「生ける水が川となって流れ出るであろう」 (ヨハネによる福音書 第 7 章) (rivers of living water will flow from within them)2026/04/14 08:19

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(ヨハネによる福音書 第 7 章)

37 On the last and greatest day of the festival, Jesus stood and said in a loud voice, “Let anyone who is thirsty come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as Scripture has said, rivers of living water will flow from within them.”[c] 39 By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.

40 On hearing his words, some of the people said, “Surely this man is the Prophet.”

41 Others said, “He is the Messiah.”

Still others asked, “How can the Messiah come from Galilee? 42 Does not Scripture say that the Messiah will come from David’s descendants and from Bethlehem, the town where David lived?” 43 Thus the people were divided because of Jesus.
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イエス・キリストがユダヤ人の間で行った説教の様子が聖書に書かれている。

「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と仰り、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」というのは、霊的な教えです。霊的な欲求というのは、生きている人間にとって必須の水のようなものなのです。それが、信者の身体の中から流れ出るようになると言われている。霊的な力が、信者の体から流れ出るということです。肉体が霊体になるということでもあります。

イエスの信者は、霊体となって、身体から霊的なエネルギーが流れ出るという、霊的な真実を述べておられるのです。

肉体は、物質界に属しているが、霊は霊界に属しており、肉体の超えた力を発揮する。この世の病にもならず、物質的な制約をこえて生きる。霊の水は命を与えるものなので、身体から命がほとばしるということになる。水分の満ちた植物が瑞々しく生命にあふれるように、霊的な力によって人間の生命力は強められ、物質的な体の生命力も強められるのです。肉体の強さをこえた、霊的な強さが人間を生かすのです。

これは、霊界のエネルギーを使って、神様は物質界を造られたということを示している。そして、物質である人間の身体も霊的なエネルギーによって生かされるのです。死後は、身体から霊的なエネルギーが解放され、霊界で人間の霊は生き生きと生きるのです。肉体という制約の中では、霊はその本来の力を十分に発揮することはできない。しかし、肉体的な制約を受けない形で霊を身体の中に持っている者は、霊能者としての力を発揮する。だから、そのような霊能者は、霊的エネルギーを発揮することで、宗教の教祖になったりする。神様の子のイエス・キリストも霊能者だったのです。

しかし、物質界の現象に目をくらまされ、精神的、霊的な現象が見えない、感じられない人間もいる。彼らには、光が見えず、闇の世界を生きているようなものです。愛と真理の光が見えない人間は、この世の闇を生きているようなものです。これは、人によって感受力が異なるので、愛に満ちた生活を送る人間の満足感や充足感は、感受力のない人間には感じれない。英術的な鑑賞力のない人間には、名画も名曲も理解できない。ただ、物質的な力しか理解できない人間には、物欲の織り成す世界しか理解できない。だから、霊的な宗教者は、そのような人間とは全く異なる世界を見、感じることができる。だから、いくら説明しても、理解できない人間には理解できない。人を説得することはむつかしい。その人間に、霊的な感受力が無ければ、霊的な理解はできない。

しかし、人は死ねば、この世から霊界に入る。そのときに、霊眼が開かれ、物質界とは全く異なる霊界の法則を受け入れて生きることになる。そのときに、霊的な神様の教えの意味が理解できるようになる。しかし、生きている間に、霊的な無知のために犯した過ちを人は悔い改めるようになる。例えば、悟りを得た僧侶は物質的な華麗さを求めす、乞食のように見える。霊的な能力のない人間には、その僧侶の真の姿は見えず、貧しい姿を見てバカにする。しかし、その僧侶の霊力が現れたときに、始めて彼を尊敬する。そのように、優れた霊能者が理解されないことも多い。それでも、霊的エネルギーは物質界でも働き、その真実の力を人は認めざるを得ない。このように、霊的な理解力が高まることを、覚醒という。宗教というものは強制するものではなく、相手の覚醒を待たなければならない。だから、宗教的な独裁制というものは間違っている。自由の世界でこそ、真の霊的な宗教が存在する。

要するに、自発的な動機によらねば、精神的、霊的、宗教的な成功は得られない。イエス・キリストの教えも、自由な心で学ばねば無意味なのです。光の見えない人間に、光のことを教えるのは難しい。そういう、限界を心得ておくことも重要なのです。

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