「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」 (ヨハネによる福音書 第 13 章) ("Before the rooster crows, you will disown me three times!") ― 2026/04/13 09:41
34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
36 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)
34 “A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another. 35 By this everyone will know that you are my disciples, if you love one another.”
36 Simon Peter asked him, “Lord, where are you going?”
Jesus replied, “Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later.”
37 Peter asked, “Lord, why can’t I follow you now? I will lay down my life for you.”
38 Then Jesus answered, “Will you really lay down your life for me? Very truly I tell you, before the rooster crows, you will disown me three times!"
+++ +++ +++
イエス・キリストがペテロに言われたこの言葉は、聖書の中でも有名な予言になっている。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」という予言の通りに、ペテロはイエスがローマ兵たちに捕らえられた後に、自分も逮捕されるのを恐れて、三度もイエスのことを知らないと言い、その直後に鶏が夜明けを告げたという情景が聖書に述べられている。
いかに、ローマ兵に捕らえられることが恐ろしいことだったのかが分かる。キリスト教が広まる前のヨーロッパでは、残虐な罰が平気で行われており、ローマ軍の残虐さは有名だった。ローマ兵に捕らえられることは死を意味したのです。ペテロはローマ軍と戦うために、イエスに従っていたのではなく、神様の与える恵みの中で平和に生きるために、イエスの霊能力にひかれて、イエスに従っていただけなのです。その自分が、ローマ兵に逮捕されるイエスの道連れになって苦しむことなどは、ペテロの頭にはなかったのです。
イエス・キリストは、その霊能力で、当然、天の軍勢を呼んで、ローマ軍を蹴散らすと信じていたのに、イエスは易々とローマ兵に逮捕されるという。ペテロは神様の威力すら信じられなくなったと思われる。そういう信仰の弱さを見抜いて、イエスがペテロの言動を予言したのです。
実際、ペテロなどの弟子に多くの奇跡を見せてきたイエス・キリストなら、ローマ兵などから逃れたり、一時的に姿を隠すなどできたはずです。しかし、この逮捕そのものが神様の認められた筋書きだと理解したイエスは、その運命を受けいれることにし、他方、十字架の刑にかけられて死ぬことをイエ自身が受け入れられたという信じ難い事実に直面したペテロは、自分はイエス・キリストの弟子ではないと言い逃れをして、イエスの道ずれになるのを避けたのです。神様の威力すら疑ったのです。
それだけに、十字架上の死からイエス・キリストが蘇ったのを知ったときの、ペテロの驚きと、神様の威力を疑った自分を恥じる気持ちは大きかった。ペテロの心の暗闇が一気に晴れたのです。この時の歓喜が、初期のキリスト信仰者の力強い伝道の行いに現れている。
今でも、なぜ全知全能の神様が、ご自分の子のイエスが、人間界で殺されるのを放置したのかという理由が議論されている。イエス・キリストが十字架上で殺されなくても、イエスの教えを人間界で広める方法は、他にもあったのではないかという考えです。例えば、イエス・キリストをユダヤの王やローマ帝国の皇帝とすれば、人々は黙っていても、イエス・キリストの教えに従っていただろうと考えられる。あるいは、イエスが大富豪となっていれば、ユダヤ教の祭司やローマ軍の司令官もイエスの生き方を尊敬していただろう。しかし、神様はイエス・キリストがインチキ宗教家のように、権力者によって逮捕され、刑死することを望まれた。それほど、人間界に影響を与える悪魔と戦うには、死をも恐れない強い信仰心を持つべきことを神様は、一人子のイエス・キリストを犠牲にしてまで、人々に教えようとした。
これは、悪魔の狡猾さ、凶悪さ、図太さを知らなければ、理解できないことなのです。
今の世の中でも、人々は悪魔の手の内を知ることなく、悪魔の計略に乗せられ、知らないうちに悪魔の洗脳を受け、神様に敵対する生き方をしている。悪魔は死の恐怖で人々を脅し、他方、富の誘惑で人々を惑わし、狂気の生き方を教え込んで、真理から人々の心を遠ざけている。悪魔は、自分は最後には地獄で神様に滅ぼされることを知っており、多くの人間の魂を道連れにしようとしている。悪魔は狂っており、神様の一人子を殺害するという狂気の行動を取った。もはや、悪魔が許されることはなく、悪魔には永遠の消滅が約束されたことになる。
ペテロなどの当時の弟子には、このような悪魔との戦いが命がけであることを理解出なかった。しかし、イエス・キリストが文字通り命をかけて悪魔と戦ったことを見て、彼らの信仰心は大きな衝撃によって鍛えられ、それ以降は、死をも恐れぬ信仰者となったのです。神様の教えや、神様の与えくれる霊能力で、この世で平和に幸福に生きることだけが、キリスト教の目的ではない。むしろ、悪魔との熾烈な戦いがキリスト教の本質なのです。だから、初期のキリスト教世界では、多くの殉教者が出て、死をも恐れず布教に努めたのです。そして、イエス・キリストの教えは世界に広まっていったのです。
だから、今でも、血塗られた十字架上のイエスの像がキリスト教のシンボルとなっているのは、そのような悪魔の残虐さを思い起こし、死をも超えた信仰心を持てというイエス・キリストの教えの象徴だからなのです。
キリスト教の教える天国に入るには、悪魔との熾烈な戦いを経なければならない。その一例が、ペテロによるイエス・キリストの否認なのです。悪魔はペテロに死を恐れさせ、神様の子、イエスを見殺しにするという罪を犯させたのです。そのペテロの後悔が、2千年後の今日までバチカンには残っているのです。カトリックを理解するには、この初代法王と言われるペテロの、「イエスの否認」に対する後悔を理解しなければならない。
35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
36 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。(ヨハネによる福音書 第 13 章)
34 “A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another. 35 By this everyone will know that you are my disciples, if you love one another.”
36 Simon Peter asked him, “Lord, where are you going?”
Jesus replied, “Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later.”
37 Peter asked, “Lord, why can’t I follow you now? I will lay down my life for you.”
38 Then Jesus answered, “Will you really lay down your life for me? Very truly I tell you, before the rooster crows, you will disown me three times!"
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イエス・キリストがペテロに言われたこの言葉は、聖書の中でも有名な予言になっている。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」という予言の通りに、ペテロはイエスがローマ兵たちに捕らえられた後に、自分も逮捕されるのを恐れて、三度もイエスのことを知らないと言い、その直後に鶏が夜明けを告げたという情景が聖書に述べられている。
いかに、ローマ兵に捕らえられることが恐ろしいことだったのかが分かる。キリスト教が広まる前のヨーロッパでは、残虐な罰が平気で行われており、ローマ軍の残虐さは有名だった。ローマ兵に捕らえられることは死を意味したのです。ペテロはローマ軍と戦うために、イエスに従っていたのではなく、神様の与える恵みの中で平和に生きるために、イエスの霊能力にひかれて、イエスに従っていただけなのです。その自分が、ローマ兵に逮捕されるイエスの道連れになって苦しむことなどは、ペテロの頭にはなかったのです。
イエス・キリストは、その霊能力で、当然、天の軍勢を呼んで、ローマ軍を蹴散らすと信じていたのに、イエスは易々とローマ兵に逮捕されるという。ペテロは神様の威力すら信じられなくなったと思われる。そういう信仰の弱さを見抜いて、イエスがペテロの言動を予言したのです。
実際、ペテロなどの弟子に多くの奇跡を見せてきたイエス・キリストなら、ローマ兵などから逃れたり、一時的に姿を隠すなどできたはずです。しかし、この逮捕そのものが神様の認められた筋書きだと理解したイエスは、その運命を受けいれることにし、他方、十字架の刑にかけられて死ぬことをイエ自身が受け入れられたという信じ難い事実に直面したペテロは、自分はイエス・キリストの弟子ではないと言い逃れをして、イエスの道ずれになるのを避けたのです。神様の威力すら疑ったのです。
それだけに、十字架上の死からイエス・キリストが蘇ったのを知ったときの、ペテロの驚きと、神様の威力を疑った自分を恥じる気持ちは大きかった。ペテロの心の暗闇が一気に晴れたのです。この時の歓喜が、初期のキリスト信仰者の力強い伝道の行いに現れている。
今でも、なぜ全知全能の神様が、ご自分の子のイエスが、人間界で殺されるのを放置したのかという理由が議論されている。イエス・キリストが十字架上で殺されなくても、イエスの教えを人間界で広める方法は、他にもあったのではないかという考えです。例えば、イエス・キリストをユダヤの王やローマ帝国の皇帝とすれば、人々は黙っていても、イエス・キリストの教えに従っていただろうと考えられる。あるいは、イエスが大富豪となっていれば、ユダヤ教の祭司やローマ軍の司令官もイエスの生き方を尊敬していただろう。しかし、神様はイエス・キリストがインチキ宗教家のように、権力者によって逮捕され、刑死することを望まれた。それほど、人間界に影響を与える悪魔と戦うには、死をも恐れない強い信仰心を持つべきことを神様は、一人子のイエス・キリストを犠牲にしてまで、人々に教えようとした。
これは、悪魔の狡猾さ、凶悪さ、図太さを知らなければ、理解できないことなのです。
今の世の中でも、人々は悪魔の手の内を知ることなく、悪魔の計略に乗せられ、知らないうちに悪魔の洗脳を受け、神様に敵対する生き方をしている。悪魔は死の恐怖で人々を脅し、他方、富の誘惑で人々を惑わし、狂気の生き方を教え込んで、真理から人々の心を遠ざけている。悪魔は、自分は最後には地獄で神様に滅ぼされることを知っており、多くの人間の魂を道連れにしようとしている。悪魔は狂っており、神様の一人子を殺害するという狂気の行動を取った。もはや、悪魔が許されることはなく、悪魔には永遠の消滅が約束されたことになる。
ペテロなどの当時の弟子には、このような悪魔との戦いが命がけであることを理解出なかった。しかし、イエス・キリストが文字通り命をかけて悪魔と戦ったことを見て、彼らの信仰心は大きな衝撃によって鍛えられ、それ以降は、死をも恐れぬ信仰者となったのです。神様の教えや、神様の与えくれる霊能力で、この世で平和に幸福に生きることだけが、キリスト教の目的ではない。むしろ、悪魔との熾烈な戦いがキリスト教の本質なのです。だから、初期のキリスト教世界では、多くの殉教者が出て、死をも恐れず布教に努めたのです。そして、イエス・キリストの教えは世界に広まっていったのです。
だから、今でも、血塗られた十字架上のイエスの像がキリスト教のシンボルとなっているのは、そのような悪魔の残虐さを思い起こし、死をも超えた信仰心を持てというイエス・キリストの教えの象徴だからなのです。
キリスト教の教える天国に入るには、悪魔との熾烈な戦いを経なければならない。その一例が、ペテロによるイエス・キリストの否認なのです。悪魔はペテロに死を恐れさせ、神様の子、イエスを見殺しにするという罪を犯させたのです。そのペテロの後悔が、2千年後の今日までバチカンには残っているのです。カトリックを理解するには、この初代法王と言われるペテロの、「イエスの否認」に対する後悔を理解しなければならない。
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