幸福を得られると考える人は多い。つまり、拝金主義がはびこっている。それを否定したのがイエスの教えなのです。
金持ちになれば、この世で幸福になれる。富はこの世に天国をもたらす、と考えるのが、この世の常識です。それが、神様の教えに反しているとイエス・キリストは教えているのです。つまり、清貧生活の称賛です。
また、イエスは救いを求める青年に対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と述べたが、その青年は金持ちだったので、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った」と聖書は述べている。この世に生きる人は、普通、富やカネを捨てられない。従って、「天に宝を持つ」ことはできない、というのがイエスの教えなのです。これは、本当は革命的な教えなのです。つまり、「カネより神様」を求めるべきだというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世の富を捨てて生きるには、強い信仰心を持って、神様の言葉を追求しなければならない。だから、イエスは「人は神と富に兼ね仕えることはできない。神を選ぶか、富を選ぶか、どちらかだ」と述べて、人間は神様を選ばなければならないことを明確に述べておられる。世界の宗教で、このようにこの世の富を否定した宗教は他にない。キリスト教が一番、信用できるのは、この点にかかっている。
実際、この世で生きながら死後の霊界を見てきた18世紀の神秘家のスウェーデンボルグや現代の臨死体験者によれば、霊界ではカネは無用です。霊界では、想念が全てをもたらすので、念じれば全ての富を得られる。しかし、全ての霊が富のもたらすものを得ることができるので、霊界では貧富の差がなくなる。
霊界では、他の霊に対する優越感を求める心と支配欲がけが剥き出しになる。隣人愛のない心がむき出しになる。この世での、富を求める心の本質が明らかになる。つまり、悪魔の支配を求める心がむき出しになり、そのような魂は霊界の天国には受け入れられない。
つまり、この世で富の力で幸福にった人間は、霊界の天国には入れない。この世で、富の力で成功した人間、有名になった人間は、全てあの世で天国には入れない。だから、ラクダが針の穴を通るより、金持ちが天国に入るのは難しいとイエス・キリストは教えておられるのです。
彼らは、このような神様の愛と信仰と善の光に耐えられず、霊界の闇に移動する。そこは悪魔が支配する地獄です。この世のエリートや富裕層は、霊界の地獄で、皆、悪魔の奴隷になる。だから、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストから許されたスエーデンボルグは、地獄で、生きている間は富裕層やエリートであった多くの人間の霊を見ている。また、この世で宗教家や聖職者であった人間にも会っている。
逆に、生きている間に、素直に神様の教えに従って生きた貧しい人は、「宝を天国に積んだ」ことになり、霊界で満足を得られ、魂は救われる。この意味で、キリスト教は貧者の宗教であり、清貧生活を讃えるものなのです。このような主張をする宗教は他にはない。
日本の仏教でも、悟りを得るには、欲を捨てて精神生活をし、厳しい修行に耐えなければならないと教えている。しかし、真実の悟りとは、この世は悪魔の影響下にあり、悪魔の化身がカネであり、拝金主義は悪魔教だということです。富を持てば、持つだけ、人の心は神様の教えから遠ざかる。それを理解するのが悟りなのです。
さらに、富を愛するよりも、悪を愛する心を持つ人間がいる。愛よりも憎しみを愛する人間もいる。これは、狂った人間の魂であり、それだけ、悪魔に魂を売った人間の姿です。富やカネは彼らにとって、神様に対する憎しみを表す小道具なのです。このように、人間が本来持つ自然な宗教心を憎むのが悪魔であり、或いは、その追随者や召し使い、手下、奴隷なのです。
だから、本質的に富やカネで幸福にはなれないのです。悪魔は、神様が生んだ人間を苦しめて喜ぶ。だから、カネを与えてこの世で幸福にした人間も、霊界では苦しめて喜ぶ。悪魔は神様に勝てないことを知っているからこそ、神様が造られた人間を苦しめて喜ぶ。それは、悪魔に魂を売って、生きている間に幸福になった人間も、死後は、悪魔に苦しめられることを意味する。悪魔は、自分に従う者も、そうでない者も、人間である限り、死後の霊界では苦しめようとする。
だから、神様の子のイエス・キリストは、人間に物質的な幸福を求めて、悪魔に魂を売るなと教えておられるのです。
また、聖母マリアは、余りに多くの人間の魂が地獄に行くのを悲しんで、この世に霊体で現れて、人間に警告を発してられる。これが、今も世界各地で見られる聖母マリアの出現なのです。
聖書は、このように、神様と悪魔の関係を理解しなければ、理解できない。単なる、道徳を書いた書物ではない、
全知全能にして、全善なる神様は、人間が悪魔の罠から逃れて、清貧生活を送り、愛と真理と善を愛することを命じておられるのです。これを信じるのが、霊的な「真実のキリスト教」なのです。
「燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」 (ルカによる福音書 第 8 章) (they put it on a stand, so that those who come in can see the light) ― 2026/09/17 12:46
16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。
17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 (ルカによる福音書 第 8 章)
16 “No one lights a lamp and hides it in a clay jar or puts it under a bed. Instead, they put it on a stand, so that those who come in can see the light. 17 For there is nothing hidden that will not be disclosed, and nothing concealed that will not be known or brought out into the open. 18 Therefore consider carefully how you listen. Whoever has will be given more; whoever does not have, even what they think they have will be taken from them.”
+++ +++ +++
これも、有名なイエス・キリストの教えです。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられる」というのは、単にこのよの法則のようなものではなく、信仰心のことを述べておられるのです。
真の信仰心を持った者は、さらに信仰心を高める機会を与えられ、ますます信仰心を強めることになるが、表面だけの信仰心しかない者は、その小さな信仰心を失うような誘惑などに会って、さらに信仰心が小さくなる、という意味です。
この世的には、ある思想を持てば、さらにその考えを強めるような機会に恵まれ、ある方向性を持って生きてゆけば、さらに、その方向に推し進めるような機会に出会うということを意味するが、心がその方向から外れれば、ますますその方向への執着心がなくなるということを意味する。
また、「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」とは、政治的な陰謀論や社会的な事件の暴露を肯定するかのような言葉です。日本語でも、「火のない所に、煙は出ない」と言いますが、隠し事はいつかは、人々に知られるということです。また、UFO問題などでも、アメリカ当局によるUFOの隠蔽工作のディスクロージャ活動とも関係する。真実は、いずれ明らかになるはずです。(UFO問題についいては、アメリカのアルテミス計画で明らかになると期待されている。)
そういう隠された真実を暴くのが、ジャーナリストや報道機関の役割であり、民主主義の社会では、重要な役割を担っている。報道関係者は社会のエリートだという考えもこころから生じている。
また、個人が社会の眼から隠れて、人に言えないようなことをやっていても、いずれは明るみに出されるという社会的な法則もある。「全てのひとを永久に騙すことはできないし、同時に誰をも全て騙すことはできない」という法則もある。真実を見抜く人は、どこかにいるものであり、「人の口に壁は立てられない」という言葉もあり。「裸の王様」のたとえ話にように、王様が裸であることを少年が見抜いて公言したように、真実はいつかは人々に知られるのです。
宗教の教祖が、私生活では堕落した生活を送り、寄付金などを毎日、数えるような生活をしていれば、霊能力も薄れ、いかがわしい噂が立ち、信者はやがて離れていく。
イエス・キリストが伝道生活に入ってからは、毎日24時間、弟子たちが身近にいて、イエスの私生活も監視していて、イエスには秘密がなかったので、新約聖書の福音書はイエスの真実の姿を記していると考えられる。それは、超能力者・霊能力者としてのイエス・キリストの姿なのです。
「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない」というのは、神様から霊的能力を与えられた者は、社会で誰にも知られず生きてゆくのではなく、必ず、人々を救うために、神様から与えられた力を世の中で発揮するということを意味する。
だから、貧しい大工であったイエスも、神様から与えられた癒しの力などを使って、人々を救い始められたのです。
また、欧米のキリスト教社会では、過去2千年にわたって、キリスト研究が行われており、隠されていたイエスやキリスト教にかかわる事実が多く発見されている。このような、知的な伝統がヨーロッパ文化のレベルの高さを生み出したものであり、東洋や日本には見られないヨーロッパ文化の進歩をもたらしたのです。
日本の神道や仏教は文明を高めるというよりも、日本人の感性を深める働きをして、ヨーロッパ文化とは異なる方向を向いていたが、宗教者の修業の内容や、日本の霊性の内容は、宗教関係者だけでなく、幅広く一般人にも知られるようになっている。
まさに、精神世界でも「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」ということです。
だから、キリスト教の探求や研究もつきることはない。(これは、仏教や神道でも同じです。)
ただし、個人の秘密や個人情報を握って脅迫をするようなことは、今の社会でも認められていない。イエスの言う秘密の顕在化と個人情報の保護は、別問題です。なお、誰も知らない社会の秘密を知ることで、優越感に浸る人もいるが、それを公にすることで公共の福祉と安全を促進できるのであれば、イエスの言葉に従って、無償で開示すべきであり、そうでないなら、社会の安定のために秘密は守るべきです。
17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 (ルカによる福音書 第 8 章)
16 “No one lights a lamp and hides it in a clay jar or puts it under a bed. Instead, they put it on a stand, so that those who come in can see the light. 17 For there is nothing hidden that will not be disclosed, and nothing concealed that will not be known or brought out into the open. 18 Therefore consider carefully how you listen. Whoever has will be given more; whoever does not have, even what they think they have will be taken from them.”
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これも、有名なイエス・キリストの教えです。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられる」というのは、単にこのよの法則のようなものではなく、信仰心のことを述べておられるのです。
真の信仰心を持った者は、さらに信仰心を高める機会を与えられ、ますます信仰心を強めることになるが、表面だけの信仰心しかない者は、その小さな信仰心を失うような誘惑などに会って、さらに信仰心が小さくなる、という意味です。
この世的には、ある思想を持てば、さらにその考えを強めるような機会に恵まれ、ある方向性を持って生きてゆけば、さらに、その方向に推し進めるような機会に出会うということを意味するが、心がその方向から外れれば、ますますその方向への執着心がなくなるということを意味する。
また、「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」とは、政治的な陰謀論や社会的な事件の暴露を肯定するかのような言葉です。日本語でも、「火のない所に、煙は出ない」と言いますが、隠し事はいつかは、人々に知られるということです。また、UFO問題などでも、アメリカ当局によるUFOの隠蔽工作のディスクロージャ活動とも関係する。真実は、いずれ明らかになるはずです。(UFO問題についいては、アメリカのアルテミス計画で明らかになると期待されている。)
そういう隠された真実を暴くのが、ジャーナリストや報道機関の役割であり、民主主義の社会では、重要な役割を担っている。報道関係者は社会のエリートだという考えもこころから生じている。
また、個人が社会の眼から隠れて、人に言えないようなことをやっていても、いずれは明るみに出されるという社会的な法則もある。「全てのひとを永久に騙すことはできないし、同時に誰をも全て騙すことはできない」という法則もある。真実を見抜く人は、どこかにいるものであり、「人の口に壁は立てられない」という言葉もあり。「裸の王様」のたとえ話にように、王様が裸であることを少年が見抜いて公言したように、真実はいつかは人々に知られるのです。
宗教の教祖が、私生活では堕落した生活を送り、寄付金などを毎日、数えるような生活をしていれば、霊能力も薄れ、いかがわしい噂が立ち、信者はやがて離れていく。
イエス・キリストが伝道生活に入ってからは、毎日24時間、弟子たちが身近にいて、イエスの私生活も監視していて、イエスには秘密がなかったので、新約聖書の福音書はイエスの真実の姿を記していると考えられる。それは、超能力者・霊能力者としてのイエス・キリストの姿なのです。
「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない」というのは、神様から霊的能力を与えられた者は、社会で誰にも知られず生きてゆくのではなく、必ず、人々を救うために、神様から与えられた力を世の中で発揮するということを意味する。
だから、貧しい大工であったイエスも、神様から与えられた癒しの力などを使って、人々を救い始められたのです。
また、欧米のキリスト教社会では、過去2千年にわたって、キリスト研究が行われており、隠されていたイエスやキリスト教にかかわる事実が多く発見されている。このような、知的な伝統がヨーロッパ文化のレベルの高さを生み出したものであり、東洋や日本には見られないヨーロッパ文化の進歩をもたらしたのです。
日本の神道や仏教は文明を高めるというよりも、日本人の感性を深める働きをして、ヨーロッパ文化とは異なる方向を向いていたが、宗教者の修業の内容や、日本の霊性の内容は、宗教関係者だけでなく、幅広く一般人にも知られるようになっている。
まさに、精神世界でも「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」ということです。
だから、キリスト教の探求や研究もつきることはない。(これは、仏教や神道でも同じです。)
ただし、個人の秘密や個人情報を握って脅迫をするようなことは、今の社会でも認められていない。イエスの言う秘密の顕在化と個人情報の保護は、別問題です。なお、誰も知らない社会の秘密を知ることで、優越感に浸る人もいるが、それを公にすることで公共の福祉と安全を促進できるのであれば、イエスの言葉に従って、無償で開示すべきであり、そうでないなら、社会の安定のために秘密は守るべきです。
「ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである」 ("...to others I speak in parables, so that, “‘though seeing, they may not see; though hearing, they may not understand.’") ― 2026/09/16 12:32
10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
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AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
+++ +++ +++
AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」 (マタイによる福音書 第 9 章) (“It is not the healthy who need a doctor, but the sick.") ― 2026/09/15 16:42
10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
+++ +++ +++
これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
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これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録 第 9 章) (“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied.) ― 2026/09/14 17:30
3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 (使徒言行録 第 9 章)
3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying. 12 In a vision he has seen a man named Ananias come and place his hands on him to restore his sight.”
13 “Lord,” Ananias answered, “I have heard many reports about this man and all the harm he has done to your holy people in Jerusalem. 14 And he has come here with authority from the chief priests to arrest all who call on your name.”
15 But the Lord said to Ananias, “Go! This man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 16 I will show him how much he must suffer for my name.”
17 Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord—Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here—has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” 18 Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, 19 and after taking some food, he regained his strength.
19 and after taking some food, he regained his strength.
Saul spent several days with the disciples in Damascus. 20 At once he began to preach in the synagogues that Jesus is the Son of God.
+++ +++ +++
これは、「サウロの回心」と言われる聖書で有名な箇所です。
Wikipediaによれば、「ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い」とされている。
なお、サウロがいつパウロと呼ばれるようになったのかについては、AIでは、「回心した瞬間に急に改名したというより、使徒言行録13章9節からパウロ名義が本文で主に使われ始めたと考えるのが自然です 」と回答している。
いずれにしても、霊となったイエス・キリストが、霊界からこの世のパウロに影響力を及ぼされたのです。このように、キリスト教は霊的な現象が基本となって発展してきた宗教なのです。それは、日本の仏教や神道、修験道などと同じです。
さて、パウロは、その後、熱心にイエスの教えを伝える信徒となった。新約聖書には、パウロが各地の信徒に書き送った書簡が何通も採用されている。Wikipediaでは、「パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている」とされている。
ただし、パウロは、生存中のイエスを知らないので、イエスの12弟子の中には含まれていないが、回心のときのように、霊界から直接にイエス・キリストから言葉をかけられた人間として重要です。ただし、パウロ独自の宗教的判断がその書簡には書かれていると思われるので、18世紀に生きながら霊界を見ることを、霊界の神様(又は、主であるイエス・キリスト) から許されたスウェーデンボルグは、パウロについて、その『霊界日記』の中で、 「彼(パウロ)はその「書簡」の中で、主(イエス・キリスト)が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない」と批判的に述べている。
AIでも、「スウェーデンボルグの神学はキリスト教理解に大きな影響を与え、パウロへの批判的言及もある」とされている。
いずれにしても、パウロは新約聖書を通して、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物です。しかし、霊界を見たスウェーデンボルグが、パウロを批判しているので、今の一般のキリスト教会では、カトリックでもプロテスタントでも、スエーデンボルグに代表される心霊的なキリスト教は受けいれられていない。パウロへの批判は、現在のキリスト教会では受け入れられない。逆に、12弟子の一人であったペテロを初代ローマ法王として、カトリックでは崇めている。ペテロとパウロは、キリスト教の大聖者なのです。
要するに、キリスト教自体が出発点は心霊的な宗教だったのです。むしろ、心霊主義から離れた今のキリスト教会の方が、本来のイエス・キリストから遠ざかっているとも考えられる。
今の教会に行くのも良いが、キリスト教研究は各人が独自にしなければならない。
ダマスコへの途上で、パウロにイエス・キリストの霊が呼びかけたような霊的な経験をすれば、その本人もイエスの正しい教えを理解できるだろうが、まだ、そのような霊的現象は、少数の例外を除いて、ローマ法王にも、普通の神父や牧師にも起こっていない。
スウェーデンボルグが、神様(又は、主であるイエス・キリスト)の霊から霊界を見ることを許されたことを信ずる者と、信じない者の違いが、現代のキリスト教理解の差になって現れている。
しかし、まず聖書を読まなければ、そのような判断も出来ない。日本人は、まず聖書を学ぶべきです。また、スエーデンボルグの著作も読むべきです。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 (使徒言行録 第 9 章)
3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying. 12 In a vision he has seen a man named Ananias come and place his hands on him to restore his sight.”
13 “Lord,” Ananias answered, “I have heard many reports about this man and all the harm he has done to your holy people in Jerusalem. 14 And he has come here with authority from the chief priests to arrest all who call on your name.”
15 But the Lord said to Ananias, “Go! This man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 16 I will show him how much he must suffer for my name.”
17 Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord—Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here—has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” 18 Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, 19 and after taking some food, he regained his strength.
19 and after taking some food, he regained his strength.
Saul spent several days with the disciples in Damascus. 20 At once he began to preach in the synagogues that Jesus is the Son of God.
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これは、「サウロの回心」と言われる聖書で有名な箇所です。
Wikipediaによれば、「ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い」とされている。
なお、サウロがいつパウロと呼ばれるようになったのかについては、AIでは、「回心した瞬間に急に改名したというより、使徒言行録13章9節からパウロ名義が本文で主に使われ始めたと考えるのが自然です 」と回答している。
いずれにしても、霊となったイエス・キリストが、霊界からこの世のパウロに影響力を及ぼされたのです。このように、キリスト教は霊的な現象が基本となって発展してきた宗教なのです。それは、日本の仏教や神道、修験道などと同じです。
さて、パウロは、その後、熱心にイエスの教えを伝える信徒となった。新約聖書には、パウロが各地の信徒に書き送った書簡が何通も採用されている。Wikipediaでは、「パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている」とされている。
ただし、パウロは、生存中のイエスを知らないので、イエスの12弟子の中には含まれていないが、回心のときのように、霊界から直接にイエス・キリストから言葉をかけられた人間として重要です。ただし、パウロ独自の宗教的判断がその書簡には書かれていると思われるので、18世紀に生きながら霊界を見ることを、霊界の神様(又は、主であるイエス・キリスト) から許されたスウェーデンボルグは、パウロについて、その『霊界日記』の中で、 「彼(パウロ)はその「書簡」の中で、主(イエス・キリスト)が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない」と批判的に述べている。
AIでも、「スウェーデンボルグの神学はキリスト教理解に大きな影響を与え、パウロへの批判的言及もある」とされている。
いずれにしても、パウロは新約聖書を通して、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物です。しかし、霊界を見たスウェーデンボルグが、パウロを批判しているので、今の一般のキリスト教会では、カトリックでもプロテスタントでも、スエーデンボルグに代表される心霊的なキリスト教は受けいれられていない。パウロへの批判は、現在のキリスト教会では受け入れられない。逆に、12弟子の一人であったペテロを初代ローマ法王として、カトリックでは崇めている。ペテロとパウロは、キリスト教の大聖者なのです。
要するに、キリスト教自体が出発点は心霊的な宗教だったのです。むしろ、心霊主義から離れた今のキリスト教会の方が、本来のイエス・キリストから遠ざかっているとも考えられる。
今の教会に行くのも良いが、キリスト教研究は各人が独自にしなければならない。
ダマスコへの途上で、パウロにイエス・キリストの霊が呼びかけたような霊的な経験をすれば、その本人もイエスの正しい教えを理解できるだろうが、まだ、そのような霊的現象は、少数の例外を除いて、ローマ法王にも、普通の神父や牧師にも起こっていない。
スウェーデンボルグが、神様(又は、主であるイエス・キリスト)の霊から霊界を見ることを許されたことを信ずる者と、信じない者の違いが、現代のキリスト教理解の差になって現れている。
しかし、まず聖書を読まなければ、そのような判断も出来ない。日本人は、まず聖書を学ぶべきです。また、スエーデンボルグの著作も読むべきです。
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