「九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行け」 ― 2025/04/17 21:58
「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」(マタイによる福音書 18:12~13)
If a man owns a hundred sheep, and one of them wanders away, will he not leave the ninety-nine on the hills and go to look for the one that wandered off? And if he finds it, truly I tell you, he is happier about that one sheep than about the ninety-nine that did not wander off.
+++ +++ +++
このイエスの教えは、やや難解です。現在の民主主義の世界では、少数者より多数の幸福が優先される。ただし、マイノリティーだということを理由として、おかしな少数者の権利を強調する人もいる。
このイエスの教えを、正しく理解するには、高い霊格を必要とする。反キリスト勢力などは、この教えをたてに、イエスの教えに反した主張や行動をする。少数者であれば、何でも正しいということにはならない。特に、男女の違いは神様が決めたことであり、遺伝子的にも、DNAにも男女は生物学的に異なったものとして生まれる。その神の定めに反するのは、反キリストであり、キリスト教以外でも、まともな宗教であれば、男女の差を無視するようなことはないし、そのような行為は罪だと定めている。聖書では、そのようなことが行われている社会を、神様が火で滅ぼしたとされている。
100人、人間がいれば、一人くらいは特別な状況に陥るが、その状況は、予言的な状況であったり、全体の存在の基本に関わるものである場合がある。例えば、戦前の日本では、軍国主義や天皇絶対制に従わない人間は非国民とされ迫害されたが、戦後は、軍隊は追放され、天皇は単なる象徴的存在とされた。親米の人間は、戦前は肩身が狭かったが、戦後は社会の主流派となった。
しかし、イエスの言う99人は、神様から恵みを受けて救われている人間を意味し、残りの一人は、神様の恵みが届かなった人間、又は、悪魔の集中攻撃を受けた人間、全員が受けてもおかしくない悲劇を代表して受けている人間を意味し、又は、全員を代表して善悪の試練に立たされている人間を意味する。
今の世の中の役所や政府は、そのような例外的な人間は無視し、平均的な多数を救うことを狙いとしている。だから、制度の隙間に落ちる人間は救済されないことが多い。しかし、そのような例外的な場合に、社会の本質が表れ、社会の民度が試されることが多い。
イエスのたとえ話でも、例外的な人間に、人類に共通する善悪、正邪、信不信、神様への崇拝の度合いが試される場合があることを意味している。100人の中の一人でも悪魔の誘惑に負ける人間がいれば、残りの99人も、いつ悪魔の誘惑に負けてもおかしくない、ということになる。つまり、一人の人間を救わない者は誰も救わないということになる。だから、その一人が救われ、悪魔の誘惑に勝てば、悪魔と戦う天使たちは喜ぶのです。
そういう例外的な一人を罰することなく、愛を持って救うのが、本来のキリスト教社会です。しかし、厳罰主義が正義であるかのような運営が行われている社会や国は多い。特に、専制主義的な社会や国では、厳罰主義が国民を支配する手段として政府に採用されている。要するに、エリートは他人には厳しく、自分は好き勝手なことをやるという傾向がある。
道徳や宗教の範囲から、さ迷い出た人を、探し出して救うのが社会の指導者、宗教家の使命なのです。この意味でマイノリティーの人も、昔のように排斥するのではなく、精神的な治療やコンサルティングを行って、神様の定めた自然の法則に従わせるのが重要です。少数者の権利といえば、犯罪愛好家、残虐趣味の人間も少数者の権利を主張するようになる。殺人愛好家が、少数者の権利を主張して、社会がそれを認めれば世の中は崩壊する。マイノリティーも、本当は自分が異常なことを意識している。権利という法的な問題ではなく、心理的・思想的な問題である場合が多い。
ただし、善悪や宗教の少数者には、悪魔崇拝という狂った行為に走る人間も多い。他人をいじめる快感や支配する快感に酔う人間もいる。これには、単純な善悪の判断が有効です。人間には、神様が与えられた道徳や善を好む心がある。そういう自然な心を大事にしなければならない。
いずれにしても、このイエスのたとえ話は、誰をも隣人愛をもって扱えということです。非宗教的な政治勢力でも、「一人の犠牲者も出すな」というスローガンを使用する。また、「みんなは一人のため、一人はみんなのため」という標語を使う。いかに、イエスの教える隣人愛の教えが影響力を持っているかという証拠です。
例えば、子供が複数人いる家庭で、一人でも病になれば、母親は他の元気な子供を遊ばせておいて、その病気の子供の治療・回復に全力を尽くすものです。一人の子供を救わない母親は、一人の子供も救わなくなり、全部の子供が倒れる。
If a man owns a hundred sheep, and one of them wanders away, will he not leave the ninety-nine on the hills and go to look for the one that wandered off? And if he finds it, truly I tell you, he is happier about that one sheep than about the ninety-nine that did not wander off.
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このイエスの教えは、やや難解です。現在の民主主義の世界では、少数者より多数の幸福が優先される。ただし、マイノリティーだということを理由として、おかしな少数者の権利を強調する人もいる。
このイエスの教えを、正しく理解するには、高い霊格を必要とする。反キリスト勢力などは、この教えをたてに、イエスの教えに反した主張や行動をする。少数者であれば、何でも正しいということにはならない。特に、男女の違いは神様が決めたことであり、遺伝子的にも、DNAにも男女は生物学的に異なったものとして生まれる。その神の定めに反するのは、反キリストであり、キリスト教以外でも、まともな宗教であれば、男女の差を無視するようなことはないし、そのような行為は罪だと定めている。聖書では、そのようなことが行われている社会を、神様が火で滅ぼしたとされている。
100人、人間がいれば、一人くらいは特別な状況に陥るが、その状況は、予言的な状況であったり、全体の存在の基本に関わるものである場合がある。例えば、戦前の日本では、軍国主義や天皇絶対制に従わない人間は非国民とされ迫害されたが、戦後は、軍隊は追放され、天皇は単なる象徴的存在とされた。親米の人間は、戦前は肩身が狭かったが、戦後は社会の主流派となった。
しかし、イエスの言う99人は、神様から恵みを受けて救われている人間を意味し、残りの一人は、神様の恵みが届かなった人間、又は、悪魔の集中攻撃を受けた人間、全員が受けてもおかしくない悲劇を代表して受けている人間を意味し、又は、全員を代表して善悪の試練に立たされている人間を意味する。
今の世の中の役所や政府は、そのような例外的な人間は無視し、平均的な多数を救うことを狙いとしている。だから、制度の隙間に落ちる人間は救済されないことが多い。しかし、そのような例外的な場合に、社会の本質が表れ、社会の民度が試されることが多い。
イエスのたとえ話でも、例外的な人間に、人類に共通する善悪、正邪、信不信、神様への崇拝の度合いが試される場合があることを意味している。100人の中の一人でも悪魔の誘惑に負ける人間がいれば、残りの99人も、いつ悪魔の誘惑に負けてもおかしくない、ということになる。つまり、一人の人間を救わない者は誰も救わないということになる。だから、その一人が救われ、悪魔の誘惑に勝てば、悪魔と戦う天使たちは喜ぶのです。
そういう例外的な一人を罰することなく、愛を持って救うのが、本来のキリスト教社会です。しかし、厳罰主義が正義であるかのような運営が行われている社会や国は多い。特に、専制主義的な社会や国では、厳罰主義が国民を支配する手段として政府に採用されている。要するに、エリートは他人には厳しく、自分は好き勝手なことをやるという傾向がある。
道徳や宗教の範囲から、さ迷い出た人を、探し出して救うのが社会の指導者、宗教家の使命なのです。この意味でマイノリティーの人も、昔のように排斥するのではなく、精神的な治療やコンサルティングを行って、神様の定めた自然の法則に従わせるのが重要です。少数者の権利といえば、犯罪愛好家、残虐趣味の人間も少数者の権利を主張するようになる。殺人愛好家が、少数者の権利を主張して、社会がそれを認めれば世の中は崩壊する。マイノリティーも、本当は自分が異常なことを意識している。権利という法的な問題ではなく、心理的・思想的な問題である場合が多い。
ただし、善悪や宗教の少数者には、悪魔崇拝という狂った行為に走る人間も多い。他人をいじめる快感や支配する快感に酔う人間もいる。これには、単純な善悪の判断が有効です。人間には、神様が与えられた道徳や善を好む心がある。そういう自然な心を大事にしなければならない。
いずれにしても、このイエスのたとえ話は、誰をも隣人愛をもって扱えということです。非宗教的な政治勢力でも、「一人の犠牲者も出すな」というスローガンを使用する。また、「みんなは一人のため、一人はみんなのため」という標語を使う。いかに、イエスの教える隣人愛の教えが影響力を持っているかという証拠です。
例えば、子供が複数人いる家庭で、一人でも病になれば、母親は他の元気な子供を遊ばせておいて、その病気の子供の治療・回復に全力を尽くすものです。一人の子供を救わない母親は、一人の子供も救わなくなり、全部の子供が倒れる。
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